「新型コロナウイルスの脅威」と言って、今、本気で怖がっている日本人はどれぐらいの割合だろう?
たぶん、あまりいないだろうと私は想像する。
2020年、まだこのウイルスが正体不明だった頃は、大半の日本人が脅威を感じて外出やイベントを自粛した。
クルーズ船報道が物々しかったこと、有名芸能人が死去したこと、等々もウイルスの脅威を印象づけ、自粛に拍車をかけたかもしれない。
それから二年の歳月が流れた。
日本における感染者数は、2020年とは比較にならないスケールになったが、景気は悪くなり、人々は世界的なインフレと円安に神経を尖らせてインバウンドに期待している。
そこから察するに、日本人の大半は、今はあまり脅威を感じていないのではないだろうか。
社会全体の数字を見れば、確かにそれもそうだと思う。
札幌医科大学のサイトのグラフでコロナウイルスによる国別死亡率を確認すると、日本の死亡率は欧米諸国のそれを大きく下回っている(赤い矢印で示した、オレンジ色の曲線)。日本と肩を並べているのは韓国ぐらいだろうか。
死亡率で日本を下回っているのは若年人口の割合が大きい国や、厳格なロックダウンを繰り返している中国ぐらいである。
そして新型コロナウイルスにかかった時の致死率も低下してきている。時事メディカル『感染対策を緩和しても大丈夫か ~コロナ、致死率20分の1~』という記事のなかで、東京医科大学病院渡航者医療センター特任教授の濱田篤郎先生は、第一 ~ 第七波までの国内死亡率を算出・比較したデータを提示している。
ワクチンとその追加接種、治療薬の普及などのおかげもあって、現在の新型コロナウイルスの死亡率はかなり低くなっている。
感染対策の緩和・水際対策の緩和・療養期間の見直し・全数把握の見直しなどが行われているのは、死亡率の低い感染症になったからだろう。
日本は未曽有の長寿国であり、そのぶん基礎疾患を持ちながら生活している人の数も多い。
それでも欧米諸国より低い死亡率を維持し、致死率の低いところまで防疫・治療体制を整えてきたのは、最前線の医療関係者や行政関係者の尽力、ワクチン接種や行動自粛などをとおして協力してきた人々の尽力の賜物にほかならない。
これから新型コロナウイルスとどう共存していくのかはわからないが、一番人が死にそうな時期は乗り越えられた……ようにみえる。
それでも医療インフラに圧をかける新型コロナウイルス
ところで私は、第〇波のあたりから職場や関係機関で新型コロナウイルスが増えた・クラスタが出来た、といった状況に直面するようになった。
病院や福祉施設で新型コロナウイルスが発生すると、病院機能や福祉施設機能は大幅に低下する。
特に院内や施設内でクラスタが発生すれば、保健所に報告のうえ、入退院や入退所が実質的に不可能となる。
第〇波の頃ともなればワクチンの接種も進んでいたから、よく知っている場所で感染が起こったり、知人が感染したりしても「自分たちは新型コロナウイルスで死ぬ心配はあまりない」と思うようになっていた。
妻や子どもが感染してもきっと死なないし、高齢者にしても、ワクチン接種が優先的に行われている以上、だいたい大丈夫だろうと考えていた。
実際、私の身内の高齢者が相次いで新型コロナウイルスに感染しても、ワクチン接種のおかげか弱毒化が進んだおかげか、全然たいしたことはなかった。
だが、職場や関係機関で新型コロナウイルスが現れ、あっちこっちにクラスタが出来てみると、自分が死ぬ/死なないとはまったく別種の怖さ──それとも面倒さ?──を痛感するようになった。
病院や福祉施設で新型コロナウイルスが殖えるたび、その病院や福祉施設の機能が低下する。
すると、地域の医療や福祉の機能がめちゃくちゃ下がるのである。
地域の医療や福祉の機能がめちゃくちゃ低下すると何が起こるか?
ドクターやナースにとっては仕事がやりづらくなったり進まなくなったりする。
新型コロナウイルスの検査をしなければならない・感染予防の作法を踏まなければならない、等々に加えて、自分の受け持ち患者さんの入退院が遅延し、たとえば退院の機会を逸しているうちに身体機能や認知機能が低下してしまう患者さんがいる。
施設との連携も噛み合わない。こうしたことが自分の職場であれ、よその関係機関であれ、ボツボツ起こるようになる。
そしてある科の病院、あるタイプの施設が麻痺すると、その皺寄せはどこかの病院、どこかの施設が被らなければならなくなり、かといって実際には被りきれるものでもない。
こうした麻痺や遅延を意識する人は必ずしも多くないだろう。
なぜなら、普段、病院にかかっていない人にとって、○○科の病院が麻痺した・高齢者向けの××という施設に入所できなくなったといった事態は痛くも痒くもないからだ。
しかし通院しなければならない人、入院や入所の可能性のある人、そして今すぐにでも入院や入所を必要としている人にとって、新型コロナウイルスのクラスタはとんでもなく憎々しいものではないかと思う。
こと精神科に限っても、新型コロナウイルスによる病院機能の麻痺や遅延によって、退院すべき人・退院したい人が病院に留め置かれたり、入院すべき人・入院したい人が入院できなかったりした。
どうにか入院できたとしても地元の病院では無理で、家から何十kmも離れた病院に、ぽつねんと入院を余儀なくされることもある。こうした事態に直面しているのは、精神医療にアクセスしなければならない、切実性のある人々だ。
病院や福祉施設に縁のない人にとって、今の新型コロナウイルスは本当にたいしたことのない、まさに”風邪に毛が生えたもの”なのかもしれない。
しかし、病院や福祉施設にアクセスしなければならない人にとって、新型コロナウイルスはアクセスを阻み、生活の質を、なんなら生命予後にも影響するかもしれない因子であり続けている。
密室の新型コロナウイルスはすごく強い
でもって、間近で新型コロナウイルスの挙動をみていて思い知らされたことがある。それは、とにかく感染力が強いことだ。
致死率が高く、そのかわり感染力が後々の株より弱かったアルファ株やデルタ株の頃はそうでもなかったのかもしれないが、最近の新型コロナウイルスはびっくりするほどよく感染する感染症だった。
病院では、昔から院内感染がおそれられてきた。いわゆるMRSAが問題になることもあるし、インフルエンザウイルスの流行期には院内の患者さんが次々にインフルエンザウイルスにかかり、高齢者などはしばしば命を落としてきた。
冬場の病院や施設では、インフルエンザウイルスや肺炎球菌がしばしば高齢者を旅立たせる最後の一押しになる。
だから病院はもともと、院内感染が起こりにくいよう注意を払うものだと習ってきたし、白衣も手洗いもそのためのテクニックだったはずだった。
ところが最近の新型コロナウイルスは、そうした通常の院内感染予防のテクニックでは防げない。
流行期のインフルエンザウイルスや肺炎球菌が流行るといっても、病棟まるごと感染に陥るのは従来の感染予防テクニックでも珍しい感じだったが、新型コロナウイルスは、ガチガチの感染予防テクニックでもきっちり全員に感染していく。
全員に感染するのを防ぐためには、病棟をブロックごと隔壁し、閉鎖するしかない。隔壁の内側に未感染の患者さんが残っていても、もうその人は感染するだろうという前提で、隔壁の外側の患者さんを感染から守っていくしかない。
そこまでやってもなお、絶対に感染がブロックできるか心配はぬぐえない。
こうなってみて初めて、私は、なるほど新型コロナウイルスはヤバいなと思い知った。
というより感染症と密閉空間との相性の悪さというか、感染症が流行するという事態がどれほど空間に依存しているのかを思い知った。
ここでいう空間とは、人間の密集性、密閉性、人口密度、人の動線、等々の総合としての空間のことだ。
この点、病院や福祉施設は、感染症が流行るにあたっておあつらえ向きの空間となっている。
免疫力の弱い患者さんや感染防御のできない患者さんがいるという点でも、感染症が流行るにあたっておあつらえ向きと言えるだろう。
だから病院や福祉施設にいったん侵入するや、新型コロナウイルスは空間が許す限り蔓延する。
人口密度の低い外の空間ではマスクなしでも感染しないウイルスでも、人が集まった建物のなかでは感染しやすい。
そして病院や福祉施設のような、長時間にわたって人が集まり続け、同じメンバーが同じ空気を吸い続ける場所ではなおのこと感染しやすい。
「感染症のヤバさは空間によっても決まる」「だから感染予防のひとつとして防疫活動は重要」というのは知識として習っていたが、それを圧倒的なインパクトで教えてくれたのは新型コロナウイルスだった。
口蹄疫など、家畜の病気に厳重な感染予防策がとられる背景も(頭だけでなく肌で)わかった気がした。
なるほど、いまどきの鶏や豚は、密集性や密閉性の面で病院よりもぎゅうぎゅう詰めの空間で育てられている。
ああいう飼育をしている以上、ひとたび病原体が侵入すれば猛威を振るうだろう。
そしてもし、人類がもっともっと都市に集まり、まるで病院のような空間で生活するようになったら、人類はもっともっと感染症に対して脆弱になり、もっともっと感染症に対して備えなければならない未来が見えた気がした。
繰り返すが、こうしたことは感染症についての書籍にはもちろん書かれているし、病院勤務という職業柄、たとえば手を洗うとかマスクを身に付けるとかいった行動には私たちは人並み以上に敏感なつもりだった。
けれども病院という閉鎖空間で飛び火のように広がっていくコロナウイルスの姿を目の当たりにした時、”知っていた”つもりでは不十分だったことを痛感した。
もし本当に”知っていた”なら、私はここまで驚くことはなかったはずだ。
ノーガードの是非
ここまでを読み、「いやいや、でも死亡率が低いなら病院や施設もノーガードでいいじゃないか」「せいぜい、インフルエンザが流行した時ぐらいの対策にすればいいじゃないか」と思った人もいるだろう。
現在の新型コロナウイルスが死亡率の低い感染症なら、病棟まるごと感染したって構わないじゃないか。
それは従来、インフルエンザウイルスが流行る冬に高齢者が亡くなったのと変わらないじゃないか。そういった指摘は当然あるはずである。
私だってある程度はそれを連想するし、たとえばイギリスやアメリカはそういうつもりでやっていくのだろう。
とはいえ、本当に(そしてどこまで)ノーガードにしていいのだろうか。
また、もしノーガードで行くとして、それを決める議論は誰がどのように進めているのだろうか?
新型コロナウイルスは、致死率がだいぶ低くなったというけれども、死ぬ人はそれなり死ぬ感染症ではある。
少し古いが、第六波に際しての厚労省の資料によれば、第六波の新型コロナウイルスの死亡率は、40代で0.02%、60代で0.29%、80代で3.67%となっている。基礎疾患や慢性疾患を持っていれば死亡率はもっと高まるだろう。後遺症もある。
だとすればだ。
高齢者が集まっている福祉施設、基礎疾患や慢性疾患を持っている人が集まっている病院や病棟がノーガードを敢行すれば、世間では致死率が下がったとみなされている新型コロナウイルスが、それよりずっとずっと高い死亡率をもって猛威をふるうことになる。
さきに記したように、最近の新型コロナウイルスはひとたび侵入すると病棟やブロックのすべての患者さんに感染する可能性が高い。
ということは、高齢者の集まる施設や基礎疾患や慢性疾患を持っている人が集まっている病院においては、街にいる人よりずっと高確率の、いわば、コロナロシアンルーレットとでもいうべき死の危険に晒すことにもなる。
しかも、そうした施設や病院でクラスタが発生した時には患者さんに逃げ場がない。クラスタと運命を共にするしかなくなってしまう。
街で健康な人が新型コロナウイルスのリスクに曝されるのと、施設や病院で高齢者や患者が新型コロナウイルスのリスクに曝されるのでは、危険度も意味合いもまったく違う。
この点において、医療関係者や福祉関係者が新型コロナウイルスを見る目・防がなければと思う目は、ちょっと違うのではないかと思う。
逆に、今、新型コロナウイルスへの対策を云々している人のうち、こうした、新型コロナウイルスが死の危険に直結する領域の人々についてよくわかっている人はあまりいないんじゃないだろうか?──実際にコロナウイルスの感染の凄さに直面する前の私がそうであったように。
日本は民主主義の国なので、本当に大切なのは、死亡率をひたすら下げることではなく、政府の意思決定が民意を反映していることのほうだ。
かりに日本の民意がイギリスやアメリカと同じものだったら、死亡率がイギリスやアメリカと同じぐらいになったとしてもそのように施策し、死亡率も含め、その結果を受け入れるのが民主主義ってものではある。
イギリスやアメリカのコロナ対策は日本に比べて劣っているという人は多いし、私もそう思うが、もしイギリスやアメリカのコロナ対策が民意を反映し、熟議のうえで行われたものだったら民主主義的には悪くあるまい。
しかし、そうは言っても引っかかりどころはある。
二つ挙げてみる。
ひとつ。民意とそれをとりまとめる政治家たちは、「福祉施設や病院ではコロナウイルス感染症の感染リスクが市中よりもずっとヤバくて、身体の弱い高齢者や病気持ちの人には命取りになる」ことをどれぐらい知ったうえで議論してきたのだろうか?
周りに健康な人しかおらず、福祉施設や慢性疾患の病院となんら縁を持たずに済む人は、ここまで述べてきたようなコロナウイルス感染症の厄介な性質を知らずに済む。どう議論するのであれ、知ったうえで議論して欲しいと私は願う。
だが果たして、病院や福祉施設に勤務することなく、あの厄介な性質をどうやって・どこまで知ることができるだろうか。それはちゃんと議論のテーブルの上まで届くのだろうか?
それともうひとつ。知ったうえで熟議しノーガードにしていくとしても、それで高齢者や基礎疾患/慢性疾患の人がどれぐらいの死亡率と死亡数になることまでが許容されるのか?
民主主義が、最大多数の幸福を目指すのはまあわかる。功利主義ってやつだ。
しかしその功利主義が、一部の人間に死のロシアンルーレットをやってくださいという前提に立っている場合も、それは正義にかなったものと言えるのだろうか? そのロシアンルーレットが隕石が衝突するほどの確率なら気にすることもあるまい。
しかし死亡率が3%、5%、10%となるとしたら、それは最大多数の幸福の名のもとに許されるものだろうか。
イギリスやアメリカの選んだ選択は、大雑把には、そのようなものだと私は理解している。
コロナウイルス感染症より経済を優先させ、高齢者や慢性疾患を持った人に死亡者がたくさん出ることを前提として施策が決定された。
イギリスやアメリカといった民主主義の大先輩、いつも日本が見習うべきと言われてきた国々がそうしているのだから、民主主義的にはそれでも構わない……ような気がしなくもない。
でも本当はそれって経済優先の功利主義を採るために、高齢者や基礎疾患/慢性疾患の人、医療へのアクセスの良くない人に死亡リスクを押し付けていくような施策ではなかったか?
功利主義なら何をやってもいいわけではない。たとえば功利主義を極限まで推し進めると、「あいつを抹消したほうが社会全体の幸福が向上する」「あいつらには死んでもらったほうが社会全体の利益になる」だってやっていいことになってしまう。
もちろんイギリスやアメリカがそこまでえぐいことをやっているとは言わないし、ワクチン接種だって頑張った。
それでも、今のイギリスやアメリカがやっていることは(日本に比べれば)そちらに近い気はする。
アメリカはコロナ禍を逆手に取って、高齢者を減らして、社会保障費の削減を成し遂げた。やはりアメリカは強いな。さすがや。米国経済は信頼できる。 https://t.co/81WJzPsoHh
— Kazuki Fujisawa (@kazu_fujisawa) October 7, 2022
少し前に、藤沢和希さんが「アメリカは新型コロナウイルスを逆手に取って社会保障費を削減した。さすがや」と記していた。
現代社会の真理である経済の視点からみれば、そのとおりなのだろう。アメリカという国は、経済という神に弱者の心臓を捧げた。
しかし、これだって「あいつらには死んでもらったほうが社会全体の幸福が向上する」のたぐいではないのか?
日本よりもずっと自由でずっと自己責任の国だから、もともと一定程度はそうだったろうし、範疇的な共和党支持者ならこれに喝采しそうでもある。
でも、人の命がかかっているその決定は、功利主義の、最も経済的な観点だけで決めていいのか私にはよくわからない。
ちゃんと「コロナ禍のしわ寄せは、お金のない高齢者に死亡リスクや後遺症リスクというかたちで払ってもらいます」って大っぴらに議論して、「そうだそうだ」「死んでもらうのはやむなしだ」と言葉にしたうえでのことなら、まだいいのだけれども。
ちゃんと人殺しの顔をして議論していましたか?
こうして考えていくと、問いはいつしか、「結局、私たちは人殺しの顔をしてコロナ対策を議論していたのか」って性質に変わっていく。
ここまで、病院や施設の観点から、日本の施策が良いと私は書いてきた。が、それが長期的に見てイギリスやアメリカと比較して良かったのか、人を救い人を殺さずに済んでいるのか、本当のところはわからない。
リモートワークが広がって救われたと感じた人もいれば絶望した人もいたように、病棟や福祉施設をしっかり守った日本の施策は別のところでたくさんの人を見捨ててきたのかもしれない。
結局、欧米のような施策を採っても、日本のような施策を採っても、どこかで誰かがどん詰まり、ロシアンルーレットを回す羽目になる。
「日本の場合は、そのロシアンルーレットが高齢者や基礎疾患/慢性疾患持ちの人に回ってこなかっただけで、草葉の陰で泣いている人だっているんだぞ」と言われた時、なんて反論すればいいのだろう? そういう問いかけを、頭ごなしに否定していいとは私には思えない。
だからといって、イギリスやアメリカと同じことをやれば良かったと考えるのも抵抗がある。
もし日本がイギリスやアメリカと同じことをやったなら、膨らみ続ける社会保障費を削減できたのかもしれない。
そのかわり、たとえば透析病院などは阿鼻叫喚のていをなしただろう。
透析病院などが阿鼻叫喚のていをなしても構わないという、民意が定まるプロセスがちゃんとしているなら、それもまた民意だろう。
でもその場合、「透析病院が阿鼻叫喚になって良し」と指差し確認をせず、きれいな言葉でごまかすうちにリスクが病院と患者さんに押し付けられるのは、ずるいことだと思う。
また逆に、高齢者や基礎疾患/慢性疾患持ちの人が守られ、他方で経済活動や若者の社会参加が守られないかたちになる場合も、民意が定まるプロセスがちゃんとしているなら、それも民意というものだろう。
この場合も、「経済活動や若者の社会参加には駄目になってもらいましょう」と指差し確認せず、きれいな言葉でごまかすうちにリスクが押し付けられるのはずるいことだと思う。
で、今回、民意が定まるプロセスはどこまでずるくなかっただろうか?
私には、それがわからない。日本の場合、功利主義なら何をやっても構わないという禁を犯さなかったのだと思うし、イギリスやアメリカは犯しているんじゃないかという気がする(本当はどうなんでしょうね)。
しかし、誰かがロシアンルーレットを回さなければならない状況、いわばリスクの押し付け合いや命の奪い合いというべき状況だったことを私たちはどこまで直視しながら議論していたのだろうか? それと、空間によって感染症の広がりが違うこともどの程度理解したうえで議論していただろうか?
わからない。
新型コロナウイルスのことをまだまだ知らなかった頃の私自身を思い出すにしても、メディアで感染対策に言及する人々が「救う」話を繰り返し、「切り捨てる」話をしないのを思い出すにつけても、そこがわからないのである。
皆さんは、どうでしたか。
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著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
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ブログ:『シロクマの屑籠』
Photo by Markus Spiske