3/8に庵野監督のシン・エヴァンゲリオンをみた。
まず最初に断っておくと、この映画について内容という意味でのネタバレをする事は難しい。
ストーリーにキチンとした骨子のようなものはなく、またそれについて色々聞かされた所で特に視聴の妨げにはならない。
だが、この映画は事前情報無しでできれば見たほうがいい。
なぜならこの映画は小難しい前衛芸術のようなもので、見る人によって本当に見える風景が変わるからだ。
というわけで以下に僕が映画をみた感想を書くが、未視聴の方はできれば視聴後に読んで欲しい。
僕のものの見方に影響されてこの映画を見てしまうのは、物凄く損だと思う。
何でもそうなのだけど、最後までやりきるのって凄いよね
とても正直な事をいうと、視聴後5分ぐらいで帰りたくなった。
なぜならあまりにも映画として面白くないからである。
誰が言ったか忘れたが、かつて「映画は最初の5分みてつまらないと思ったら帰った方がいい。だいたいその予想は裏切らない」という言葉を聞いた事がある。
今までの経験上この原理原則はほぼ外した事はない。
最初の5分がつまらなくて、そこから巻き返した事例はほぼ無いに等しい。
本当に不思議なのだが、面白い映画は最初から最後まで大抵面白く、つまらない映画は最初から最後までつまらない。
そういう意味では、この映画はその事例に反する数少ない例である。
なぜ例外なのかといえば、映画の内容云々以外の部分に見どころが詰まっているからだ。
実はこの映画、前作からなんと9年近い時を経ての続編である。
なんで9年も時間がかかってしまったかと言うと、総監督である庵野さんが作品公開後に鬱をやってしまったからで、その経緯は妻である安野モヨコ氏の漫画に詳しい。
こういう予備知識を持った上でみるとだ。
この映画は物凄くつまらないのだけど、色々な意味で苦労した庵野監督が物凄く頑張って最後まで作り上げてくれた精一杯のもので、その頑張りに色々と励まされてしまうのである。
少し大きめのプロジェクトに関わった人なら誰もがわかってくれると思うのだけど、仕事を最後までやりきるのは本当に難しい。
まして拗れてしまったプロジェクトともなると、その難易度は尋常ではない。
そういう意味では、どんな形であれ最後までキチッと仕事を仕上げてくれた事に対して僕はやっぱり「お疲れ様でした」と思ってしまうし、こんな形であったとしても最後まで仕事をやりきった庵野監督の事を尊敬してしまうのである。
こんなグチャグチャになってしまった仕事を最後までやり通してくれた。
それだけでもう、なんていうか感無量だ。
どんな形であっても、完成させてくれてありがとうである。
卵から壁になったエヴァンゲリオン
そういう話をベースにしてだ。ここからは素直に思った事を書く。
要旨を端的にいうと「エヴァンゲリオンですら保守化してしまうんか」という話である。
この話をする前に、前提として共有したい知識として村上春樹がエルサレム賞の授賞式で語った壁と卵というスピーチをとりあげたい。
知らない人も多いだろうから内容を物凄くかいつまんで説明すると
世の中には巨大な壁のようなシステムがあり、そのシステムは卵のような壊れやすい私達に時に残虐な事を強いる事がある。
システムが間違った事を個人に強要するような事があった時、小説家である自分は個人の味方として常に立ち続けたい。
壁が正しく見える時であっても、そこに例外はない。自分は常に卵のような弱い個人の味方である。
というものだ。
僕は新・旧のエヴァンゲリオンはまさにこの壁と卵を象徴するようなものだと思う。
旧エヴァはなんていうか…凄かった。
確か小学校の高学年だった僕は、あれが夕食の時間帯に普通にテレビで流れてた事に本当にビックリした。
ものすごくグロテスクだったしエッチでドギマギするような展開も多く、なんていうかとてもイケナイモノをキャーと目を手で覆い隠しつつも、指の間を開けてスキマからジッと見る…そういう雰囲気が漂う何かだった。
ロボットものとかアニメとか、そういう枠組みに収まる作品ではない。
社会というシステムに対して強烈に何かのメッセージを突きつけているように否が応でも感じさせられてしまう。
そんな風格が旧エヴァにはあった。
旧エヴァは明らかに卵であり、それについていく事は壁としての冷たい社会に何かを物申すという不思議な擬似的な共感が確かにあったように思う。
旧エヴァは、壁からみれば明らかに間違った事をやっていた。
だから卵である私達はそこに強く惹きつけられたし、壁に対して痛烈な一撃を喰らわせるという快感のようなものを作品を通じて擬似的に感じる事ができた。
人は普通の大人になると、だんだんと壁に取り込まれる
あれから随分と時間がたった。TV版のエヴァンゲリオンが放映されたのは1995年で、2021年である今からなんと26年もの歳月が流れている。
普通の社会人ならペーペーから組織の重鎮となっているような年月である。
実は庵野監督だってその例外ではない。
卵として社会にギラギラしたナイフを突きつける事は35歳の庵野監督にはできたかもしれないけど、60歳ともなれば色々と落ち着いていても不思議ではない。
それだからなのか、シン・エヴァンゲリオンからは卵のニュアンスは驚くほど抜けた。
そして代わりに壁のニュアンスが濃厚に漂う作品となった。
例えばシン・エヴァンゲリオンには旧エヴァだったら絶対に出てこなかったであろう社会的常識を良いものとして説くようなシーンが沢山出てくる。
挨拶をキチンとしろやら、汗水たらして働くのは尊い事だとか、出されたメシを食べるのは礼儀だとか、子育ては大切だとか、大人になるのは偉い事なんだとか。
それこそ「そういうのを全部否定したのがエヴァンゲリオンだったんじゃないの?」と言いたくなるようなシーンが前半とにかく延々と続く。
最初、僕は「いったい何でこんなシーンを庵野監督は入れたんだ?」と随分と思い悩んだ。
いくらなんでも作品としてのテーゼがあまりにも違いすぎたからだ。
考えに考えを重ねた結果…たぶんきっと庵野監督は普通の幸せに満たされてしまった結果、普通の尊さみたいなのに目覚めてしまったのだろうという結論に至った。
これは庵野監督だけに当てはまる話ではなく、中年以降の大人の誰もが通る通過儀礼みたいなものである。
僕もつまらない大人になってしまったのかもしれない
僕も歳をとった。
昔は「挨拶なんて無駄だ」とか「朝礼をやる意味がわからない」と随分と若者らしくイキっていたけれど、最近はそういうものの大切さのようなものに改めて気が付かされる事が本当に多い。
僕自身はあれを価値の再発見のようなニュアンスでみていた。
ただ、見方によってはたぶんこういう言い方だってできるはずだ。
「こいつも随分と社会の色に染まって常識的になった」
「昔は面白かったけど、つまんなくなったな」
と。
たぶん若かった頃の自分が今の自分をみたら「本当につまらない大人」と評すると思う。
それこそ卵だった僕から見れば今の自分は完全に壁側であるシステムの理念に染まった汚い大人だろう。
実際、自分の精神はかなり壁に吸い込まれて取り込まれているようにもみえる。
シン・エヴァンゲリオンという作品は、そういう意味では卵だったかつての庵野監督が「俺も満たされて壁側になったんだ」と、かつての自分への決別を宣言した作品なのだと思う。
具体的に例をあげると、前半には恩師であるジブリの宮崎駿監督への敬意みたいなものが見え透くし、後半は機動戦士ガンダムの富野監督へのリスペクトが感じられる。
こういう技は見えにくい部分では確かにかつての庵野監督もやっていたけど、こんなにも明け透けにやっているのを見せられてしまうと…なんていうか「大人になってしまったんだなぁ」と言わざるをえない。
かつて卵だった庵野監督が作った旧エヴァからは「俺こそが本物で、お前らは偽物だ」という覚悟のようなものすら感じられたし、実際にそれが響いたからこそ社会は一時期エヴァンゲリオンで確かに染まった。
だが、結局35年ほどの歳月はその反逆の寵児であったエヴァンゲリオンですら壁の一部として取り込まれる事を監督自身に選択させた。
僕が思うに、シン・エヴァンゲリオンはシステムに取り込まれ、壁となる事を選択した庵野監督の精神性の物語だ。
これをみて、若い頃の僕なら多分「ふざけるな」と怒りをぶつけていたと思う。
けど、中年となり壁側に精神が同化しつつある自分は庵野監督の選択を何故か心地よく感じてしまうのだから、本当に時の流れというのは残酷だし人間というのは身勝手な生き物である。
人間は成長すると保守化し、システムの中に精神性を吸われていく。
それが、普通の幸せというものを手に入れ、落ち着くという事なのだろう。
普通は確かに凄く幸せだし、それを選ぶことを否定はできないけど…
「大人になんてなりたくない!」
「大人は全然自分たちの事なんてわかってくれない!」
なんだか使い古された青春マンガによく出てきそうなこのセリフだけど、改めて考えてみると最近の自分はそういう青臭い考えを全然持たなくなってしまった。
この青い考えを持たなくなった自分は、随分と精神的には楽になってしまったように思う。
昔はこれを成熟とか発達のようなものだと思っていたけれど、たぶんきっとこれは自分の精神が体制側に吸い取られてしまった事の結果なのだろう。
今の自分は無条件で卵の側にはとてもじゃないけど立てない。
完全にシステムに染まりあがったわけではないけれど、普通に取り込まれる過程で壁としての思考も少なからずインストールされてしまった今の自分は、壁の味方をやる事に違和感をあまり覚えない。
いつまでたっても体制に反逆的な態度を取り続ける事が良いことだとは決して思わないし、卵が完全な善だとも思わない。
だが、それでも卵の象徴のような存在であったエヴァが壁側に取り込まれる姿をみて、冷静であり続けられる程には自分も鈍感ではない。
普通の幸せを手にするという事は楽になるという事だ。
それは簡単には達成できる事ではないし、実際とても維持する事が難しい事でもある。
その選択を選んだ人の事を否定はできないし、普通の幸せをやり抜いている人というのはある種の尊さがある。
だがそれでも…時代を作ったような偉大な人が、普通の幸せに落ち着いてしまった姿を、素直に祝福してよいものなのかどうかについては…正直、答えは出ない。
他人の選択にケチをつけられるほどに傲慢ではありたくない。
けれど、それでも「本当にそれでよかったの?」と思わない自分がいないとは言えない。
いやはや、なんていうかファンっていうのも複雑なもんですね。
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(文責-ティネクト株式会社 取締役 倉増京平)
【著者プロフィール】
都内で勤務医としてまったり生活中。
趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。
twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように
noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます
Photo :Ryo FUKAsawa