言葉を一生擦ってる

しばらく前に、ネットである言葉の用法が話題になっていた。

それは「一生」である。「一生○○していた」、「一生○○している」のように用いる人たちがいる。

この場合の「一生」は「ずっと」とか「長い間」という意味を誇張したものだろう。

「週末は一生寝ていた」、「この動画で一生笑ってる」、「すばらしいストライクウィッチーズのフィギュアを買うか一生悩んでる」……。

 

「ずっと」とか「長い間」を「一生」と表現すること自体は、べつに珍しくもない。

「一生愛し続ける」、「一生ものの逸品」、「一生のお願い」、「くだらないことに一生悩んでろ」。

もちろん一生ではない。いや、一生のこともあるかもしれない。

 

が、どうも、最近の使われ方には違和感がある。

一生には生というはじまりと死という終わりがある、期限の区切られたものだ。

それをある種の過去形や現在進行的に用いると、なんか変だ。うーん。

 

使っているのは主に若い人たちだが、格闘ゲーム界隈では昔から使われていたともいう。

もちろん、格ゲーというものが大流行したのが1991年の『スト2』だとして、そのころからあったとしても(おれは「ゲーメスト」を買うくらい直撃した世代だけれど、知らなかったが。ずっと続けてきたわけじゃないので、最近はのことはさっぱり知らない)たかだか30年といえば30年だが。

 

あと、ここ一年だかそのくらいでよく見るようになった言葉が「擦る」だ。

いや、「擦る」という意味での「擦る」は知らないわけじゃないけれど、なんかちょっと違うな、という。

 

調べてみると、芸人用語で「同じネタを擦る」というように使うようだ。

そういう業界用語がテレビを通じて伝わったのか。

あるいは、また、格ゲー界隈の言葉だという話もある。

格ゲーという(以下略)だが。いや、また格ゲーか。

 

インターネットと言葉たち

いずれにせよ、かつては限られた人たちの言葉のみが活字となり、世の中に広まったわけだが、今は違う。

インターネットを通じて、たくさんの人の言葉が行き交うようになった。それはもう……すごくたくさんだろう。

 

そんでもって、あるジャンルの中だけで使われていた言葉が、誰かの目にとまって、そのジャンルとは違うところに広まることもあるだろう。

ネットは言葉の坩堝といってもいい。

あるいは、言葉のサラダボウルだろうか。わからんが。

 

いずれにせよ、インターネット登場より前の時代に比べたら、言葉自体の変化も、用法の変化も、新語の登場もずっとスピーディになっているのではないかと想像する。

 

そうだ、想像するだけだ。

おれは高卒のおっさんであって、言語学に通じているわけでもない。

あるいは、Twitterで使われている単語を抽出し、統計を取り解析すると……という技術者でもない。なんとなくの、話だ。

 

言葉は変化する、が

で、若者の言葉だとか、新しい言葉の話になると、「言葉は変化するものだから、正しい言葉なんてものはない」という意見が出てくる。

それはそのとおりだ。

もしも正しい言葉というものがあって、それが守られてきたのであれば、おれたちは……何時代の言葉をしゃべっているのだろうか。まあいい。

 

とはいえ、ちょっと引っかかりも覚えるのである。

「たしかに正しい言葉なるものはないとしても、新しく変化したからといって、べつにそれを支持する理由にもならないよな」と。

 

新しい言葉は生まれる。それはそういうものだ。

とはいえ、べつにそれに忌避感を示すのも、使用を拒否するのも、べつに「正しくない」ことではない。

 

以前、『俗語発掘記 消えたことば辞典』(米川明彦著)という本を読んだことがあるが(オストアンデル! 『俗語発掘記 消えたことば辞典』を読む/関内関外日記)、いかにいろいろの俗語が生まれ、消えていったかということがわかる。

そして、明治、大正時代の人間と、現代人のセンスがたいして変わらないな、ということも。

 

いずれにせよ、新しく生まれる一方、「消えたことば」、「死語になることば」も出てくるわけだ。

 

言葉の淘汰

というわけで、新しい言葉が見つかったからといって、べつにその時点でそれを認め、受容する必要もないのだ。

「文法的におかしい」、「語感が気持ち悪い」、そんな理由で新しい言葉を否定してもいいはずだ。

「その言葉づかいはおかしい」と積極的に言葉にして否定してもいいだろうし、「自分は使わない」という行動で拒否してもいいだろう。

 

あるいは、その言葉を使っていた人たちが「使い飽きた」、「流行が終わった」、「ダサくなった」、「広まりすぎた」などという理由で、使わなくなるということもあるだろう。

 

これが、圧だ。

淘汰圧というのか、選択圧というのか、これまた進化論に通じているのではないのでわからないが、ともかく突然変異して偶然生まれた言葉であれ、(これは自然とは違うところだが)誰かが考えて生み出した新語であれ、こういう圧を受けることは避けられない。

 

それを運良く生き延びたものだけが、定着して使われる。

あるいは、「死語辞典」に載るだけでもたいしたものだろう。

 

そしてまた、強いものが生き残るわけでもない。

たとえば、「新語・流行語」に選ばれるような言葉などは、あるていど多く使われたものだろうが(たまに「それなに?」というのもあって、社会や世代の分断を感じたりもするが)、生き残って使われつづけるとは限らない。

むしろ、すぐに「死語辞典」に行ってしまうような印象すらある。

 

というわけで、新しい言葉がすべて受容されるべきでもないし、そうなるわけでもない。

言語使用者として否定したっていい。

適語生存、おれ一人がどうしようと、生き残るものは勝手に生き残る。

 

だから、気に食わない言葉に、おれは「圧」をかけるぜ、と、そんな姿勢でいこうと思っているわけである。

 

ところで、こういう言葉の生き残りについて、ダーウィニズム的な考え方があるのかな、と思って調べてみたのだが、無学ゆえにわからなんだ。

Wikipediaには「進化言語学」という項目があるが、どうも人間言語の起源に関わる学問のようだ。

おれの考える新語の淘汰なんてものは、まあ「ミーム」の一言で済ましていいのかもしれない。

 

方言や希少言語などについて

などとネット発で広まった言葉だとか、テレビで流行った言葉(けど、CM発の流行語とか最近あまり見なくなったよな)、若者言葉、そんなものについては、みんな好き好きに使ったり使わなかったり、あるいは批判したっていいと思うのだ。

 

が、この言葉ダーウィニズムというのもやや危険な場合があるのかな、と思ったりもする。

社会ダーウィニズム(社会進化論)が、危険な思想に結びついていったように。

 

たとえば、方言だ。おれは南関東は神奈川育ちで、方言というものを意識したことがない。

せいぜい語尾に「べ」とか「だべ」とかつくくらいだ。

元SMAPの中居正広がテレビで喋っているのを聞くと「この感じ」と思う。

でも、たいして標準語と呼ばれるものと遠いとは感じない。

 

が、もっと東京から離れた地方の言葉、祖父母がなにを喋っているのか都会育ちの孫にはわからない、というような方言はどうだろうか。

おそらく滅びつつある。世の中のコンテンツというものは、基本的に標準語で作られているし、標準語を用いることができたほうが、子供の人生も生きやすい。そちらの方が利便性が高い。

標準語の方がこの社会に適しているので、この社会に適している(適者生存のトートロジー)。

 

さらにいえば、少数言語はどうだろうか。

Wikipediaの「少数言語」に載っている定義などより、もっと少数の、消滅しそうな言語をイメージしてほしい。

消滅危機言語といったほうがいいだろうか。

たとえばアイヌ語は消滅危機言語だという。

 

ともかく、文字を持たない言語は、文字のある言語の利便性に負けて滅んでいくかもしれない。

千人に通じる言葉より、百万人に通じる言葉を身に着けた方が、その人の世界は広がる。

そして、生きていた言葉は失われる。

 

その適者生存はどうなのだろうか。

利便性や合理性のもとに、ある文化の基盤をなす言語が消滅してしまう。

むろんそれは単なる利便性の問題ではなく、背景には暴力を伴った侵略や、経済による圧迫などもあるだろう。

意図的に文化を消滅させようという意思が働くこともあるだろう。

たとえば、新疆ウイグル自治区での漢語教育とか。

 

これらについては、単純に「淘汰圧、選択圧に負けたからなくなるのも当然」と言い切っていいものかどうか。

どう表現していいかわからないが、そう簡単な話じゃねえな、と思える。

 

たとえば、日本でも「フランス語公用語化論」はあったし、今現在でも「英語公用語化論」は生きているかもしれない。

「第二公用語」とかになると、また話はやっかいになるから無視するとして、もし世界とやりあっていくには日本語なんて捨ててろとなったらどうする。

子供には英語しか教えない、そしておまえもNHKのニュースキャスターも政治家も今日から英語で喋れ、となったら、反発するよな。

「いや、問題ないけど?」という英語オッケーな人もいるだろうが。

 

他人、とくに体制から強制される言葉については、ちょっと注意したい。

 

忌まわしき「ねさよ運動」の思い出

体制から強制される言葉、で急に思い出に火がついた。

おれの通っていた小学校では「ねさよ運動」というものが行われていた。

一介の公立小学校で行われていたものにも関わらず、ネットで検索すると出てくるだろう。

語尾に「ね、さ、よ」を用いる言葉は汚いので、使うのをやめましょうという運動だ。

 

具体的には、七夕の短冊のようなものに「汚いと思う言葉」を書かされて、それを燃やすという行事が行われた。1980年代中盤から後半のことである。

おれは小学生ながら、これに非常な反発を覚えた。

 

おれが小学生時分、語尾に「ね、さ、よ」をつけていたかどうか、よく覚えていない。

しかし、こんなふうに言葉を燃やしていいものかと憤慨したのだ。小学生なりに。

今現在、おれの母校で行われているかは知らない。でも、あれは間違っていると、今現在のおれは言い切れる。

 

とはいえ、「言葉狩り」と揶揄されるものでも

が、いわゆる「言葉狩り」と呼ばれるものについて、おれはその対象について、ときどきに賛成したり、反対したりする。

たとえば、クレヨンや色鉛筆の「肌色」の名称が廃される。これについては妥当だと思う。

精神障害者や身体障害者への差別的用語がマスメディアで使われなくなる。それも悪くない。

それが差別を助長、あるいは容認しているのならば。

 

もっとも、おれが患っている精神障害である双極性障害も、「躁うつ病」と言ったほうが通りがよく、べつに「躁うつ病」が差別的とは思えない。

さらには「双極症」という用語も使われるようになってきているらしい。

これはべつに差別用語どうこうというより、元となる英語のdisorderやdiseaseやdisabilityの翻訳に関わる問題らしく、そういうケースもある。

 

それはともかく、偏見が根付いてしまった言葉を言い換えることにつて、おれはすべてについて単純に「言葉狩り」とは言いたくない。

社会の常識や、理想とするところについて、言葉も寄り添っていくべきだと思うからだ。そこは、柔軟に行きたい。

「これはポリティカル・コレクトネスだな」と思う用語について、納得できればそれを使う。

 

ただ、たとえば古い作品で用いられている表現について、それをあとから修正するかどうかといった問題については敏感でありたい。

直さないことによって、本質的な部分の毀損を避けられることもあるだろうし、直したことによって本来のメッセージが失われることもある。ケース・バイ・ケースだ。

 

一生擦っていく

というわけで、結局のところ、ケース・バイ・ケースなのだろう。

ただ、「圧をかけていく」というときに、それが言語帝国主義的でないか気にする必要もあるだろうし、「圧をかけられた」というときに、実はそれが現代的に真っ当な指摘であるかもしれない、そんな想像も必要だろう。

 

実にやっかいだぜ言葉。

 

でも、こういう考えは、一生擦っていくしかないのだろう。

(などと遅れてきたおっさんが使うようになると、もうこれらの言葉は使われなくなるかもしれない)

 

 

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(2024/1/22更新)

 

 

 

【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by Volodymyr Hryshchenko