人間は人間を知りすぎてしまった
人間は人間を知りすぎてしまったのだと思う。薬もできていないのに。
人間が人間を知りすぎた。それは主に科学的に知りすぎたということだ。
もちろん、人間は古くから人間を知ろうとしてきた。
遠い天体の動きも知ろうとしたし、目には見えない小さな生物についても知ろうとした。
もちろん、自分自身にもその興味を向けてきただけだ。
骨はどのようにつながっているのか、筋肉はどのようについているのか、内臓はどのような役割を果たしているのか……。
やがて、あるいは最初からかわからないが、とうぜん意識を司っていると考えられる脳についても知るようになる。
あるいは、遺伝というものについて、遺伝というものの子に与える影響まで知るようになる。
もちろん、研究者には、「まだ知っているだなんて言えない」と言われるだろう。
まだまだ天体についても、人体についてもわからないことだらけなのもたしかだ。
人間の心理というものに、脳ではなく大腸がもたらす影響。
そもそも「自由意志は存在するのか」という問題。
それでも、いくらかわかっていることはある。それは顕微鏡の中で確かめられたこともあるだろうし、実験や統計調査を重ね、精査して確定したこともあるだろう。
そんなものの一つが「親ガチャ」ではないだろうか。あ、いまこれが読まれている段階でもう死語になってたら勘弁。
それにしても、親ガチャというスラングが響く社会の、なんと暗いことだろう!
まあ、こちらの記事を拝読して、いくらか違和感を持ったりというところ。
いや、「わかりあう余地」はないなと思ったというのが正直なところで、そのあたりを書く。
*
「親ガチャ」。
なにやらずいぶん軽い言葉だとは思うが、そこには脳を含めた身体の遺伝に関する知識と、文化資本などと呼ばれる生まれた家の豊かさ、あるいは単純に家が金持ちかどうかという、いくつもの「人間の生まれ」が入っている。
一つのカプセルに入っている。あ、いまどきガチャはゲームの話なのかな。まあ、そんなふうに思う。
そして、それに対する薬もない。薬というのは比喩であっても比喩でなくてもよい。
そこで生じる有利不利を均すため、均すというのが悪平等的というのであれば、すべての人間の性能と環境を向上させる、生物学的あるいは社会的な処方箋だ。
医学も政治も思想もその「薬」を求めてきたし、今でも求めていると考えるが、いまのところ人間が人間について知りすぎてしまったことに対して、遅れをとっていると感じる。
薬がないわけでもないが
ある障害や病気が遺伝性を持つ。
いや、まず、背が高いとか低いとか、顔貌とかが遺伝する。
たとえばこの知識は、生物として見た人間にとっては、知りすぎてしまったことだろう。
野生生物はそんなこと知らない。
たまたま足が遅いものたちは捕食者に食われて淘汰されるだろうし、背が低いものたちがたまたま捕食者に見つかりにくく生き延びたりする。
でも、当人たちはそれを知らない。
会議を開いて「今後の方針としては、身体を小形化して草むらでも隠密性を高める方向で進化しよう」とはならないのである。
が、人間は会議を開けてしまう。「遺伝子工学によってガンや感染症に対する免疫力を向上させよう」とか、「老化を遅らせる方向で研究を進めよう」とか言えてしまうのである。
今、実際にそういう技術があるかどうかは別として。
遺伝子工学は一例としても、人間をデザインするというのはそれほどSFじみた話ではない。
とはいえ、そこまで行っていない。
そこには優生思想というきわめて危ない思想に接近してしまう。
たとえば、「(遺伝子の異常をみる)出生前診断は優生思想的ではないのか?」という形でブレーキがかかる。
ブレーキはかかるが、出生前診断によって人工妊娠中絶を選択する人は少なくない。
さらには、新型出生前診断(NIPT)などにより、より簡単に遺伝子異常を解析できるようになった。世界はその診断を選ぶ方向に進んでいるようだ。
とはいえ、それが今生きている遺伝性疾患や障害の持ち主やその家族にとって、その存在を否定するのではないかという議論もある。
はたして未生における疾患や障害の忌避は、彼らの否定につながるのか。人類の課題ではあろう。
このあたりについては、かつて『リベラル優生主義と正義』という本を読んで、いくらか勉強になった。
金の問題だってある
社会的、経済的な薬はあるのだろうか。
これはもうかなりいろいろな考え方があり、イデオロギーが衝突し、わけがわからない。
その国の発展の段階によっても処方箋は違うだろうし、そもそも正しい処方箋があるのかどうかもわからない。
たとえば中国はたいへんな経済発展を遂げたが、それは中国の政治体制や国土、人口、諸外国の情勢などいろいろな要素によって成り立ったことであって、条件の違う国が真似しようとしてうまくいくものでもないだろう。
日本の高度経済成長にしたって、独特の条件があったはずだ。
と、いきなり国になってしまったが、「親ガチャ」というレベルでいえば、貧国に生まれようともごく一部の支配階級に生まれたりしたら、日本のサラリーマンの子供よりかなり恵まれている可能性もある。
日本の中でも、もうかなり可視化されているが、金持ちの家系、政治権力者の家系に生まれたか、そうでないかによって、ずいぶん差がついてしまっている。
たとえば国会における世襲議員の多さなど見るに、もうかなり身分は固定されているといってもいいだろう。
菅義偉が世襲でないところから首相になったりもしているが、特異な例だ。
多くの人は供託金(これは他の民主主義国と比べて日本は非常に高い)が単純に払えないか、払えたとしても払うだけのリスクはおかせない。
地盤も看板もない人間が、立候補するというただそれだけのことのハードルはひどく高い。
あるいは、東大生の親の収入の高さからは、おそらく多くの名門大学の生徒の親も平均に比べて高い稼ぎがあることが類推されたりする。
高学歴から高収入の仕事につながる可能性は、そうでない場合より高いし、今どき結婚などできる階層も、そういった人々に限られてくるだろう。
いや、限られはしないが、貧しさによって結婚や出産を諦める人もいるはずだ。
かしこい人は子供を作るか
して、いくらかかしこい人にとって、果たして自分たちの遺伝子を伝えてできる子供が、恵まれた人生を送ることができるかどうかは考えどころだろう。
自分たちの稼ぎは十分だろうか? 子供に残せるお金があるだろうか?
子供を勝ち組の幸せなコースに乗せることができるだろうか? そもそも、健康に生まれるだろうか?
子供を作る可能性のある人間が、こういった疑問をいだき、いろいろの問題をクリアしようと考えると、どうなるか。
おそらく、出生数は減る。
よほどの余裕、もしくは自らの能力への信頼があってはじめて子供を作ると考える。
なんとなく結婚するのが当たり前で、貧乏子沢山、貧しいながらも楽しい我が家、などというのは、その国のある時代にとっては当たり前のことだったかもしれないが、今の時代にも変わらず通用するものでもない。
もっと大きなスケールでいえば、人類というものがこの地球のどこかで発生して、ここまで血をつないできたのも、たまたまそういう時代が続いてきただけであって、滅びなかったのも単なる偶然でしかない。
人類はたしかに子供を作りつづけてきたのであるが、べつにその「である」から「べき」は導き出せない。ヒュームのギロチン。
自らを知ることによって自ら滅ぶ存在
と、ここまでくると、反出生主義に考えが流れてしまうのがおれである。
人類に「薬」が用意されていない以上、不幸の可能性は未然に防ごう。不幸の生産はいったん止めよう。
いったん止めて、解決策が見つからないのであれば、いま生きている人間がいくらか苦しむかもしれないが(できるかぎり、生きている人間の苦しみは避けるべきだが)、それは運命と諦めて、人類は滅んでもよい。
それが、皮肉にも、ほかの生物と違って自らを知りすぎてしまった人間の帰結ならば、それはそれで仕方ない。
それが知恵の実を選び、生命の実を選ばなかった人の末路だ、などと意味のわからない言葉も浮かんでくる。
「人間とほかの生物を区別する要素」については、いろいろの哲学者などが論じてきたが、その違いは「遊び」でも、「道具を作る道具を作る」でも、その他の意識の問題でもなく、自らを知ることによって自ら滅ぶ存在、なのではないか。
まだ滅んじゃいないんだ、とはいえ
とはいえ、こんな考えは極論だ、と言われればそうであろう。認める。
なんらかの少子化対策によってたくさんの子供を生むようにするべきだ、幸福なものも不幸なものも、健康なものも病気のものも、富んだものも貧しいものも、賢いものも愚かなものも、多くの多様性を持った社会を作っていこうじゃないか、という意見もあるだろう。
それはそれで結構な考えだろうが、おれに与する気持ちはない。
たとえばおれは双極性障害(躁うつ病)を患っている。
双極性障害は、一卵性双生児と二卵性双生児の比較によって遺伝しやすい病気であることがわかっている(具体的にどのような遺伝子の多様性が病気に関係するかは特定されていないが)。
というわけで、おれの双極性障害が遺伝によるものかどうかはわからないが、その可能性は低くない。
たとえばおれは父親が大事な仕事の約束がありながらも臥せってキャンセルする姿を何度も見てきたが、いま考えれば、あれは精神疾患による極度の抑うつ状態だったのではないかと今になって思う。
特定された遺伝子疾患に限らず、遺伝が要因になりうると考えられる病気は少なくない。
おれの場合は精神疾患と考えられるが(これについては父が診断を受けていないので断定できない。デノボ変異かもしれない)、もちろんべつの病気が伝わってしまう可能性もあるだろう。
代表的な生活習慣病である2型糖尿病とて、それになりやすい体質というものは遺伝するのだ。
ああ、おれには父系にも母系にも2型糖尿病がいるぞ。
その発症率はそうでない場合に比べて3倍とも4倍ともいう。野菜を食わねばならない。
まあいい、それは、おれも発症後に、首から上と下が切断されたようになって、まったく動けなくなることがある。
父の姿を思い出す。
動けたとしてもすごくゆっくり、ふざけているのかと思われるくらいにしか動けないこともある。
重力が自分にだけ降り注いでいるのではないかという倦怠感でうすらぼんやりするしかないこともある。
動けないおれの思うこと
動けないおれは、本当に社会の役に立っていないし、家族の役にも、会社の役にも、なにより自分の役にも立っていない。
自分が自分の役に立つとはどういうことか?
まあいい、ともかく人生を生きていない。死んだも一緒だ。
なんなら死んだほうがよい。そのように思う。
そのように思うような人間を再生産することが、「よい」ことだろうか。そうは思わない。
「よい」とは、なにがどう「よい」のか。あるいは「よくない」のか。
道徳的にか、人道的にか、倫理的にか、論理的にか、宗教的にか、心理的にか、社会的にか、経済的にか……どうとも言えない。
ただ、おれにとってそれは「よくない」のだ。
ゆえに、おれ個人としては、その機会があったとしても(ないのだけれど)、自分の子供を持とうとは思わない。
おれはガチャにはならない。それが「よい」。
おれ自身が「親ガチャ」に成功したかどうかと核心的なことを述べれば、「当たりを引いたとは思えない」ということになる。
とはいえ、「はずれ」とも言い切れないのは、自分に与えられた諸条件において、おれがもう少し努力することができれば、がんばることができれば、おれの人生はいくらかましになっていたであろうという確信もあるからだ。
おれには努力ができなかった、がんばることができなかった、勇気がなかった。
それは自己責任だからだ。それが曖昧模糊になっているのがおれの人生だ。
まあ、人の人生などグラデーションではあろう。
もちろん、濃淡の極端さも人によって大いに違う。
だれが見てもこの人については仕方ないと思う場合もあるだろうし、だれが見てもこいつはしょうがねえ野郎だと思う場合もあるだろう。
ちなみに、詩人の寺山修司は「平均で馬券で儲かっていますか?」と聞かれたら、「あなたの人生は平均すると、笑ってますか? 泣いていますか?」と答えたとかなんとか。まあいいか。
これが、病んだことによってとくに自分というものを客体化してしまったおれの認識だ。
そして、この時代のこの国において、そう考える人間が決して少数派とは思えない。
圧倒的多数派とも思わないが、半分くらいはどっかしらそう考えてるんじゃないかな、くらいには思う。
いったい人類の未来はどうなってしまうのだろうか
そして、人類は、畢竟、どうなってしまうのか。
一つの可能性としては、滅ぶ。これである。
あらためていうが、べつに人類は滅んでもかまわない。
もう一つの可能性はなにか。
おれのように親にはなれないという人間、「親ガチャ」に失敗したと思う人間が淘汰され、優秀な人間ばかりが多く生き残るという可能性だ。
人類はある種の劣等者を淘汰して、一段進化する(※警告:優生主義に接近しすぎです)。
優秀というと言葉にバイアスがかかりすぎているかもしれない。
知りすぎてしまった人類の状況に適応できる人類、とでも言えばいいのか。
もちろん、「知らない」人間がほそぼそと繁殖を続けることもあるだろうが、おそらく知っていて子供を作った人間と交わることはないだろう。
恵まれた環境にある親が、自分の子供を「親ガチャに失敗した」と嘆くような子と交わらせたいと思うだろうか。
というわけで、人類は後ろ向きの人間が淘汰され、前向きでいろいろと問題のない人間ばかりになる。
問題のない人間ばかりになった社会は、今より問題が少ないだろう。どうだ明るくなったろう。
「親ガチャ」という言葉がいくらか話題になる社会は、明るい社会への第一歩だ。
……その結果がユートピアかディストピアか、おれにはわからない。
どうせそのころおれは生きていないし、おれの子孫も生きていないのだから、べつにどうなってもかまわない。
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【著者プロフィール】
著者名:黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
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Photo by Kelly Sikkema