インターネットには膨大な量の情報が溢れている。
日々、新しい情報が押し寄せてくる。
そして、インターネットより前の時代とは違い、われわれはそれらに対するレスポンスを表明できる。
情報の海に溺れている。
われわれは常に、あるニュースに対するレスポンスを求められているといっていい。
ああいう意見、こういう意見、あんたはどっちに賛成なのか? どっちを攻撃するの? どっちを庇うの?
是非を問う。挙手を願う。
常に選択に迫られている。
だがちょっと待ってほしい、そこで即断即決して旗幟鮮明にする必要があるのか? 本当に選択する必要があるのか?
だれの言葉だか忘れたが(本当に忘れた)、「問いに対する即断を迫るものは、そもそもその問いが妥当か疑え」というような意見を見たことがある。
おれはそれでいいと思う。問いそのものを疑え。
即断しないことによって、あるいはそのことについて言及しないことによって、「おまえは右なのか」、「左であることをごまかしている」、などと言われるかもしれない。
上か下か、西か東か。
単なる日和見主義者、無思考者であるとみなされるかもしれない。
だが、それのなにが悪いのか。気にすることはない。
この世のあらゆる事柄について、その瞬間に自分が考えていること、感じていることなど、その瞬間の単なる感情の振れにすぎないかもしれない。
感情は大切だが、その瞬間の振れを自分の確固たる意見にしてしまうのは危険をともなう。
これまただれの言葉かはっきりしないが(マザー・テレサとされているらしいが)、言葉は行動になる、行動は習慣になる、習慣は性格になる。
51対49で考えていたことを、自分の言葉として前者に賛成と発してしまえば、それが100対0になってしまうこともあるだろう。
はたしてそれはあなたの本当の考えなのだろうか? 感情なのだろうか?
では、どうすればよいのか。
乱暴な言い方をすれば、見ないふりをして、放っておけばいい。
とはいえ、それは忘却を意味しない。
心のどこかで、迷いや疑問のまま、バックグラウンドでひそやかに動かしておけばいい。
でも、ほんのちょっとだけ心のメモリーを稼働させておくのだ。
あるとき、なにかべつの事柄と結びついて、自分の確固たる意見になるかもしれない。
あるとき、自分の考えとして本当に納得できる論理が構築できるかもしれない。
それまでは、あえて言葉にしないことだ。
「よくわからない」ままで、付かず離れず泳がせておくことだ。
無言を甘く見てはいけない。
「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉がある。
おれは帚木蓬生氏の本を一冊読んだだけなので言い切れないが、このような状態を指すのではないだろうか。
判断できないことを、判断しないままで受け入れること。
即座に答えを出さないこと。
むろん、この世には即座に答えを出さなければいけないこともある。
台風などの災害時に避難するかしないか。
自動車を運転中、道路上に障害物があって、左に避けるか右に避けるかブレーキを踏むか。
政治家などになれば、どこかからミサイルが飛んできて、どう判断するかという事態もあるだろう。
多くの人間の命を左右する決断を迫られることもあるだろう。
政治……投票もそのときどきに即座の判断を迫られるものだ。
自分の中で6:4だとしても、一票として6の方を選択する必要がある。
そうすれば、おれの判断は人にとって10:0と見なされる。
それは避けがたいことだ。
いや、しかし。おれはそれすらも拒否してもいいと思う。
もしも熟慮の上で判断がつかなければ、白紙投票も棄権もありだと思う。
これについてはたくさんの異論もあるだろう。
だが、結果的に現状肯定になろうがなんだろうが、納得いかなければ投票しない自由もある。
おれはそれが自由主義、民主主義が包容するものと考える。
政治哲学や権力論について十分な知識を得た上でなきゃ投票しない、という人間がいてもいいだろう。
二日酔いで投票所に行けないやつがいてもいいだろう。
代議制民主主義を根底から否定するやつがいたっていい。
投票率100%は不健全だ。
おれは軽薄に投票所に行くタイプだけれども、そう思う。。
で、インターネットで押し寄せてきているように見える問いのなかに、それほどのものがどれだけあるだろうか。
あなたの激しい憤りは、本当のものだろうか。
本当に即断しなければならないのか?
意見を表明する必要があるのか?
ちょっと待ってから言葉にしてみてもいいことではないか?
もしもインターネット上のおれの人格や発言を知っていて(そんな人は少ないだろうが)、「こいつはこういったジャンルの話には言及しないな」と思うことがあったならば、おれは「ちょっと待っている」と思ってくれればいい。
あるいは、「ずっと考えている」。
あるいは、結局忘れてしまうこともあるだろう。
だったらそれは、忘れてもいいていどのことであって、べつに意見や賛否を表明するほどのことじゃなかったのだ。
そんなことは、往々にして話題自体が流れ去ってしまっている。
「どっちかわからんが、なんとなく」なんて理由で、無理してどちらかの陣営につくことはないのだ。
一方で、はじめ激しい感情、とくに否定の感情を受けることもあるだろう。
「この主張は受け入れがたい!」。だが、それもちょっと待って悪いことはない。
SNSになにか書き込むことで、社会を左右することもない。
おおかたの人間にとってそうだ。
だったら、ちょっと冷ましてみてもいいだろう。
往々にして、自分が第一感でひどい反感を持った主張が、自分の中で掌返しして支持する主張になるなんてことはざらにある。
そうだ、AかBかという問いが、実はAもBも同じことを言っていたり、あるいはまったく違った方向からCという考え方が降ってくるかもしれない。
あるいはDという思想がAやB、あるいはCまでも準備していたものかもしれない。
とりあえずは、冷ますべきだ。
そうして冷ましたものが、また熱を帯びてきた、やはり言わねばならん、そう思ったら言葉にすればいい。
じっくり考えて、言葉にするのは悪いことではない。
思考や感情を言葉に落とし込む過程で、やはりまたなにかしっくりこないことも出てくるだろう。
それはよい機会だ。考え直す余裕はいくらでもある。
わからないなら、また放置しておけばいい。
あるいは、放置することを言明するのもいいだろう。
判断を迫るものは、疑え。
そしてできれば、自分の言葉も疑ってみることだ。
おれはそれを実践できているだろうか。
できているかどうかわからない。
ただ、ネットで巻き起こっている論争のようななにかに、あまり首を突っ込まないようにしている。
危ういのだ、おれが。
ひょっとしたら、すごく否定的な感情をいだいたものが、後から正しいのではないかと思うこともある。
ところが、最初に旗幟鮮明にしてしまっては、それを覆すことに労力がいる。
少なくとも、態度不鮮明にしていたことから、ある意見に賛成を示すよりたいへんなことだ。
たいへんなことはしないにこしたことはない。
もっとも、意見が変わったことを表明すること、その理路を明らかにすることは、価値のあることだ。
是の人にも非の人にも、そういう考え方があるのかという例になるからだ。
結果的に読み手の意見が変わらずとも、たぶんためになることだろう。
また、読み手にはそのような態度を読み取ることによって、得るところがあるように思える。
それにしても、態度が表してしまうかもしれない党派性というのはやっかいなものだ。
ちょっとした考えの違いといったものを、無理やり自分に納得させなければならないこともあるだろう。
敵対する党派のちょっと納得できる意見も、全力で否定しなければいけないこともあるだろう。
そいつはどうなんだろう?
その行き着く先は、人を殺したり、自分が殺されたりすることだ。
極論ではない。内ゲバという実際にあった事実。
それは新選組でもそうだし、連合赤軍についてもそうだ。
敵対する党派によってではなく、本来同じ方向を向いていた者を粛清する、あるいは粛清される。そういうことは、ある。
できるだけ、フラットな立場に自らを置くこと。
それがフラジャイル(弱さ)であろうとも、両面からの攻撃を受け流す。
そいつは身につけて損じゃないコツだろう。
ふわふわと、情勢を眺めるがいい。
自分の意見未確定を否定しなくたっていい。
だからといって、あらゆることに永遠に中立であれ、曖昧であれ、とは言わない。
本当の納得の上で、意見を表明するべきだということだ。
われわれの多くは凡人だ。
第一感で正解にたどり着ける人間は少ない。
頓悟できるのは限られた人だ。おれはそう思っている。
だったら、どっちつかずの時間を大切にしてもいいではないか。そういうことだ。
もちろん、人間、誤るものである。
思わず口に出してしまうこと、書き込んでしまうこともあるだろう。それは仕方ない。
あるいは、自分にとって極論と思えるものを見たとき、「書いた人は思わず即断してしまったのかもしれないな」と考慮してもいいだろう。
もちろん、自分の言葉をすぐに「思わず書いてしまったな」と思えることが必要だ。
そう、つねに自分に対して疑いを持つことだ。
それを即断する必要があるのか。
今、この瞬間に態度を明らかにする必要があるのか。
おそらく、即断すべきことがらはあまり多くない。多くのことは泳がせておいてもよい。
そのなかの少なくないものが、忘れてしまうことかもしれない。それならそれでいいじゃないの。
というわけで、おれという人間は上とも下とも右とも左ともいえないものであろうとしている。
党派というものに警戒心を持っている。
そのとき自分の感じたことを疑うようにしている。
少しでも迷いがあれば、迷ったままにしておこう。
口を塞いでおこう。
あくまで、そう願っているだけだ。
一介の凡人たるおれはそもそも誤る存在だ。
ただ、できるだけ即断の誤りは避けようということだ。
そのうえで、なにか即座に表明してしまって、やはりあとから誤りであると転向することもあるだろう。
だったら、恥を忍んで、むしろ誇ってその転向の理路を示そう。そうありたく願う。
白になびくほうが楽かもしれない。黒に従うほうが他人に評価されるかもしれない。
だが、あえて白とも黒とも決めつけない。即座には決めつけない。
白と黒と両方に攻撃されても耐え忍ぶ。やり過ごす。
そこにはある種の意志が必要とされる。
せめて、その意志だけは持っていたい。
おれはこのように考える。
それを表明する。
あなたはどう考えるだろうか。
即座に是非は問わない。
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(文責-ティネクト株式会社 取締役 倉増京平)
著者名:黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
Twitter:黄金頭
Photo by Unseen Histories