まだ私がコンサルタントだったとき、ある起業家と「成功」と「失敗」の話になった。

 

起業に興味のあった、私は聞いた。

「起業するとき、失敗するかもとかって、考えたことありましたか?」

「いや、ないよ。」

彼はこともなげに言った。

 

私は、それでは、と思い言った。

「勝算があったのですね。」

「いや、それもないよ。」

 

私は困ってしまった。

失敗も考えたことがない、勝算があったわけでもない、一体彼は何を思って、起業したのだろう。

すると彼は言った。

「あなたには一生わかんないと思うよ。」

 

私は内心ムッとしたが、お客さんに怒りをあらわにするわけには行かない。

へりくだって、こう尋ねた。

「すみません、なぜでしょうか。」

 

彼は、私を見つめていった。

「そういうとこだよ。あなたには、凄みがない。そう言う人には、説明しても、起業家の心はわからない。」

「……」

 

私は憤懣やるかたない状態であったが、平静を保って黙っていた。

彼は言った。

「世の中には、3種類の人間がいる。成功した人、失敗した人、そして、失敗すらしていない人。

「失敗してない人」には、説明してもわからない。逆に成功者、失敗者には、説明しないでもわかる。」

 

事実、彼の言う通り、永いこと私には彼の真意を理解できなかった。むしろ

「起業家は、サラリーマンを見下している。」

と、あらぬことまで考えてしまっていた。

また、起業家というのは、大抵の場合、「成功を過大に」かつ「失敗を過小に」見積もる人たちの集団であり、彼らは傲慢なのだ、と考えたこともあった。

 

だが、いずれも間違っていた。

彼の言っていたことは、間違いなく本質をついていたのだ。

 

 

ことの本質に気づいたのは、ある政治家と、その取り巻きの関係を見てからだ。

 

その政治家は、対外的には爽やかで、クリーンなイメージを保っていた。

が、裏では傲慢であり、態度のギャップが、私には非常に気になった。

 

私は側近の一人に聞いた。

「エラい裏と表が激しい人ですね。」と。

その方は言った。

「まあ、そんなもんですよ。」

 

そこで、私は率直に聞いた。

「大変じゃないですか?」

「そりゃー、大変ですよ。」

 

「それでもついていこう、という魅力があるんですね?」

「そりゃそうです。先生は体張ってますから。」

 

「体張ってますから……」

 

私はその時、初めて、いろいろなことに、合点がいったのだ。

「体張ってますから」という言葉が、これほどうまくハマったときは、ないだろう。

 

私は自分の無知を恥ずかしく思った。

彼らが言っていたのは、「リスクを取っている人だけが、見える世界がある。」という話だったのだ。

 

「あなたのように、リスクを取ってない人間にはわからないよ。」

と、彼らは言っていた。

 

実際、そのとおりである。

その政治家が、傲慢でも側近たちから許されていたのは、彼が「大きなリスクを取っていた」からだ。

側近たちは、彼の取っているリスクと苦しみを理解してるからこそ、彼に従っている。

 

失敗すれば、起業家も政治家も、虫ケラ同然で、まともな人として扱ってすらもらえない。

だから、リスクを取ると、必死になる。凄みが出る。

偉大な起業家も、政治家も、「傲慢で、怖い人」に見えるのは、当然なのだ。

 

だから、冒頭の経営者は「あなたには、凄みがない、言葉が軽い、リスク取ってないじゃん。」と、私を嗤ったのである。

 

 

 

「リスクをとっている人だけが、見える世界がある。」

は、至るところで見受けられ、軋轢を生む要因ともなっている。

 

たとえば、話題になっていたK-1の開催。

「中止させたいなら、本気でこいよ。俺達は莫大なカネと生活がかかってるんだよ、リスクを取ってないヤツは黙ってろ。」

そう言う態度が、今回の「イベント開催」からは見受けられる。

 

ここで問題なのは、コロナウイルスへの対策が適切かどうかではない。

(もちろん、開催しない方がよいのは間違いない)

問題なのは、コロナウイルスの拡散防止は政治的責任だが、政治家が誰も体を張っておらず、主催者に「要請」などと言って、リスクを丸投げしている点だ。

「逃げ腰」の政治家のいうことなど、リスクを取っている起業家は絶対に聞き入れないだろう。

 

本当に中止にさせたいなら、「憲法無視」と言われるリスクを背負ってでも、政治家が「俺が絶対に開催を止める」と、動けばいい。

でなければ、主催者側のリスクと釣り合わず、納得は得られない。

 

 

同様に、安易に「会社なんて辞めていい」とか「起業しろ」といったアドバイスをすることも許されない。

じゃ、そいつが起業したら、カネだしてやるのか?

そいつが潰れたら、面倒を見てやれるのか、と。

 

そう言う意味では親や身内が「ちょっと嫌なことがあったぐらいで、会社を簡単に辞めるな」と、退職を止めるのは当然だ。

なぜなら、親として、そいつの人生と生活を背負ってるから。

無責任なツイートとは重みが違う。

 

それでもやりたいならやればいい。

「だれもが呆れて、見捨てられるかもしれない状況」こそ、本当のリスクテイクだ。

 

親の方も「あれだけの覚悟でやったのなら」と、失敗したときに面倒を見てやる気持ちにもなるかもしれない。

それが、釣り合いってものだろう。

 

あるいは、こんな話もある。

リスクをフリーランスや下請け、あるいは社員に転嫁してくる会社は、最悪のブラックだ。

フリーランスは常に「切られる」リスクを背負っている。

ならば、使う側も「見限られる」リスクを背負っていなければ、まっとうとは言えない。

こう言う、非対称のリスクを取らせようとしてくる相手とは、まともに付き合う必要がまったくない。

 

 

「ブラック・スワン」を著した、ナシーム・ニコラス・タレブは、リスク・テイクは、勇気であり、最高の善だ、という。

みんなに人気のない真実を支持するのは、はるかに大きな善だ。なぜなら、その人の名声がかかっているから。

追放されるリスクを冒してまで行動するジャーナリストは、まぎれもなく善人だ。

 

一方、みんなが袋叩きにしているのを見て、同じことをしても大丈夫だとわかったところで初めて意見を表明し、おまけに善人面をする連中もいる。

それは善ではなく悪だ。いじめと臆病を足しあわせたようなものなのだ。

 

逆に、「ウチの会社のスキームなら、リスクなく、ウマいこと稼げるんですよ。」と、さも自慢気に語る人々がいるが、大抵の場合、リスクが低いことを自慢するんじゃない、と憎まれる。

人々が憤慨している(すべき)対象は身銭を切らない権力者だということを主張していく。

彼らは相応のリスクを背負うこともなく、権力の座からすべり落ちたり、現在の所得階層や資産階層から抜け落ちたり、炊き出しの列に並んだりする可能性を免れている。

(中略)そういう連中は、その指標を操り、リスクを隠蔽し、ボーナスを受け取り、さっさと引退してしまう(または、別の企業で同じことを一から繰り返す)。そうして、その後の出来事の責任を後継者に押しつけるのだ。

 

起業家や、政治家は、先陣を切り、皆のリスクを肩代わりする存在だからこそ、尊敬されるのだ。

傷を負わない権力者など、迷惑千万である。

 

だから、私はリスクを取っている人々への感謝を忘れてはならないといつも思う。

そして、「リスクを取らないのに、あれこれ口ばかり出す」

とならないよう、肝に銘じている。

 

 

 

 

【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者(tinect.jp)/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

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