僕は若い頃から、ずっと疑問だったのです。

医療業界の給与体系って、おかしいのではないか、って。

 

僕が研修医、あるいは大学病院や市中病院の若手だったとき、アルバイト先の老健施設を持つ病院の院長に、「うちで働かない?」って声をかけられたことが何度かありました。

うちは給料もいいし、毎日の仕事は朝にサッと回診して書類仕事をするくらいで、だいたい午前中で終わるからラクだよ、って。

 

その場ではさすがに聞けなかったので、家で医療従事者用の就職サイトを検索してみると、たしかに、その病院から提示されていた給料は、朝から晩まで働き詰めで、休日も当直や緊急呼び出しで心身ともに疲弊していた僕がもらっていた給料よりも、ずっと高額だったのです。

 

いやしかし、あんなふうに、治すというより、高齢者をうまく軟着陸させるのが目的の病院で働くには、僕はちょっと若すぎるというか、医者としての向上心を失くしたくないしな、とかなんとか自分に言い聞かせて、真面目に転職を考えることはありませんでした。

結局、のちに僕はぶっ壊れてしまって、しばらく休職生活を送ることになったんですけどね。

 

世の中、仕事が忙しかったり、高い技術をもち、成果を挙げたりしている人が高い給料をもらっていると思いがちだけれど、必ずしもそうでもないのです。

プロスポーツ選手や起業家のような「個人」で勝負している人は別として、組織に属して働いていると「この安月給で、なんでこんなに働かされるんだ……」と感じることは少なくありません。

 

その一方で、世の中には、「仕事の内容の割に、高い給料をもらっている(ようにみえる)人」っていうのもいるのですよね。前述した高齢者施設の医者のように。

 

そこで、話題になっていた以下のエントリを読んで、僕もこの『ブルシット・ジョブ──クソどうでもいい仕事の理論』(デヴィッド・グレーバー著/岩波書店)という本を読んでみました。

なぜ、無意味な仕事ばかり増えているのか?──『ブルシット・ジョブ──クソどうでもいい仕事の理論』 – 基本読書(2010年8月10日)

この『ブルシット・ジョブ』は、文化人類学者であるデヴィッド・グレーバーによる「クソどうでもいい仕事」についての理論である。「クソどうでもいい仕事」とはなにかといえば、文字通りとしかいいようがないのだけれども、「その仕事に従事している人がいなくなっても誰も何も困らないような無意味な仕事」のことである。

 

著者が2013年に書いた小論がきっかけとなり、世の中の「ブルシット・ジョブ」に従事している人たちが声をあげはじめたのです。

ちなみに、著者は、自らの造語である「ブルシット・ジョブ」の定義について、さまざまな角度からの検討の末、こう述べています。

最終的な実用的定義=ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。

 

2015年に世論調査代行会社YouGovが行ったイギリスでの世論調査では、こんな結果が出たそうです。

あなたの仕事は「世の中に意味のある貢献をしていますか?」という質問に対しては、おどろくべきことに3分の1以上──37%──が、していないと回答したのである(一方、していると回答したのは50%で、わからないと回答したのが13%だった)。

3人に1人は、自分の仕事は世の中の役に立っていない、と感じながら働いているのです。

 

しかしながら

「ブラック企業で酷使されてボロボロになって辞めることになった」

「仕事がハードなのに給料が安すぎる」

「新型コロナの影響で仕事を失った」

なんて声は溢れているのに

「わたしの仕事は基本的に暇で、誰も読まない市場レポートをたまに書いているだけなのに、コンサルティング料として高給をもらっている。暇すぎてつらいのでやめたい」

なんて呟きは僕のタイムラインにはあらわれてこないのです。

 

その理由を想像すると、もしそんなことをSNSに書けば

「そんな恵まれた環境にいるのに、何が不満なんだ?」

という非難・罵倒にさらされることが自明の理だから、なのでしょう。

 

みんな仕事がなかったり、対価が十分でなかったりして苦しんでいるのに「暇すぎるのに給料はたくさんもらえるなんて、『天国からの嫌味』か?」と。

本人でさえ「つらいけど、自分は客観的にみれば恵まれているはずなのだ」と葛藤してしまうのかもしれません。

 

この『ブルシット・ジョブ』という本は、「多くの人が実感しているのに、怖くて言えなかった世界の秘密」を公開した本だとも言えるのではないでしょうか。

 

 

前述した「ブルシット・ジョブ」の定義は、当事者の主観が重視されるものです。

でも、著者は「殺し屋」はブルシット・ジョブなのか?というような、読者が思いつくような疑問の多くに対しても、先回りして検討・解説しており、かなり説得力があるのです。

 

実際に「ブルシット・ジョブ」をやっていた人たちの生の声も収められていて、読んでいると

「いくら高いサラリーをもらっていても、ちゃんと働きたい人、自分がこれまで積み重ねてきた努力や資格、能力を示したい人にとっては、つらいだろうな」

と思わずにはいられません。

こういう「なんでこれが仕事として成り立っているのか理解困難」な事例が多数出てくるのです。

ゲルテ:わたしは、2010年にオランダの出版社で、受付嬢として働いていました。そこの電話が鳴るのは、たぶん日に一度あるかどうかでした。なので、わたしには別の仕事が二つ三つあてがわれていました。

・キャンディのお皿にミントキャンディを補充すること(ミントキャンディは、会社にいるだれかほかの方々が買い置きしてくれています。わたしはただ、引出しからキャンディをひっつかんで、隣の皿に放るだけでした)。

・週に一度、会議室に行って柱時計のネジを巻くこと(この仕事は、実はけっこう苦痛でした。なんでかというと、もしわたしが忘れたり遅れたりしておもりが落ちようものなら、わたしがその柱時計を修理しろといわれていたからです)。

・いちばん時間を費やした仕事といえば、もうひとりの受付嬢からの化粧品のセールスをなんとかしてあしらうことでした。

 

「業務時間内はずっとこの部屋にいて、電話が鳴ったらその問題に対応してほしい(電話が鳴るのは月に2回くらい)。

対応が遅れないように、勤務時間中は休み時間以外はずっとこの部屋にいるように。私的なネット使用や外部への連絡は禁止する」

ほとんど何もしなくていいのに、それでお金をもらえるなんて最高!

……でもないんですよね、本当に。

 

「時間をつぶす」というのは、そのための行為(ネットとかゲームとかテレビ鑑賞とか読書とか)が許されない状況ではかなり難しいし、苦痛なのです。

いまの世界では、高学歴で難関の資格を持ち、金融、不動産、情報産業などに従事している人の多くが、「専門家」として高い給料をもらいながら、「ブルシット・ジョブ」をやらされているのです。

 

そこで、「自分たちは選ばれたエリートなのだから、暇な時間は堂々とオンラインゲームをやるし、ゴルフのパットを練習する」と開き直れれば、それはそれで良い環境なのだろうけれど、その退屈さと理不尽さに適応できる人というのは、そんなに多くはありません。

かくして、多くの人が、「他者からみたら、羨ましいくらい好待遇のラクな仕事」を手放してしまう。

 

著者は、清掃人やケアワーカーのほうが、コンサルティングファームで読まれないレポートを作成して高給をもらっている人たちよりも、自分の仕事が社会に貢献しているという実感を持っている割合が高いことを紹介しています。

 

不思議なことに、世の中は「人々が日常生活を行っていくために必要な、身体を使う仕事」のほうが低賃金で、「なくても困らない、金融や情報に関する仕事(ブルシット・ジョブ)」の賃金が高いことが多いのです。

 

しかし著者は、「労働」という概念について、キリスト教世界の宗教的な背景なども考えると

「人の役に立つ大事な仕事なのに、なぜこんなに給料が安いのか?」

と思うのは間違っているのかもしれない、と述べています。

 

世の中の多くの人が「やりがいも、やる必要性もない(コンピューターがやったほうがよさそうな)仕事」を続けているなかで、教育とか看護のような仕事は、「やりがいがある」というのがすでに報酬であり、「そんな恵まれた仕事に就いているのに、お金まで求めるのは傲慢だ」とみなされているのではないか、というのです。

いいかえれば、社会に便益(ベネフィット)をもたらすことを選んだ人びとや、とりわけ、みずからが社会に便益をもたらしているという自覚をもつことによろこびを感じる人びとには、中産階級なみの給与や有給休暇、充分な額の退職金を期待する権利はまったくない。

さらに、自分は無意味で有害ですらある仕事をしているという認識に苛まれねばならに人びとは、まさにその理由によって、より多くのお金を報酬として受け取って然るべきだという感覚もまた存在しているのである。

 

このことはいつだって政治レベルにおいてあらわれる。たとえば、イギリスにおいては「緊縮財政」の8年間(2010年のキャメロン政権以降)に、看護師、バスの運転手、消防士、鉄道案内員、救急医療スタッフなど、社会に対し直接にはっきりと便益をもたらしているほとんどすべての公務員の賃金が、実質的に削減された。

その結果、チャリティの食糧配給サービスで生計を立てるフルタイムの看護師があらわれるにまでいたったのである。

 

ところが、政権与党はこの状況をつくりだしたことを誇りに感じるようになっていた。看護師や警察官の昇給を盛り込んだ法案が否決されたとき、歓声をあげた議員たちがいたぐらいである。

この政党はまた、その数年前には、世界経済をほとんど壊滅に追い込んだシティの銀行家たちへの補償金を大幅に増額すべきという大甘の見解をふりまわしたことで悪名高い。にもかかわらず、その政府の人気は依然として衰えを知らなかったのである。

 

そこには以下のような感覚が存在しているようにみえる。すなわち、公益のために献身することを仕事として選択した人びと、あるいはたんに自分の仕事が生産的であり有益であると感じて満足している人びと──こうした人びとこそが、公益のために集団的に犠牲を払うという精神性(エートス)を一方的に引き受けるべきである、という感覚である。

こんなのおかしいだろ、と思うのだけれど、日本でも、某有名病院で医療スタッフのボーナスカットに抗議して多くの看護師が退職した、というニュースに対して、SNSやヤフー掲示板で

「お金のことばっかり言って、患者さんへ尽くす心がない看護師に担当になってほしくない」

なんてことを書いている人が少なからずいたのです。

 

逆に言えば、どう考えても利用者の借金総額を増やすだけの「リボ払い」を勧める仕事をしている人とか、「マンション買いませんか」と職場に電話してくる人なんていうのは、みんなが「金のためにやっているのだろうな」と解釈して、納得してしまうところもあるんですよね。迷惑だしやめてほしいけど。

 

この「ブルシット・ジョブ」という本と、「そういう仕事」については、思うこと、書きたいことが僕には多すぎるのです。

 

ちなみに、著者は医者というのは、数少ない「高給でブルシットではない仕事」だと言及しています。

実際にその仕事をやっている僕の経験上は、何かが問題になるたびに、効果が不明瞭な書類仕事や会議ばかりが増えていく、ブルシット的な要素はたくさんあるのですが。

 

この本のなかにも、現在の看護師の業務の8割くらいは書類仕事になっている、という記述もありました。

「退院の見込みがない高齢者ばかりが入院している、軟着陸型の病院」と、夜中にひっきりなしに救急車が来るような病院の同年代の勤務医の給料がそんなに変わらない、あるいは、前者のほうが高いことが多いのはなぜか、という問いに、僕はひとつの結論を見出しました。

 

時間が膨大にあって、やりがいを感じにくく、その一方で、それなりに立派な仕事をしているように周囲には見せかけないといけない状況に耐え続けるというのは、けっこう特別な才能や忍耐が必要なことなのです。

 

とくに、医師免許を取って、周りからは「できる人」として扱われ、自分にプライドを持っている人にとっては、中途半端に忙しいよりも、ずっと過酷な環境なのかもしれません。

それこそ「金のため」だと自分に言い聞かせるしかないような。

暇なのにふんぞり返って、私は忙しいんだ、と振る舞うのは、普通の人間にはつらいですよね。

 

この本では、多くの良心的な人が「ブルシット・ジョブで稼ぎ、そのお金で(無償や低賃金、あるいは自分でお金を払って)教育や研究をやっている」という現実が紹介されています。

 

そんなのおかしい、とは思うんですよ。

ただ、これからは「やりがいのある仕事は、お金を払ってやらせてもらう時代」になっていくのかもしれません。

大部分の仕事が「コンピューターにやらせたほうが速いし正確」になっていく世界では、「ベーシックインカム(すべての国民に最低限の生活ができるくらいのお金を基礎収入として配る政策)」を導入したほうが、効率的になっていくはずです。

生産性が低い大部分の人間は、むしろ、働かないほうがいい。

 

でも、そんな世の中を、人々は本当に受け入れられるのだろうか。

好きなこと「だけ」やって生きていけるとしたら、本当にその「好きなこと」は楽しいのだろうか。

 

余談ですが、著者は

「医者というのは、(現在の社会では)わかりやすく人の役に立っていて、それに加え、高い報酬に対する社会の反感も比較的少ない、稀有な仕事」

だとみなしているようです(前述したように、僕からすれば、ブルシットな面はたくさんあるのですが)。

 

そう考えると、最近の大学受験での異様なまでの医学部人気というのは、それなりの理由がある、合理的な選択なのかもしれないな、とも感じたのです。

やってみると、「僕が主治医じゃなかったら、あの人、もう少し長生きできたかもしれないな……」というのが、眠れない夜、頭に浮かんでくる難儀な仕事ではありますけどね。

 

 

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(2020/8/28更新)

 

 

 

【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

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