ある日本人の正月

この間、正月というものがあった。新年だ。

なにをする? 初詣だ。初詣でどこに行く? 神社だ。そして、お寺だ。

 

おれは過去十数年、横浜総鎮守と言われる伊勢山皇大神宮にお参りし、すぐ横にある成田山横浜別院へ行く。この位置関係、場所の取り合い、なにやら明治の廃仏毀釈の影響など想像しないでもないが、まあいい。とにかく気にしないで、神社にお参りし、寺へ行く。

 

これを、気にしない。今年などはそのあとべつの寺に行ったが、「同じ真言宗系だからいいよね」などと言いつつ、そもそも神社と寺をはしごすることに違和感がない。本地垂迹を心から信じているわけでもない。まあ、べつに違いはないよね、という。

 

「こんなのは日本人くらいだ」とはいえない。おれは世界を知らないからだ。

まったく知らない。日本から出たことない。カレー屋のネパール人とは少し話すこともあるが、宗教の話まではしない。カレー屋の壁には公明党議員のポスターが貼られているが、たぶんあまりそのあたりがなんなのかまでわかっていないのではないかと思う。たぶん。

(……というような話から始めようと思っていた)

 

世界の宗教のことなにも知らんよな。宗教というか、宗教事情というか、そういうの。断片的には知っている。

べつにキリスト者になるつもりもなにもなく、教養というか、なんか読んでおくかと聖書をあるていど一通り読んだりしたことはある。仏教者とキリスト者の対談本なども読んだりした。それはそれで面白い。

 

でも、もっと大きな視点から見たことなかったな、と思った。思わされた。そういう本を読んだ。小室直樹『天皇の原理』、これである。

あれ? 2023/3/23日発売予定? しかもタイトルが『(仮)天皇の原理』ときたもんだ。

おれは未来の本を読んだのか? いや、古いハードカバーを読んだ。新書になるとは知らなかった。偶然だ。

 

「え、天皇の原理?」と思われるかもしれない。

おれも、まさか世界の宗教についての比較をこのタイトルの本で読まされるとは思っていなかった。

が、実際のところ、タイトルが間違っていると言いたくはなった。あ、だから新書版のタイトルも(仮)になっているのか。たぶん、もうちょっと適切なタイトルはあると思う。

 

ちなみに、小室直樹の本を読もうと思ったのは、朝のワイドショーを見たからである。

宮台真司が襲われたニュースについて、かつて共に時事評論などを行っていた宮崎哲弥が「われわれふたりとも小室直樹先生に大きな影響を受けており、小室直樹再評価の仕事をしようという抗争を持っている」などと語ったことによる。

 

いきなり朝のワイドショーらしくない話をしているなと思い、字面くらいでしかしらない「小室直樹」をWikipediaで読んで、興味を持ったのだ。

 

なぜ、「天皇の原理」が比較宗教学みたいになっているのか。

著者は「日本人とユダヤ人のみが神からのぞみの地を約束された民」として、天皇の秘密を解くうえで「ユダヤ教ほど適切な補助線はない」と書く。

 

そこから、ユダヤ教の話が始まって、世界の宗教、日本の仏教の話になって、最後の最後の方まで天皇の話は出てこない。

こちらとしては、初めて小室直樹に直接あたるにあたって、天皇の話を期待していたのだから肩透かしだ……とはならない。

なにかもう、目から鱗という感じで、「ひえー」となってしまった。

(はい、「ひえー」となるのがポイント)

 

個人救済と集団救済

まず、そうだったのか! と思ったのが個人救済と集団救済のことだ。

ユダヤ教は、本来、個人救済の宗教ではなく、集団救済の宗教である。この点、儒教と同様であり、仏教、キリスト教、イスラム教徒は根本的に違う。

個人救済か集団救済か。宗教を比較するにあたって最も重要な比較点の一つである。

おれの無知や不明もあるだろうが、こんな風に宗教を切り分けられるのかと思った。

唯一神だとか多神教だとか、そういうのではなくて、個人と集団。

 

なるほど、儒教は聖人が天子になりよい政治を行う。それによって国も国民も豊かになる。蝗などの自然現象も退散する。一方で、個人に対する救済(Salvation)は考えられていない。なるほど。

 

そして、ユダヤ教といえば、イスラエルの民のための宗教だ。旧約聖書には神とイスラエルの民のある種の反目、緊張関係があったことが思い浮かぶ。

そして、ユダヤ教における救いは、危機に際して神が奇蹟によって民を救うことである。

 

などといってすごく納得してしまったのです

はい、というわけで、つかみのところで、「これはすごいな、目から鱗だ」と思ってしまったわけです。

原典からの引用や、独特の語り口、なんというか、魅力にあふれている。

 

というわけで、おれは夢中になってこの本を読みすすめた。

そして、キリスト教における「予定説」の解説になって、「そうか、これがキリスト教の真髄なのか!」とびっくりして、これはしっかり自分の意識に植え付けておかなければ、などと思ったわけだ。そして、文章にしておきたいとも。

 

じゃあ、とりあえず小室直樹の解説する「予定説」をご紹介。

 

予定説

予定説とはなにか。神が、予め、救われる人とそうでない人との選別を、定める。そこに条件はないという。無条件で、もう決まっている。それが予定説だ。

予定説をズバリと明言し、教説の中心に据えたのはカルヴァンである。
カルヴァン説の宗教社会学的意味を解明したのは、マックス・ヴェーバーである。

予定説(プリディスティネーション)とはなにか。ルッターが、いみじくも、Voher-bestimmungtoと訳したように、神が予め(Voher)定めること(Bestimmung)をいう。

神が、予め、定める。
何を。
恩恵(グレイス/grace)によって救われる人とそうでない人との選別を。

日本人的な感覚では因果応報、因果律。人の行いのよしあしに応じて救われたり、救われなかったりするのが当然と考える。

 

日本人に染み入った仏教の理論は因果律(Causality)による。しかし、予定説は違う。

では、救われる人と救われざる人との選別はいかにしてなされるのか。救われると選別されるための条件は何か。
条件はない。<無条件>である。

これには面食らう。

 

かの内村鑑三もこれには難儀したという。キリスト教を布教するにあたって、どうにか予定説を説明するのにも「神は公平なり」ということを証明しようとした。ところがこれが間違いだと小室直樹は述べる。

カルヴァンは、絶対に、内村のように考えない。
ヴェーバーが分析したカルヴァン説を要約すると左のようになる。
「神は公平である」なんていうことを証明する必要は少しもない。絶対にない。
それどころではない。
「神は公平である」ことを証明しなければいけないと考えることこそ瀆神である。
公平、不公平なんて言ったところで、それは、畢竟、人間界の規範にすぎない。
神は絶対に高く、人間は絶対に低い。
その低い人間界の規範で高い神を律することは、法外の瀆神である。

神は是非善悪から自由だ。天と地とともにそれを創造した。まったく自由に。

そして、キリストの贖罪もこう解釈される。

 キリストの贖罪の死は、ただ選ばれた者(永遠の生命を予定された者)だけのためである。全人類のためではない。

著者はその根拠としてパウロの「ローマ人への手紙」にその思想が明白に表明されているとする。

神が予定した人だから、この人は善きことをするのである。

 

これはもう、仏教的あるいは儒教的、日本的な因果関係が逆だ。

予定説がキリスト教の要諦であるならば、それを意識してかしないでかわからないが、なんとなくあまり広がらないのもわかるような気がする。

 

さらに予定説にのっとって言えば、キリスト教徒になるのは、自らの意志で信仰に入るわけではない。

内村鑑三も「むりやりにキリスト信徒になさしめられた者であります」と告白している。

これを著者は予定説の理解への一歩手前としている。とはいえ、公平・不公平、因果にとらわれてしまったという。

 

内村鑑三ほどの人をしてそうなのだから、凡俗の我らがそこに踏み入ってキリスト教徒になるまでには相当な何かが必要だ。

日本にキリスト教がいまいち流行らないのは、このあたりに原因があるのではないかとすら思うが、どうだろうか。

 予定説は、キリスト教の根本的教義である。予定説なくしてキリスト教なし。

 

なんかキリスト教の根本をわかったつもりになりました

という、具合で、「キリスト教の根本は予定説なのか!」と、目から鱗をまた流して(鱗って流れるんだっけ?)、いやー、勉強になった! と思い込んだわけだ。

 

が、この原稿を書くにあたって、いや、ざっと書いたあとに、ふと、あらためて「予定説」を軽くググってみると、たとえばWikipedia先生にはこう書いてある。

予定説を支持する立場からは、予定説は聖書の教えであり正統教理とされるが、全キリスト教諸教派が予定説を認めている訳ではなく、予定説を認める教派の方がむしろ少数派である

予定説はキリスト教の全ての教派で受け入れられている訳ではなく、プロテスタントの幾つかの教派で受け入れられてはいるものの、最大の信徒数をもつローマ・カトリック教会や、東方教会で最大の教派である正教会では受け入れられていない教説である。

あれ、そうなの? 根本ではなかったの?

 

そこでまた本書に戻る。すると、こう書いてあるではないか。

カトリック教会は、教義上、善行や功徳や修行によって救済されることを否定している。(ペラギウス異端の拒否)。神の恩恵なくして善行をすることはできない、としている。
これぞ、まことの予定説。

あれ、トリエント公会議で異端として排斥されたとWikipedia先生には。

 

が、もうちょっとちゃんと読んでみると、小室直樹先生もこう書いている。教義上は予定説だが、社会的宗教活動においてはこれに固執できなくなっていった。

というか、こうも言っている。

 日本人だけではない。欧米人が予定説を理解することもやはり困難である。

だから、カトリックも秘蹟(洗礼、堅信、聖体、告解・改悛、叙階・品級、終油の七秘蹟)によって恩恵が獲得されると考えるようになり、予定説から遠ざかっていった、と。

プロテスタントも洗礼と聖餐による聖礼典というサクラメントによって。

というか、はっきりこう書いているではないか。

このように予定説は、欧米のクリスチャンにとっても、俗耳に入り難いというか、俗心は受け難いというか。教義の中心に据えられていても、いつのまにか、社会的宗教活動の表面からは消え去っていく。
カルヴァン派とその他禁欲的プロテスタンティズムだけが例外であった。
予定説を、教義だけでなく宗教活動の中心に据え通し、これを標榜し続けたのであった。

「例外」って書いてある。

 

いったいどうなのかわからん

さて、あらためてちょっとネットを検索して、あらためて本書に戻り、おれは困った。

おれは途中まで、「うっかり一冊の本だけでなにかわかった気にならないように注意が必要だ」と結論付けて「ご用心」としめるつもりでいた。

 

が、ちゃんと読めば小室直樹も「例外」と書いている。少数派だということだ。

これで困ってしまう。はたして予定説はキリスト教の論理、根本的教説なのか否か。

 

小室直樹は社会的宗教活動と教義をある意味で切り分けて考えているようでもある。

ただ、公会議で当人たちが異端としたことを「社会的宗教活動」として片づけていいものなのかどうか。

 

そしてもちろん、宗教は多数決で決まるものでもないだろう。標榜するのが少数派や例外だとしても、予定説を根本と考えるキリスト者もいる。

一人の中で6:4の割合で予定説を受け入れよう、というわけにもいくまい。それはもう1か0かということではないか。

 

そして、小室直樹がヴェーバーから、カルヴァンに、そしてパウロの「ローマ人への手紙」に行き着き、これがキリスト教の根本と考えたことも、多数決で否定できるものではないだろう。

つまりおれは、最初、予定説をキリスト教の根本、主要思想と思い、調べてみたらカトリックでも異端とされているのを知り、「あれ、違うのか」と思い、あらためて本書に戻って「やっぱりどうなんだ」と思っているのである。

 

ここから先はどうすればよい?

これはよくわからん。なにせ本書は『天皇の原理』なのであって、予定説の解説書ではない。とはいえ、ヴェーバーやカルヴァンを、あるいはその解説書を読んだところで、予定説をより知るだけのことだろう。

逆に、予定説を否定する論を読んだところで、それをより知るだけのことだろう。

 

ここから先は、信仰に関わる問題、信の問題になるのだろうか。

とはいえ、おれはキリスト教徒ではないので、信仰によって選ぶということもできない(予定説によればすでに選ばれているか、いないかなので、この考え方も変なことになるか)。

 

というわけで、「キリスト教において予定説というものを根本と考える人たちもいるが、そうでない人の方が圧倒的に多いらしい」という知識にとどまることになる。

最低限、これだけ覚えれば少しは得になっただろうか。でも、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(もちろん未読)は、予定説をベースにしてるんだよなあ。

 

……あ、ちなみにこの本におけるキリスト教の解説はかなりの分量を占めていて、あとは最澄がもたらした自誓受戒による仏教の内面信仰化、さらに親鸞による脱仏教化などが語られ、戒律から離れたことで日本には法が不在であると述べ……天皇は? 天皇はキリストのように復活したという。一度死んだ。なんで? 承久の乱で。承久の乱はポツダム宣言受諾、天皇人間宣言なみの事件だったという。「天皇は無条件に正しい」という予定説から、「よい政治をする者が正しい」という因果律への大転換。

 

『神皇正統記』ですらこのあたりは善政主義が見られる。

しかし、天皇は復活した。崎門の学……というところで本は終わる。なにやら出版を急ぐ理由もあったらしい。

おそらく「詳論はつぎの機会にまわさざるを得なかった」という「つぎ」こそが『天皇の原理』というタイトル通りの内容になったのであろう。

 

独学の限界

「独学」といえるのかどうかわからないが、一人で本を読んであれこれ学ぼうとするのは、やはり難しい。

しっかり読まないと、うっかりの早とちりを三連発くらいでしてしまう。この文章はその記録だ。ついでにいえば、おれがなんの見通しもなくものを書き始めてしまうという自戒だ。

 

とはいえ、独学じゃなくて、これが例えばカリスマ性のある大先生に講義されたことだったらどうだろう。

もっと疑問に思わずに、自分の関心があるところだけ都合よく解釈し、知った気になって、余計調べない可能性もある。

そんでも、やっぱり例えば同級生と話すとか、なんか人前で発表するとかになれば、自らの至らなさや誤解がはっきりと現れることであろう。

 

やはり一人では限界がある。とはいえ、おれには師匠も友達もいない。たんなる高卒の独身中年サラリーマンだ。

今からどこかへ通って学び直す金も暇もない。せいぜい図書館に行って本を借りて読むだけ。それでもまあ、おれが楽しければいい。

 

一人で間違えて、一人で間違いに気づき、一人で顔を赤くするのも悪いもんじゃない。そうじゃないだろうか。何度でもそれを繰り返していくうちに、これといってなにも得られずに死んでいくだけだ。それだけだ。

 

 

 

 

 

【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Siora Photography