世の中の経営者、とりわけオーナー企業の経営トップは「愛社精神」にこだわる人が多い。
しかし誤解を恐れずに言うと、給与所得者として働く労働者に、経営者が考えているような「愛社精神」は存在しない。
にも関わらず、勘違いした会社経営者は的はずれな手段を使って、従業員から会社を愛してもらおうと努力する。
そしてその多くの場合、「愛社精神」を自分への愛と一体化して考え、理不尽極まりない願望を押し付ける。
従業員との“腹を割った”飲み会。
慰労旅行や社員運動会。
さすがに、令和の時代にこんなことで“愛社精神”が高まると勘違いしている経営者はいないと思いたいが、万が一似たようなことをしているのであれば今すぐやめたほうがいい。
従業員の立場から見れば、相当な迷惑だ。
ではなぜ、多くの会社経営者は「愛社精神」などという存在しないものを追いかけるのか。
それは、「それっぽいなにか」を都合よく誤認しているからだが、いったい何を誤認しているのか。
詳しくお話していきたい。
従業員も勘違いしている「あるべき経営者像」
にわかに信じがたいお話かもしれないが、筆者はかつて社員による「クーデター」騒動を経験したことがある。
従業員数800名ほどの中堅企業で、業界では名を知られた会社だったが、債務超過に陥り、従業員の待遇はあらゆる意味で劣悪な状態だった。
例えるなら救急に運び込まれた患者のようなもので、最優先事項は「出血箇所を特定し、手段を選ばず出血を止めること」にある。
言い換えれば、「そのために、最短距離で合理的なことだけをする」ということなのだが、この過程では良くも悪くもあらゆる事が公平だ。
コストに合わない仕事をしている社員は出血の要因なので、コストに見合った仕事を求める。
それが難しければ、コストを落として能力に見合った責任に異動してもらう形で出血を止める。
温情、個人の事情、過去の功績・・・
そういったものは、緊急事態では考慮されない。
より正確に言うと、考えたくても考慮している余裕がない。
今、出血を止めるために役に立つこと以外は、無意味だからだ。
クーデター騒ぎが発生したのは、そんな状況のある日だった。
製造ラインで責任を持つ責任者クラスが10数名、集団で持ち場を放棄してしまった。
そして連名で、経営トップの退任を求め、実現するまで現場に戻らないと告げて出社を拒否した。
その決意は固く、出社拒否は最終的に10日以上に及んだ。
彼らのポジションが欠けることは致命的で、実際に製造ラインは全く機能せず完全に停止してしまう。
状況は非常に深刻で、最後には経営トップの配偶者まで、
「自分が責任を持って経営トップを説得するから、名前だけでもあなたが社長に就くというのはどうか」
と、私にオファーしてきたほどだった。
しかし、雇われマネジャーに過ぎない私が主要株主や債権者・金融機関の了解も得ずに経営トップに就くことなど、非現実的だ。
そんな勝手なことをすれば、ステークホルダーのバランスや思惑が崩れてますます状況を悪化させる。
最悪、銀行はその状況を理由にして債権の回収に入り、会社は完全にとどめを刺されるだろう。
社員たちが求めていたのは最低限、公平で納得できる働き方と職場を提供してくれる経営者だ。
結局この騒動では、私の職権を少し大きく見せかけるような小細工でクーデター騒ぎを収めたのだが、現在では、同社は大きく業績を伸ばし、社員たちの給料も上がり、福利厚生も親会社と同水準で恵まれたものになったそうだ。
言うまでもなく、離職率も大幅に下がり、社員たちは当時よりも明らかに「愛社精神」を持ち、仕事に臨んでいる。
彼らが望んでいたのは、間違いなく「トップの交代」ではなく「この状況」だ。
会社で働く従業員は、経営トップという個人、あるいは会社という存在そのものには、本質的には何も期待していない。
ただ、安心し誇りを持って働ける職場を求めているに過ぎない。
「愛社精神」の本質は、何だろうか?
ここで、一つのデータを見ていただきたい。
(株)ラーニングエージェンシー(旧トーマツ イノベーション)が発表した、2020年版の新入社員意識調査だ。
出典:ラーニングエージェンシー「新入社員3,128名の働き方とキャリアの意識調査結果を発表」
コロナ禍の後に調査された数字であり、新入社員の意識が「安心」に振れて、リスクを避けようという意図があることは明らかだ。
ここでもう一つ、別のデータを見て頂きたい。
出典:独立行政法人労働政策研究・研修機構「完全失業率、有効求人倍率」
先のデータと合わせ、新入社員が「今の会社で働き続けたい」と考える意志は、有効求人倍率や完全失業率と強い相関関係があることが見て取れる。
つまり、有効求人倍率が高く求人が増え失業率が下がると、一つの会社で働き続けようと考える新入社員は減少する。
そしてコロナ禍の中で社会不安が高まると、今所属している会社という「安心感を与えてくれる存在」に心を寄せて依存する。
この構図は、時に古典的とも評される「マズローの欲求5段階説」に通じる。
詳細は避けるが、人は最低限の安心や安全の確保をまず求め、その上で承認欲求や自己実現の欲求に進むという考え方だ。
有効求人倍率が上がり売り手市場であることが盛んに報じられると、人は一つの会社に所属することで得られる安心感に価値を認めなくなる。
そしてより多くの承認を求め、自分のキャリアを高めようと転職など他の会社に目を向け始める。
言い換えれば、「安心・安全」しか提供してくれない会社に対しては、最低限の“愛社精神”しか持てないということだ。
逆に、より責任ある仕事、それに見合った給与や待遇、さらに成長の実感などを提供してくれる会社には、世間の景況感に影響されずただ足元の仕事を見て、全力を尽くすということでもある。
結局のところ、従業員が会社に対して抱く「愛社精神」の正体とは、「安心と誇り」と言い換えてもいいだろう。
従業員は会社から安心と安全を受け取り、そして自分と会社が成長をともにすることで誇りを感じ、会社という存在に初めて愛を感じ始めることができる。
ただしその「愛」とは、肉親に向けられる無条件の愛とは異なり、安心と誇りを奪った途端に一瞬にして冷め、捨てることを全く迷わない。
ロクでなしであっても親や子を嫌いになることは難しいが、会社は10%でも給与をカットするだけで、従業員の「愛社精神」を跡形もなく破壊することができる。
先述のように、私がマネジャーを担った現場では、その多くを見てきた。
従業員の安心と安全、誇りを根こそぎ奪うと、従業員はそれらを取り戻すために、会社を破壊することすら迷わなくなった。
しかし同じ会社、同じ仕事でありながら、安心と安全、誇りを受け取れる環境に変わった今、従業員は生き生きと働き始め、離職率も大幅に下がり新規採用も順調に進んでいる。
このような「愛社精神」は決して、
・従業員との“腹を割った”飲み会
・慰労旅行や社員運動会
などでは醸成されないし、毛の先ほども増えない。
安心と安全という最低限の環境を維持し、そして能力に見合った役割と責任を与え、誇りを持って働ける職場を提供することでのみ醸成される。
結局のところ、「愛社精神」とは、会社が常に成長し続けることでのみ、維持でき育つものだ。
そしてそれは、経営トップと会社の成長次第ということであり、経営トップは、ややこしいことを考えず、自身と会社の成長に全てのリソースを投じるのが正解なのではないだろうか。
愛社精神の正体とはつまるところ、経営トップの覚悟そのものということである。
【安達が東京都主催のイベントに登壇します】
ティネクト代表・安達裕哉が、“成長企業がなぜ投資を避けないのか”をテーマに東京都中小企業サイバーセキュリティ啓発事業のイベントに登壇します。借金=仕入れという視点、そしてセキュリティやDXを“利益を生む投資”とする考え方が学べます。

こんな方におすすめ
・無借金経営を続けているが、事業成長が鈍化している
・DXやサイバーセキュリティに本腰を入れたい経営者
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<2025年7月14日実施予定>
投資と会社の成長を考えよう|成長企業が“投資”を避けない理由とは
借金はコストではなく、未来への仕入れ—— 「直接利益を生まない」とされがちな分野にも、真の成長要素が潜んでいます。【セミナー内容】
1. 投資しなければ成長できない
・借金(金利)は無意味なコストではなく、仕入れである
2. 無借金経営は安全ではなく危険 機会損失と同義
・商売の基本は、「見返りのある経営資源に投資」すること
・1%の金利でお金を仕入れ、5%の利益を上げるのが成長戦略の基本
・金利を無意味なコストと考えるのは「直接利益を生まない」と誤解されているため
・同様の理由で、DXやサイバーセキュリティは後回しにされる
3. サイバーセキュリティは「利益を生む投資」である
・直接利益を生まないと誤解されがちだが、売上に貢献する要素は多数(例:広告、ブランディング)
・大企業・行政との取引には「セキュリティ対策」が必須
・リスク管理の観点からも、「保険」よりも遥かにコストパフォーマンスが良い
・経営者のマインドセットとして、投資=成長のための手段
・サイバーセキュリティ対策は攻守ともに利益を生む手段と考えよう
【登壇者紹介】
安達 裕哉(あだち・ゆうや)
ティネクト株式会社 代表取締役/ワークワンダース株式会社 代表取締役CEO
Deloitteにてコンサルティング業務に従事後、監査法人トーマツの中小企業向けコンサル部門立ち上げに参画。大阪・東京支社長を経て、2013年にティネクト株式会社を設立。
ビジネスメディア「Books&Apps」運営。2023年には生成AIコンサルティングの「ワークワンダース株式会社」も設立。
著書『頭のいい人が話す前に考えていること』(ダイヤモンド社)は累計82万部突破。2023年・2024年と2年連続で“日本一売れたビジネス書”に(トーハン/日販調べ)。
日時:
2025/7/14(月) 16:30-18:00
参加費:無料
Zoomビデオ会議(ログイン不要)を介してストリーミング配信となります。
お申込み・詳細
お申し込みはこちら東京都令和7年度中小企業サイバーセキュリティ啓発事業「経営者向け特別セミナー兼事業説明会フォーム」よりお申込みください
(2025/6/2更新)
【著者プロフィール】
株式会社識学
人間の意識構造に着目した独自の組織マネジメント理論「識学」を活用した組織コンサルティング会社。同社が運営するメディアでは、マネジメント、リーダーシップをはじめ、組織運営に関する様々なコラムをお届けしています。
webサイト:識学総研
Photo:Kevin Dooley