本当はこんな記事、書かないほうがいいのかもしれない。

でももう、書かずにはいられない。

 

好きなものが、時代の変化とともに変わってしまった。

しょうがないことだと頭ではわかっているのに、割り切れない。

 

だれかとこの気持ちを分かち合いたい。

分かち合えずとも、せめてこの想いを聞いてほしい。いや、やっぱり分かち合いたい!!

 

というわけで、15年以上も前の名探偵コナンを懐かしむアラサーの話にお付き合いいただきたい(修学旅行編、紺青の拳についての言及あり)。

 

小学生のわたしを夢中にさせた『名探偵コナン』

わたしは小さい頃から、コナンが大好きだった。

『集められた名探偵 工藤新一vs怪盗キッド』や『鳥取クモ屋敷の怪』、『揺れる警視庁1200万人の人質』はとくにお気に入りで、ビデオテープが擦り切れるくらい繰り返し見ていた(当時はまだVHSが主流である)。

 

パラパラはもちろん完コピしたし、イーカラ(家庭用のカラオケオモチャ)ではコナン曲を歌いまくったし、『謎』や『Secret of my heart』が収録された初代ベストアルバムは20年聞き続けている。

いまはリアルタイムでアニメやマンガは追えていないけれど、2017年に上映された『から紅の恋歌』は映画館で見たし、去年の一時帰国中はコナンのリアル脱出ゲームにも行った(なお脱出失敗)。

 

キャラが魅力的で事件の展開がおもしろいのはもちろんだけど、わたしが夢中になったのはやっぱり、蘭と新一の関係性が好きだったからだと思う。

蘭にとって新一は「いつも一緒にいたのに突然いなくなってしまった幼馴染」であり、コナン(新一)にとって蘭は「いつもとなりにいるのにそれを伝えられないもどかしい相手」。

 

ピンチのとき、蘭が求めるのは新一。

でも新一は、「コナン」としてしかそばにいられない。

そんなコナンに新一の面影を見出す蘭。

 

お互いのことを大好きなくせに素直になれない、たまに話しても憎まれ口ばっかり、でもやっぱりしょっちゅうお互いのこと考えていて……という、甘酸っぱくて切ない関係にキュンキュンしていたのだ。

 

だけど。

令和の時代、そんな蘭や新一はもういない。

 

2020年、わたしが好きだったコナンはもうない

コナンの連載がはじまった当初は携帯電話なんてないから、姿を消したら連絡が取れないのがふつうだった。

だから蘭は新一が帰ってくるのをひたすら待つしかなかったし、公衆電話から時折かかってくる新一からの電話に一喜一憂する。

 

そばにいたいのにいられない。

そばにいるのに伝えられない。ああ無情。

 

だがそれも、今は昔の話。

だいぶ前から蘭もコナンもお互いスマホをもっていて、その気になればいつでも連絡できるようになった。

「姿を消した幼馴染を心配しながら待つ蘭」と「新一としての気持ちを伝えられないコナン」という構図はもうない。

 

なにかあったら蘭はすぐ新一にメッセージを送るし、コナンは新一としてそれに返信する。

 

しかもこのふたり、なんと最近付き合いだしたのだ。

びっくりするでしょ? まじだから。まじで付き合ってるから。

 

……なにそれ!!

 

「どこ行っちゃったんだろ……」とさみしげに新一の家の掃除に行く蘭と、それを横で見てやるせない表情を浮かべるコナンはどこへ!!??

 

いや、そりゃわかるよ。

もう2020年だもん。登場人物がいつまでも公衆電話と家電で連絡とってたらそっちのほうが不自然だわ。

ネット上の恋愛やマッチングアプリでの出会いが一般的になったいま、「会えない」はそこまで恋愛のハンデとはいえないし。

 

わかる。

わかるんだけど。

いまもコナンはめちゃくちゃおもしろいし大好きなんだけど。

 

でも、わたしが夢中になった『名探偵コナン』とはもう、ちがうものになってしまった。

それがとても悲しい。

 

蘭がスマホをもつのは、時代の変化として当然だけど

大勢の命を背負って爆弾を解体する蘭と、壁を隔てて新一の声で「死ぬ時はいっしょだぜ」と微笑むコナン(劇場版第1作、1997年)。

レストランで新一に放置されて「また置いてきぼりか」「言い訳なんて聞きたくない」と涙を浮かべる蘭に、「いつか必ず、絶対に死んでも戻ってくる」と新一からの伝言というかたちでしか言えないコナン(アニメ192話、2000年)。

 

こういうのが好きだった。

会えないから、ほとんど連絡がとれないから、だからこそ感じるふたりの絆があったのだ。

 

海外に行きたいからと都合よく新一の姿に戻って蘭とロンドン旅行に行くなんて展開望んでなかった(コナンだとパスポートがないので出国できない)。

「わたしたち付き合ってるんでしょ?」と女の顔をして新一に腕を絡ませる蘭なんて知りたくなかった。

 

いや、いまもコナンはおもしろいんだよ。

コナン批判じゃないんだよ。

コナンは好きなんだ。

大好きなんだ。

 

ただ、わたしが夢中になった「あのときのコナン」が、時代の変化とともになくなってしまったのがとても悲しくて……。

 

佐藤刑事が松田刑事のメールを消せないっていう気持ち、めっちゃ共感したのに。

いまの中学生は、「大事なメールに鍵をつけて保存する」なんて知らないだろうな。

入力音からボスのメールアドレスを手に入れるなんて、もはや意味がわからないだろうな。

 

時代は変わる。

それに対応しようと思えば、コナンの登場人物だって、物語の展開だって変わる。当然だ。

そう、わかってはいるのに。

 

好きなものが変わっていくのを見て、どう割り切ればいいんだろう?

年を重ねれば、「自分の好きなものが変わってしまった」という経験は多くなる。

通っていた蕎麦屋が2代目になって味が変わったとか、昔遊んでいた公園はいまや漫画喫茶になっているとか、好きだった歌手が10年前の曲をキーを下げて歌っているとか。

 

のび太がしずかちゃんのお風呂をのぞくのが「性犯罪」といわれ、サザエさんも「時代錯誤」と糾弾される。

クレヨンしんちゃんの野原ひろしは「冴えないサラリーマン」キャラだけど、35歳で管理職、マイホームも車ももってるうえ専業主婦の妻と子ども2人を養い犬を飼っている時点で、現代では圧倒的な勝ち組だ。

 

時代が変われば、姿やかたち、価値観や評価も変わる。

毎日年を取っている自分も含め、それが当然のことなのだ。

頭ではそうわかっていても、「自分の好きなものだけは変わらないでいてほしい」なんて都合のいいことを思ってしまうのは、わたしだけだろうか。

 

好きなものの変化に折り合いをつけていかないと、「大人」はつらい。

「昔と今はちがうもんね」と物分かりいい顔をしておかないと。

言ったってしょうがないことなんだから。

 

そう理解はしているけど、やっぱり「あのときのコナンのほうがよかった」と思ってしまうのだ。

「昔は規制がゆるくて好き勝手できてた」「新幹線でタバコを吸ってたんだよ」と懐かしげに語る人たちも、こんな気持ちなのかもしれない。

 

いやでも、そういうのって「老害」っていうんでしょ。

やだね、そうは言われたくないよ。

「時代が変わった」と割り切らないと。

 

でも、じゃあ、どうやって割り切ればいいんだろう?

わたしはただあのときのコナンが好きで、またその興奮と感動を味わいたいだけなんだ。

いまのコナンも好きだけど、やっぱり「あのときのコナンのままでいてほしかった」と、心のどこかで思ってしまうんだよ。

 

コナンとキッドは馴れ合わずもっとバチバチしたライバルでいてほしかったし、哀ちゃんはミステリアスなままでいてほしかったし、白鳥警部は佐藤さん親衛隊として人の恋路に首突っ込んでほしかった。

 

なんども書くけど、わたしはいまのコナンも好きなんだ。

でもそれはあくまで「あのときのコナン」があったからで、それはもうなくなっちゃって……。ああ、悲しい!

 

「大人」たちは、こんな気持ちとどうやって向き合ってきたんだろう?

これからの人生、無数に訪れるであろう「好きなものが変わってしまった瞬間」と、どう折り合いをつけていくべきなんだろう?

 

最近付き合いはじめた蘭と新一に対して「よかったね!」と笑って祝福するには、まだ時間が必要みたいだ。

 

 

 

【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:Tzuhsun Hsu)