以下は、雨宮紫苑さんの4月1日の「日本はなぜ「有能な人」が損をするのか」に触発されて書きました。

また3月24日の安達裕哉さんの「「依頼された仕事をやらない人」は、なぜあれほど言われても、仕事をしないのか」にも関わるかと思います。

 

この10年ほど産業医業務に携わったので、その経験や必要にかられて読んだ本からの耳学問が多くなっているかと思います。

 

雨宮さんの論でまず感じたのが、それが日本でも最近かなり話題になっている「メンバーシップ型」と「ジョブ型」という二つの雇用形態の問題にかかわる話題ではないかということでした。(濱口桂一郎「新しい労働社会 2009」「ジョブ型雇用社会とは何か  2021」ともに岩波新書)

 

雨宮さんはドイツでお仕事をされていて、そこでは仕事は「ザ・担当制」であると書かれています。

こういうやりかたは学問的には「ジョブ型」と呼ばれているようで、ドイツばかりでなく、日本以外のほとんどの国でみられる標準的な雇用形態(米国はやや例外?)であり、雇用者側が業務内容を文書化したものを提示し、被雇用者側がそれに合意すれば採用となるやり方です。・・・被雇用者のするべき仕事の内容が明文化されています。

 

ほぼ唯一の例外が日本で。仕事に就く時にも会社からどういう仕事をするかの提示は一切なく、ただその会社で働くことだけが決まるというやりかたで、それを学術用語では「メンバーシップ型」と呼ぶようです。(これは正規雇用社員の場合であって、派遣社員は「ジョブ型」と思いますが。)

以上は日本でもある程度規模が大きくなった会社に当てはまるもので、数人から数十人くらいの会社では「ジョブ型」での採用だそうです。

 

この30年ほどの日本の経済の不振は、高度成長期にはそれなりに適合的であった「メンバーシップ型」の雇用形態がもはや機能しなくなってきていることに起因するので、日本も「ジョブ型」への転換を急がなくてはならないという議論が最近おきてきているようです。

 

雨宮さんが問題にしているのは、日本では個々人の業務範囲の規定が曖昧だから、無能なひとが業務をこなせない場合、それが有能な人にまわされる、これは理不尽ではないかということかと思われます。

 

日本の会社が大好きという高橋伸夫氏は「できる社員は「やり過ごす」」(文春ネスコ 1996 日経ビジネス文庫 2002)で、日本にはこういう尻ぬぐいをほぼ一手に引き受ける職責があって、それが「係長」なのだといっています(今は別の役職名になっていることが多いそうですが)。

 

係長さん達は「俺にどうしろというのだ、勘弁してくださいよ」とぼやきながらも日々を様々な尻ぬぐいで過ごしている気の毒な職責だが、尻ぬぐいにおいて有能と認められれば課長職に引き上げられるのだそうです。

 

どこで聞いた話かわすれましたが、上長がある業務を命じたが部下が一向に動く気配がないとき、あの件はどうなったと怒鳴るのは無能な上長であって、「あ、おれの指示は方向が違っていたかな?」と反省し、それ以上の追及をしないのが有能な上長だそうです。

そのような無能な?上長への無言の抵抗?を高橋氏の本では「やり過ごし」と呼んでいます。

 

ただし、これが可能なのは雇用が長期契約である場合に限るとしています。

年功賃金という制度は、基本的に何歳ならどのくらいの生活費が必要かということから給与が決められていて(生活給)、仕事の成果に応じて支払われるものではないのだそうです。

それならば何で報いるのか? 賃金ではなく、次の仕事で報いるのだ、というのが上記の高橋氏の「虚妄の成果主義」(日経PB社2004年)での主張です。もっと裁量範囲が広く、もっと多くの部下のいる部署に引き上げるのが報酬なのだ、と。

 

「ジョブ型」にも「メンバーシップ型」にも、それぞれ利点・欠点があるに違いないわけですが、わたくしが気になるのは、山本七平氏がいっていた「日本では会社の組織がある程度大きくなると《機能集団》から《共同体》に転化しないと組織が動かなくなる」という主張です(日本資本主義の精神)1979 光文社」)

つまり、会社がある程度大きくなると、自分のためではなく会社のために働くというようにみんなが思うようにならないと、会社が回っていかなくなるというのです。

 

おそらく雨宮さんはドイツで行われている世界標準の仕事の契約のやりかたを前提にしているので、その目で日本の仕事の仕方をみていると、おかしなことばかりにみえてくるのだと思います。

また日本の若いかたもこれからはジョブ型志向の方が増えて来てくるだろうと思います。なにしろ就職した会社が30年先、40年先もそのままで存在しているということはほとんどありえないでしょうから。

とはいっても、そういう若者も会社に入ってしばらくすると会社のメンバーシップ型精神に染まっていく人も少なくないのではないかとも思います。

 

雨宮さんの「努力をした人、有能な人が損をするのはおかしい。」というのは正論で、それが生じるのは日本が、《有能な人が尻ぬぐいをするシステムだから》というのが雨宮さんの論の骨子だと思います。

 

しかし、それは短期的に見ての話であって、長期的にはそうとはいえないかも知れないというのが以下で考えてみたいことです。

 

日本では昔から、小僧・丁稚・手代・番頭・のれん分け・・といったコースと、手に職を持ってその技能を売り物にして働く場を転々とする渡り職人に分かれ、後者は一生被雇用者であって、決して経営側の人にはなれなかったのだそうです。

江戸時代からののれん分けコースを「メンバーシップ型」、包丁一本さらしに巻いてコースを「ジョブ型」とするのは、明治大正が「ジョブ型」に近い雇用形態であったようなので、強引すぎる議論だと思いますが、日本で就職するということは、ほとんど草鞋を脱ぐ、盃を交わすに似たものではないかとわたくしは密かに疑っています。

 

ドイツでは早くから将来のコースが峻別されるそうで、9歳の時点で大学に進むのか、あるいは職業訓練を受けるのかを決めるのだそうです。

いわゆる職人も日本にくらべれば社会的地位がずっと高いともきいたことがあります。

 

熊谷徹氏の「ドイツ人はなぜ、1年に150日休んでも仕事が回るのか(青春出版社 2015年)」で「ドイツでは仕事が人につくのではなく、企業についているのだ」といっています。仕事は属人的ではなく属企業なので、担当が不在な場合など、誰かがそれをカバーする情報共有化のシステムがきちっとできているのだ、と。

雨宮さんは、「担当者に予約」がドイツ流で、担当者が不在だとたらい回しにされると書いています。熊谷さんが書いているのはいささか綺麗ごとで、雨宮さんの話が実態に近いのではないかと思います。

 

ここからしばらくは日本を離れ世界の会社員に共通する話題について。

「ピーターの法則」という本があります。(「ピーターの法則 創造的無能のすすめ」( ダイヤモンド社 2003年))

それは、①人は自己能力の限界まで出世する。②無能な人はそのポジションに留まり、有能な人は限界まで出世するが、そこに達した時点でやはり無能化する。③組織では、まだ限界に達していない人たちによって仕事が進められ、会社はそれで機能している、というもののようです。

無理に出世せず、自己の能力で対応ができる地位にとどまった方が人は幸福に過ごせる、というのがこの本の根っこの主張かもしれません。

 

会社の中で本当に働いているのは3割だけで残りの7割は働いているふりをしているだけという話もきいたことがあります。

だからといって、働かない下の7割を首にすると、残された3割もまた上の3割と下の7割にわかれていくのだそうです。

 

人は自分より駄目な人がいることで自己肯定ができ、働けるということなのかもしれません。

会社の中で俺は絶対あいつよりましだと思えるひとがいることはその人の自尊心を高めるのかもしれません。

他人のしりぬぐいをしているひとは「まったくもうどいつもこいつも無能な奴ばかりだ! あいつより俺のほうが何倍も会社に貢献しているぞ!」と愚痴りながらも、自尊心を高めているかもしれません。

 

はなはだ低い評価をされている仕事に家事があります。

それはよくて現状維持が目的であってなんら創造的な仕事とは思われていません。だからフェミニズムの陣営の人たちは家事も男女が平等に負担することを要求します。

しかし会社の中でも「家事」に相当するような部門があって、まったく目立たないが、それがなければ会社が荒廃していくというような仕事もあるのではないかと思います。

わたくしは「尻ぬぐい」というのはそういう仕事の一つなのではないかと思っています。

 

また仕事をしない人は「命令されたけど、こんな仕事に意味があるの?」と無言の抗議をしているのかも知れません。

産業医をしていてよく聞いたのは重役さんの会議のための資料づくり、あるいは株主総会のための想定問答集づくり。事後的にみると、その多くは使われもしないのだそうです。

あるいはほとんど脈がないと思われる他社との交渉事のためのパワーポイント資料づくり、交渉がうまくいかないと「お前のつくったパワポが分かりにくかったからだ!」などと叱られる。

 

日本のホワイトカラーの労働生産性が低いのは、このような「尻ぬぐい」の仕事が多い、あるいは綺麗に尻ぬぐいすることに「有能な」人が多いことに一部は起因するのかも知れないと思います。

 

本来なら適当に手を抜いてやっても問題ないことに、全力を傾倒して完璧に仕上げてしまう、80%でいいことを100%までやる。

80%までに10の時間がかかるとする。100%までにまた10の時間がかかるとします。無能なひと?はこの仕事は80%まででいいのではないか?と思い、有能な人?はつねに100%完成すること自体を目指す。ということもないではないかもしれません。

 

無能な人が仕事をしないのか、そういう人の「尻ぬぐい」をしている人が有能なのか?

「無能」といわれる人は日本の「メンバーシップ型」の会社を少し冷めた目で引いて見ているが、「有能」と言われる人は会社という組織のありかたを無批判で受け入れている、ということもないとは言えないと思います。

 

それを考えるため、川島武宜氏の「日本人の法意識」(岩波新書1967)を見ていきたいと思います。

そこに「調停いろはかるた」というのが紹介されています。戦後発足した民事調停制度の調停委員にその心得を示したもののようです。

論よりは義理と人情の話し合い
権利義務など四角にもの言わず
なまなかな法律論はぬきにして
白黒を決めぬ所に味がある

 

まるで調停など申請せず自分達のなかで話し合え! それも義理人情路線で・・といっているようです。

 

わたくしが日本で「ジョブ型」がはたしてうまく機能するだろうかと思うのはこのあたりにあります。

ジョブの範囲を明文化した文章があれば、「これは俺の仕事ではない!」といった話が山のように出てくるはずです。

これを、会社を正しく運営してゆく前向きなクレームととらえるひとは日本の会社では多くはないのではないかと思います。

 

もう一つ川島さんの本では歌舞伎狂言「三人吉三廓初買」の中の「庚申塚の場」も紹介されています。

お嬢吉三とお坊吉三という小悪党が争っているところに大悪党の和尚吉三が割って入って、兄弟の契りを結んで、その場をおさめるという場です。

「丸く納めるの」が第一で、どちらが正しいかは問わない。

それが出来るためには仲裁人が必要であるが、仲裁人がまず心がけることは、当事者の「顔をたてる」ことでどちらが正しいかではない。これはやくざの世界の話ですが、日本では堅気の世界だって同じようなものではないかと思っています。

 

以上は少し極端な見方かもしれませんが、日本では契約を交わすという方向を嫌うのは間違いないように思います。

「俺の目をみろ。何にも言うな。だまっておれについて来い。悪いようにはしない」というのが理想の上下関係とされているのかもしれません。

 

この「俺の目を見ろ・・」は小室直樹氏の「痛快!憲法学」(集英社 2001年)」にあった言葉ですが、そこに、「日本人の場合、いちいち約束事を言葉にすることをひじょうに嫌がる」とあります。

本当に信頼していたら、約束を文書にするなどというのはかえって失礼だと。

 

もちろん、この国際化の時代に他国との交渉には綿密に書かれた契約書が必須でしょう。

日本の企業間の取引でも。しかし社内では? 契約をかわすなんてそんな水臭いことを!と言い出すひとがいそうに思います。

 

「面倒なことはしない、なんか嫌になった、そういう感情が、「約束を守らねば」という義務感を上回ると、彼らは何も言わず、仕事を放棄する。」と安達さんはおっしゃるのですが、わたくしは人間の99%は面倒くさがり屋ではないかと思っているので、そういう人にでも、「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」(山本五十六)の精神で、辛気臭くても、見捨てずに根気強くつきあっていくことが大事なのだろうと思っています。

この山本五十六の言葉については、5月11日の桃野さんの記事でも論及されていますが、わたくしは「動かじ」というところが大事で、これは相手が動いてくるのを待つのであり、決して「動かす」という方向ではないことが肝なのではないかと思っています。

 

ここbooks&appsでは「自分がこのように動けば、相手をこのように変えることが出来る」という論が多いように感じますが、これは養老孟司さんがよく言っている「都市主義」であり(「都市主義」の限界」(中公叢書)2002年)、「ああすれば、こうなる」「あらゆるものが操作可能」であるという見方のように思います。

 

しかし日本人の中にもまだまだ田舎は濃厚に残っているはずです。

とすれば、頭ではしなければいけないと理解はしていることでも、身体は嫌だ面倒だと感じるのは仕方がないことなのだと思います。これを完全に克服することは人間もまた身体を持つ動物である以上は不可能ではないかと思っています。

 

安達裕哉さんの「「依頼された仕事をやらない人」は、なぜあれほど言われても、仕事をしないのか」という疑問についても、「依頼された仕事をやらない人」というのが人間の本来の姿であって、「依頼された仕事をすぐやる人」というのは、近代にはじめて出現したちょっと変わったひとたちなのだろうと思います。

 

そもそも会社というのは都市の産物ですから、そこの運営が「ああすればこうなる」になるのは当然なのですが、わたくしは日本での勤労のモデルは未だに二宮尊徳なのではないかと疑っています(中井久夫「分裂病と人類」東京大学出版会 1982)。

つまり会社はまだ江戸時代の藩を引きづっている。

 

「やかましくうるさく世話をやきて、漸く人道は立つなり」と尊徳はいうわけで、現状を維持するためにも多大な努力が必要であるとするとする見方です。

そうであれば、依頼された仕事をやらない人がいたらだれかがその尻ぬぐいをしなければいけないのは当然で、それがなければ身の回りにはどんどんと雑草がはびこってきます。

 

しかし「ジョブ型」の業務規程書に「他人の尻ぬぐい」などとはとても書けるわけはないでしょうから、日本でこれから「ジョブ型」を導入していこうとすると、暫く前の「成果主義」導入の失敗をまたまた繰り返す恐れが少なくないのでないかとわたくしは感じています。

 

日本で「ジョブ型」を目指すといわれているのは、実は「4月新卒一括採用」をやめるという方向のことを言っているのだと思いますが、今の日本の大学では最初の2年くらいは過酷な受験勉強から解放され、さあ遊ぶぞという時期であり、3年以降は就職準備に明け暮れるということで、本業のはずの学業に専念する時間は極めて乏しくなっているようです。

そもそも、いくら勉強しても就職ではあまり評価されません。

 

なにしろ採用側でも採用した後この人がどこに配属されるのか分らないわけですから、そのひとが学んできた専門性などが重視されないのは当然で、「地頭がいい」などというわけのわからない評価で採用がきまるようようです。

「地頭がいい」というのは「学歴」の隠語なのでしょうが・・。

「採用」の規定書に「以下の大学を出ていること」などと書いたら本人・その親・マスコミなどから袋叩きになること必定です。

 

産業医という仕事では人事・勤労部門の方との接触の機会が多かったですが、恐るべきことに彼らは社員一人一人の社内での経歴が全部頭にはいっていて、H君は関西でそろそろ5年になる。

少し冷や飯を食っているようようだから、そろそろ東京に戻さねばなどといつもいっていました。和尚吉三の役割を影でやっているのかもしれません。

 

ということで「ジョブ型」への転換は日本の社会を根底からゆるがす可能性があると思います。

それはひょっとすると、今のロシアが西欧型の社会へ転換するほどの困難を伴うものかも知れません。

 

 

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(2022/11/25更新)

 

 

 

【著者プロフィール】

著者:jmiyaza

人生最大の体験が学園紛争に遭遇したことという団塊の世代の一員。

2001年刊の野口悠紀雄氏の「ホームページにオフィスを作る」にそそのかされてブログのようなものを始め、以後、細々と続いて今日にいたる。内容はその時々に自分が何を考えていたかの備忘が中心。

ブログ:jmiyazaの日記(日々平安録2)

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