人生の秋

かつて、偉大なる詩人である田村隆一はこう述べた。

鼻毛って言えば、男は鼻毛を切って白髪を見つけたときに、“人生の秋”を知るんだ(笑)

 

おれは二十代前半からライフステージというものがほとんど変わっていない。

同じ零細企業の、同じ一番の下っ端で、同じ低賃金で働いている。

 

結婚もなければ、子供をもうけることもない。

他人の結婚式に出たこともなければ、親戚の子供にお年玉をあげたこともない。

日本から一歩も出たこともなければ、神奈川県から外に出ることも稀だ。

 

というわけで、おれはほとんど人間的な成長をしていない。

自分の魂を変えるようなイベントもなければ、自ら魂のあり方を変えて新しい体験をしようということもなかった。

 

ただ怠惰に、ぼんやりと過ごしてきた。

だから、おれの魂の部分は、同世代の多くの人間に比べてえらく幼いままだ。

悪く言えば幼稚、無理して良く言えば「若い」。

 

が、肉体というものは老いる。

いくら心根が若いままのつもりでいても、肉体は老いる。

残念ながらおれは不老不死の術も薬も持ち合わせていないので、それは仕方ない。

 

それでも、二十代から見た三十代は、それほど老いを感じなかった。

むしろ、スポーツ自転車に目覚めて、一日百キロとか二百キロ近く走り回ったりしていた。

ジョギングなどもした。人生で一番、肉体に筋力がついて、一番健康体ですらあった。

 

……その運動が無理なダイエットに繋がり、経済的環境と絡み合って精神が折れて、精神科に行くことになったわけだけれど。

このまま食わないで、痩せて餓死してもいい。死んでもいい、死にたいとなった。

それで体が動かなくなった。最初の診断は強迫性障害であり、一年経過を観察されたのちに双極性障害と告げられた。

 

まあ、精神はともかくとして、四十代はどうだ。

これはもう、ガクッときた。ガクガクである。

急に来た。むろん、「精神はともかく」とはいかず、医師に「運動しすぎるとまたああなるから、散歩くらいにしなさい」と言われてはいるのだが。

 

なにがガクッときたのか。それはもう、全体的に、だ。

酒には強くなったけれど、徹夜ができなくなった。

残業もきつくなった。残業するほど仕事があるかどうかは別の話。

精神疾患で起きられないこともあるが、肉体的な疲れの蓄積で動けないということも出てきた。

 

そんな話を、医師に話した。

すると、実感を込めて「四十代は、急に来るよ」と言われた。

あちらこちらが痛む、内臓も弱まる、太りやすくなる……。

当たり前の話だが、面と向かって、四十代を先に体験した医師にそう言われると、「そうだよな……!」と強い納得があった。

 

して、話は最初に戻る。偉大なる詩人である田村隆一の言葉である。

男は鼻毛に白髪がまじることで「人生の秋」を感じる、と。

おれも、四十代に突入するかどうかというときに、鼻毛に白髪がまじりはじめた。

おれは偉大なる詩人である田村隆一の言葉を知っていたので、自分の人生の秋がはじまったことを知った。

 

鼻毛の次は、ひげであった。

おれは比較的童顔である。肌も白くて無駄にきれいだ。そして、ろくに人生経験を積んでいない。

そんな顔で、ドヤ街寿町を歩くわけにはいかない。

いや、歩いてもいいんだけれど、おれの勝手な思い込み。

 

それで、おれはあごひげを生やすことにした。

そのあごひげに、どんどん白髪がまじるようになってきた。

 

君ら、毛抜きであごひげを抜くのは好きか? おれは好きだ。

その行為において、優先的に白髪を抜いていくと、結構な量になる。

伸びすぎたひげを抜くのではなく、白髪を抜くという行為になっていった。

気のせいかもしれないが、ストレスが溜まると白髪も増えるようだ。

 

そして、ついに髪の毛にきた、といっても、これを書いている時点で気づいて抜いたのは二本である。

最初は左のもみあげに、次に右のもみあげに。

ついに、髪の毛にきたか、と思った。

その衝撃は、鼻毛でもひげでも感じなかったものであった。

 

また髪の話してる……

髪の毛とおれ、おれと髪の毛。

とくにエピソードはない。というか、わりと恵まれているような気はしている。

とくに癖があるわけでもなく、硬いわけでもなく、量が少ないわけでもなく、まあ「普通」だ。たぶんそうだと思う。

そんなに男の髪の毛を触ったわけでもないのでわからないが。

 

二十代、三十代のころは、髪を染めたりもしていた。

自宅で、ドラッグストアで買った毛染めで。外で染める金がないので。

で、「ここまで明るくするのは自分史上最高かな」とか言いながら、強めのブリーチをかけたりしていた。中学生か。

髪が痛むかな、とか思いつつも、茶髪、ピアス、あごひげで薄汚さとインチキくささを醸し出す。

それがおれのやり方だった。街に馴染む方法はいろいろある。

 

が、髪を染めるのもやめてしまった。

けっこうきつめのツーブロックという新しい髪型に目覚めたこともあるし、なんとなく、もう飽きた。

しかし、飽きていなかったら、白髪にも気づかなかったかもしれない。ともかく、白髪が、生えてきた。

 

白髪というと、老いの象徴の一つでもある。

ある日突然、白髪になって話題になったアナウンサーもいた(ある日突然、だったかな?)。

政治家の石原伸晃議員(これを書いている時点では議員だが、あなたが読んでいるときにどうなっているかわからない)も、けっこうな白髪だったのがいきなり黒くなったりした。

 

おれの中で石原伸晃議員というと、なにより白髪のことが思い浮かぶ。

とはいえ、いったん白髪になっていたことが、政治家としては不自然であって、多くの政治家たちは年の割にずっと黒々としていることが多い。

政治家という職業は、年齢に比べて若々しく見せる必要があるのだろう。

 

もちろん、そういった考え方から自由になろう、という傾向もある。

アナウンサー近藤サトさんが白髪を染めるのをやめて「グレイヘア」にしたことが好意的に受け取られたという話もあった。

 

近藤サトさんは二十代のころから白髪が出てきたそうだが、若白髪というものもある。

中学生のころ、学校で茶髪が問題になって、教師が「髪を染めているやつは正直に手をあげろ」といった。

同級生の一人が手をあげた。が、そいつの髪は真っ黒だった。

「白髪染めです!」。「おまえはいい!」。

 

……いや、歳を取ると急に昔話が。

そんなわけで、おれは白髪とも無縁できた。「白髪とも」。

では、白髪以外に髪の話でなにが問題になるのか。

言うまでもない、ハゲることである。むしろ、そちらのほうが世の男たちにとって気になる話ではあろう。

 

べつにハゲたからなんだってんだ、おれはぜんぜん構わねえ。

ちょっと不自然な髪型でごまかすくらいなら、スキンヘッドにしてやらあ。……なんて思ってる人も少なくないだろう。

 

おれもそうだ。

そうだった、が。なにかこう、白髪が出てきて、「四十代で急に」という話となると、思わず故人である二人の祖父のことなど思い浮かべるのである。

一人はふさふさ白髪で、一人は……。父とは二十年以上会っていないが、弟によれば「ハゲ散らかしている」らしい。うーん。

 

いや、おれはハゲを笑い者にするような価値観というのは間違っていると思うし、時代的にもそういうところは否定していこうとなっているのも感じる。いい流れだ。

しかし、我がこととなると、なんだろう、自分はできれば白髪で、いや、できることなら黒々のふさふさで、などと思ってしまう。人間の価値観など、身勝手なものである。

 

とはいえ、老いは避けられない。

肉も骨も臓器も皮膚も老いる。

もちろん髪の毛も変わる。

おれが人生のライフステージを登らなくても、身体は歩みを止めない。

 

老いの目覚めいきなり花の話をする。

クルメツツジに「老いの目覚め」(老の目覚)という名前の品種がある。

べつに珍しい品種ではない。ツツジ園のあるような公園で見かけることもあるだろうし、買おうと思えば通販でもホームセンターでも買える。

クルメツツジのなかでは、わりとポピュラーな品種だ。

見た目もピンクの一重咲きで、クルメツツジらしい小輪多花。これといって、特筆するような特徴があるわけでもない。

 

が、その名前が昔から気になっている。

「老いの目覚め」とはどういう意味だろうか。

植物図鑑やツツジの本を読んでも出てこない。

 

明治時代に作出されたことはわかっている。

大正時代にはプラントハンターのアーネスト・ヘンリー・ウィルソンがアメリカに持ち帰った「ウィルソン50」の一つでもあるということだ(久留米市世界つつじセンターウェブサイトより)。

 

老いの目覚め。不思議な言葉だ。

老いに目覚める、ということだろうか。

 

たとえばおれが字数を稼ぐためにだらだらと書いてきた「白髪に人生を感じること」などだろうか。

それとも、老いた人の目が覚めるような花、ということだろうか。

あるいはあるいは、老いたことによって、若いころには気づかなかった心持ちに目覚めるということだろうか。

 

花の名前としては二番目がいいのかもしれないが、どちらかというと、三番目がいいようにも思う。

三千世界に花開く、とまではいかなくとも、幽玄の世界に老いてこそ目覚める。

それはもう、若い頃に「目が覚める」こととは違い、現実と夢の合間にあるような、そんな境地、そんな世界に花が咲き乱れている景色。

 

いささか老荘思想気味かもしれないが、そんな「老い」があればよいものだろうな、とは思う。

できればそんなふうに老いたいものだ、と。

 

老いがゆるされない世界で

とはいえ、そんな「老い」は、少なくとも自分にはゆるされていないだろうな、と思う。

現実的にいえば、いわゆる「老後資金」というものが貯められる可能性がない。

そして、年金では暮らしていけないと、「ねんきん定期便」が教えてくれる。

老いてなお生きたいのであれば、死ぬまで働くしかない。働ける場所があればの話だが。

 

働かなくてはならないとすると、夢と現の間を味わうことなんてできない。

あるのはひたすらに現だ。それが働いて、生きる金を稼ぐということだ。

そしてなおかつ「自分は働ける人間である」ということを常に証し続けなくてはならない。

それこそ、髪を黒く染め、若さをアピールしたりして。

 

これはあまりにもむごい話だ。

自分が望んだわけでもないのに生まれてきて、死ぬ前にちょっとばかりの幸福を味わうこともできない。

むろん、事故や病気でもっと早く死んでしまう人もいる。それは不幸とも言える。

それでも、長く、死ぬまで、苦しい思いをして働きつづけなくてはいけないというのも、また不幸である。比較はできない。

 

幸いにして、といっていいかわからないが、おれの持病である双極性障害者の平均寿命は短い。

健常者と比べて明らかに高い自殺率を差っ引いても、だ。

おれは、そこまで長く生きられないかもしれない。

 

それはそれでいいように思う。

安心できる老後(なにやら政治のキャッチフレーズのようだが、もうちょっと精神的なものも含めて)というものがないのであれば、べつに早くこの世からおさらばしてもいいだろう、という気にもなる。

 

これは、おれが独り身のおっさんだから言えることでもある。

子供などいれば、そうも言っていられないだろう。

そういう意味で、おれはおれに適した生き方を選んできたと言えるかもしれないし、そんな生き方を選んできたからこそ、こんなふうに考えるのかもしれない。

 

どちらが先かはわからない。

そもそも選択肢があったかもわからない。

いずれにせよ、おれはもうなにかを選べるという歳ではないし、精神は幼稚のままで、身体だけは確実に老いていく。

 

こんな、頭でわかっていた話が、実感できるようになった。

鼻毛がそう告げたのだ。

 

 

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システム開発やITコンサルティングを経て、
外資系製薬企業で15年以上のITビジネスパートナーとして人事からコマーシャル、 メディカルなど製薬企業の様々な分野のプロジェクトに携わる。
現在はネクセラファーマ株式会社で、システムだけではなく、企業風土改革や業務改善をリードし、
日本発グローバルバイオ製薬企業にむけて、同社の成長基盤の構築に尽力している。

岡田 雄太(ワークワンダース株式会社 CTO)
野村総合研究所に新卒入社後、証券総合バックオフィスシステムやオンライントレードシステムなどの開発に従事。
その後、8 Securities(現SoFi Hong Kong)へ出向し、日本人唯一のエンジニアとして国際的なプロジェクトに携わる。
BOOSTRYでは信託銀行向けSaaSの立ち上げと成長を牽引。
WiseVineではCTOとして開発組織を30名規模に拡大し、プロダクト開発を推進。
2025年4月よりワークワンダース株式会社CTOに就任。AI活用を中心とした開発支援をリードする。


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(2026/01/19更新)

 

 

 

【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

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