前にダイエットでジムに通っていた友達が
「ジムで自分が頑張って走り込んでる時、隣にダラダラとサボってる人がいると、ものすっごいイラッとするんだよね」
と言っていたのを聞いて笑ってしまった事があった。
この話を妻にしたところ
「わかるわー。私も家で家事してる時、あんたがスマホいじってるとイラッとするもん」
と返されて僕は真顔になってしまった。
このように人は自分と他人を比較して幸・不幸を感じる傾向があり、その影響は無視できないほどに大きい。
隣人の年収が増えると、人は不幸になる
理想をいえば、自分は自分、他人は他人である。
けど、現実は他人の不幸は蜜の味である。
不幸を願うまでもいかなくても、私達は他人を本当に強く意識して生きている。
例えば「幸福の計算式」という本の中で
同僚の収入が”増える”と、自分の収入が”同じ額無くなる”ように感じて辛くなるという、衝撃的な研究結果が紹介されている。
自分の年収は一円も減ってないにもかかわらず、隣人が年収アップすると”損”をしたような認知が入り込む。
人間という生き物はまことに難儀である。
前澤さんのお金配りが教えてくれたこと
実はこれと実によく似た現象が、しかも連日Twitterで起きている。前澤さんの毎日10万円プレゼント企画である。
もともと、前澤さんは正月にお年玉と称して年に一回100人に100万円を配っていたが、このコロナ禍でなんと毎日のお金配りである。
「いやあ、天上人は違いますなぁ」
と思ってながめていたのだが、最近になって彼をみてるとイライラしている自分がいる事に気がついて驚いてしまった。
最初は彼の何にイライラするのかよくわからなかったのだが
「誰かが10万円当たったって事を、自分の脳は毎日10万円損してるように感じている」
というロジックに気がつき、とても腹落ちした。
行動経済学的に考えれば、あれは「お金配り」ではなく「損した気持ち配り」だったのだ。
毎日、自分が「当たらない側」だという現実を目にする羽目になる
年一回程度のお年玉RT企画なら
「お、当たった人運が良かったね。おめでとう」
と気軽に流せていた僕だけど、毎日落選するとなると少しはイラッとするらしい。
僕も最初は彼が自称するように元気を配るオジサンに見えていた。
だが、最近は当たらなかった10人以外に
「お前らは運から見放された側の人間だ」
という不幸の告知を振りまき続けている悪魔にみえてきて、一周回って
“こ れ は 凄 い ”
と思うようになってしまった有様である。
僕のように前澤さんに心を折られはじめている人間は、かなり増えてきたんじゃないだろうか?
当人は多分、あの行為を通じて”夢と希望”を振りまいているつもりだと思うのだけど、残念ながら彼が本当に配っているのは当たらない990万人への”現実と絶望”である。
コロナ禍が終わってお金配りが終わった時、その当たらなかった990万人はツキに見放された側の人間だという事が本当に決定づけられる。
僕はその時、大衆が彼にどういう態度をとるのかが今から楽しみで仕方がない。
良かれと思ってやったことで想定外のヘイトを集めているのだから、まったく人生は本当に難しい。
現実を前に夢や希望は圧倒的に無力である
一応フォローしておくと、前澤さんが10万円を配ろうと思った動機は100%善意だったと思う。
夢や希望はよいものだ。
現実は退屈で時に苦痛だったりするが、夢や希望はそれらを明るく照らしてくれる。
そんなもんだから、多くの人は夢と希望を抱えて生きている。
生きてれば、きっといい事がある。
たぶん、多くの人はこういう認知が心のどこか奥底にある。
「そんな事は思ってないよ」
という人もいるかもしれないが、自分が10年後にガチのどん底にいると強く認知している人はそう多くはないだろう。
そんな人にこそ読んで欲しい本がある。
吉川ばんびさんの”年収100万円で生きる-格差都市・東京の肉声”である。
この本は本当に凄い。
まさに夢と希望の真逆のようなエピソードの羅列であり、夢や希望なんてものは現実には完全に無力だという事が嫌というほどよくわかる。
起死回生の策も打てない人生が、この世にはあった
・窓のない密室で、息を潜めて暮らす「トランクルーム難民」
・母の遺骨を抱えながら 「軽自動車に住む男」
・「空き家“不法侵入”生活」
本書に登場する人達の生活は本当に強烈だ。
どれもこれもなんていうか…本当に救いがない。
この本を読んでいて一番僕が興味深く思ったのは、この本に出てくる登場人物の多くは普通に真っ当に日々を頑張って暮らしていたのに、いつの間にか人生が最悪のどん底に落ちていたという事だ。
僕は本を読みながら
「自分がこの人だったら、どうやって起死回生の策を練っただろうか?」
「どこが最終やり直し地点だっただろうか?」
を色々考えてみたのだが、ほとんどのケースはどう考えても破綻以外行き着く先がなく、本当にどうしようもなかった。
最初から将棋でいうところの”詰み”みたいな人生で、何が良かった何が悪かったと検討を加える余地すら無い。
貧困は自己責任論で語られる事も多い。
「年収100万円?なまけてたからでしょ?」
僕を含めてそう思う人は多いと思うのだが、この本ではそういうケースは本当に少ない。
みんながみんな、日々を精一杯生きていたのに、気がついたら取り返しがつかない奈落の底に人生が転落していて、おまけに這い上がろうにも這い上がるルートが消えていた。
奈落の底に転落したら、頑張る事すら最貧困層には許されない。
本当にこんなケースばかりなのである。
僕はこの本を読んでいて本当に背筋が凍る思いをした。
「たまたま自分は人生そこそこルートに乗れたけど、こんな感じで奈落にいても全然不思議じゃなかったんだな…」
「いや、ひょっとしたらこんな感じで僕も今後は人生が奈落の底に突き進むのかもしれない…」
どのエピソードも、本当にそう感じさせられるリアルなものばかりである。
読んだらどんな真夏の怪談よりも”ゾッ”とする事だけは保証しよう。
夢なんてみる前に、現状に必死でしがみついていこうと背筋がシャンと伸びること請け合いである。
現実を踏みしめることの大切さ
生きるにあたって、夢と希望は大切だ。
小説ですら、胸くそ悪い展開を読まされるとかなり不快になる。
だから現実がお先真っ暗で、明るい希望のようなものが全く見いだせなかったら不快感はそれ以上だ。
夢とか希望に視線を定めたくなる人の気持は痛いほどよくわかる。
けど…最近、僕は夢とか希望のようなものをみると苦しくなるようになってしまった。
特に他人が語ってるのに群がるのはヤバい。破滅の香りすら感じる。
どういう事か。たとえ話を交えて語ってみよう。
以前、キャンプファイヤーをやったとき、焚き火に虫がワラワラ集まってきて驚いた事がある。
何に驚いたかというと、それらの虫の結構な数が焚き火にパチパチと焼かれて死ぬのである。
虫が何を思って焚き火に集まっていたのかは正直わからない。
だけど、人間側の視点からみれば”馬鹿”の一言であろう。
そんなものに群がらず、森の中で普通に静かに暮らしていた方が100倍マシだったはずだ。
けど、夢とか希望に群がってしまう人間も、ひょっとしたら同じようなものなんじゃないだろうか?
キャンプファイヤーにワラワラ集まって焼け死ぬ虫に対して
「森で暮らしてればよかったのに」
と思う事と、前澤さんのタイムラインに必死で書き込んで自己主張をする人に対して
「もうちょっと真面目に現実を生きたほうがいいんじゃないか?」
と感じる事。
僕はこの2つに言いようのない類似性を感じてしまうのである。
もちろん、たまにはカンフル剤のように夢や希望を摂取してもいいだろう。
白馬の王子様が迎えにきてくれる可能性に思いを馳せて、シャンパーニュをクイッとやったり
テスラ株を購入して10年後に100倍になっている可能性を夢見て、ビールをぐびっとやったり
前澤さんの10万円配りをみて、ワクワクしたり
会社をやめて、ネットでメシを食っていく可能性に思いを馳せたり
こういう時間は大切だ。
それを否定しようとは全く思わない。
けれどそれ以上に現実をしっかりと踏みしめる事が、僕には大切に思えてしまうのである。
世の中には普通に頑張って日々を生きていたはずなのに、気がついたらホームレスになっていた人もいる。
だから思うのだ。現実を踏みしめても踏みしめすぎる事はない。
いやむしろ、今よりもちゃんと現実を強く踏みしめないといけないんだな、と。
とりあえず、僕は前澤さんのフォローをそっと外す事にした。
パチパチと焼け死なない為にも、それがとても大切な事のように僕には思えた。
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