いったい何年ぶりだろうか。

とくに理由はないが、ふと気が向いたので、久しぶりにFacebookにログインしてみた。

 

Facebookが流行っていたのは約10年前。

わたしが大学生のころメインで使っていたSNSで、現在も変わらずアクティブの人はもうだいぶ少なくなっている。

それでも、懐かしい友人たちの近況を窺い知ることはできた。

 

レストランオーナー、オーガニック脱毛サロン経営者、彫刻家、ダイエットブロガー、ギタリスト、若者から絶大な支持を得ている歌い手、青年海外協力隊隊員。

いやぁみんな、それぞれの人生を歩んでいるなぁ。

 

「特殊」な職業に就いている人ばかりではなく、企業に勤めながら資格取得を目指している人や、好きなアーティストと仕事ができて喜んでいる人、大学在学中に出産してママになった人、30歳になって大学に通いなおして教職免許を取った人。

いろんな人がいた。

 

でね、思い思いの人生を歩む友だちの姿を見て、思ったわけですよ。

「学生のころ必死で抗っていた『敷かれたレール』って、いったいなんだったんだろう?」と。

 

敷かれたレールを歩く人生は不幸だと思っていた

5年~10年ほど前だろうか。

「好きなことをして生きよう」ブームが到来した。

SNSが普及し、個人の発信が可能になったことで、「同調圧力に負けるな」「自分らしく生きよう」「イヤなことからは逃げていい」という若者の人生論が盛り上がったのだ。

 

そこでよく聞いたのは、「敷かれたレールを歩く人生なんてまっぴらごめん」という主張。

いい大学に行き、スーツを着て就活し、入社した企業に3年以上勤め……という生き方は「敷かれたレール」であり、そうではない「自分らしい生き方」をしたほうが幸せだという考え方である。

 

暗い顔をして、毎日同じスーツを来て、満員電車に揺られるサラリーパーソン。

そうはなりたくない。社畜なんか嫌だ。

新卒で入社したら3年は働け? ばかばかしい。

 

当時、大学を卒業してドイツに移住したわたしは「アンチ・敷かれたレール論」に深く共感した。

「こうすべき」から抜け出せば自由が手に入る、まわりに合わせる必要なんてない、一度きりの人生を後悔しないようにチャレンジすべきだ……のようなことを思っていたし、そんなことを書いていた記憶がある。

 

それは、わたしだけではない。

大学を辞めてブロガーになるだの、休学して世界を回るだの、内容は決まってないけどとにかく起業したいだの、「自由」を手に入れるために必死になっている同年代がたくさんいた。

自分たちがいかに不自由で、選択肢が少なく、まわりから生き方を強制されているかを声高に叫び、嘆き、戦うことを我先に表明。

「自由を奪う『こうあるべき』論」を否定し、「自分らしく生きること」が幸せになる近道だと信じ込んでいたのだ。

 

でも30歳になったいま、改めて思う。

当時のわたしたちは、いったいなにに抵抗していたのだろう?

 

30歳になって「こうあるべき人生」なんてないことに気付く

あれから5年、10年と経って、現在30歳になった友人たちを見てみると、「敷かれたレール」どおりに生きている人のほうが少数だということに気づく。

 

新卒で入社した企業をすぐに辞めた人もいれば、ずっと勤めている人もいるし、結婚した人もいれば、してない人もいる。起業した人もいるし、海外に移住した人もいるし、専業主婦になった人もいる。

 

5年前に必死で抵抗していた「こうあるべき人生」って、どこにあるんだろう。

だってみんな、やりたいことをやって、自分らしく生きているじゃないか。

 

もちろんそれが、その人にとっての理想だったかはわからない。

もっとちがうビジョンを描いていたかもしれないし、実は見えないところで挫折をしていたかもしれない。

 

それはわからないが、とにかく、30歳にもなれば「こうあるべき人生」なんてテンプレを歩んでいる人ばかりではなく、みんなそれぞれ選択し、自分の人生を歩んでいるのだ。

 

そのうえ、当時は「レールから外れた人生はまわりに理解されない」と思っていたが、実際に人生の岐路に立ってみると、だれかの人生の選択を否定するような人たちが、驚くほど少ないことに気づく。

 

「転職? おお、がんばってね」

「大学辞めるのかぁ、やりたいことがあるならそれもいいと思うよ」

「ずっと海外に行きたいって言ってたもんね。夢が叶ってよかったね」

 

チャレンジする人に対するまわりの反応はほとんどがポジティブで、「人生とはかくあるべき」とごちゃごちゃ言ってくる人なんて、だれひとりとしていなかった。

起業したりアーティストになったりした人へも、「応援するね」という声が大多数で、「無理解の壁」に苦しんでいる人なんて、少なくともわたしのまわりにはいなかったのだ。

 

他人を理由に挑戦しないのは自分の問題

しかしこういう話をすると、かならず「恵まれた人の意見」と言う人が現れる。

「お金があったから挑戦できた」「両親の理解があったから可能だった」「まわりがいい人ばかりでよかったね(皮肉)」のように。

 

たしかに、そういう側面があることは否定しない。

生まれ育つ環境には大きな格差があり、挑戦したくともハードルが高い環境の人はいる。それは事実だ。

 

でも挑戦した人は、本当にみんな恵まれていたんだろうか?

 

両親が裕福だから、レストランを開いたんだろうか。

いい大学に行ったから、歌手になれたんだろうか。

まわりの友だちの理解があったから、海外移住したんだろうか。

 

それは、ちがう。

それらの要素が後押しした可能性は否定しないけど、だからといって、それがすべてではない。

 

行動した人がみんな、ノーリスクで挑戦したわけではないのだ。

相応のお金がかかっただろうし、キャリアを棒に振る覚悟を決めたかもしれないし、うまくいく可能性が低かったかもしれない。

 

それでも、やらない理由よりもやりたい気持ちを優先したから、行動した。

そしてまわりはその熱意と覚悟を知っているから、応援した。それだけ。

 

「あの人は〇〇だからできたんだよ」と言えば、〇〇をもっていない自分が挑戦できないのは仕方ない、自分のせいではないと、自分を慰められる。

 

でもそうやってやらない理由を他人に被せる考え方こそが、「選択肢がない」と思い込む壁をつくるのだ。

それはまわりの人のせいではなく、自分自身の問題である。

 

夢を否定される=同調圧力ではない

とはいえ当時、夢を語る若者に否定的なコメントが集まりやすい傾向があったのはたしかだ。夢を語って炎上した若者は少なくなかった。

 

でもそれは、まわりの無理解が原因ではない。

たいていの場合、本人の準備不足が理由だった。

 

たとえば、なんのスキルももっていないのに「自由に生きる」と大学を辞めてブロガーになったり。

たとえば、ドイツ語を一切話せないのに「憧れの海外移住」と日本を飛び出したり。

たとえば、事業内容がぼんやりしているのに「起業したい」とよくわからないクラウドファンディングをはじめたり。

 

「おいおい大丈夫か?」となるようなチャレンジばかりだった。

「もうちょっと考えてやりなよ、失敗するよ」というまわりの言葉を、彼・彼女たちはただの自己否定だととらえ、「生きづらい世の中だ」と悲嘆していたわけだ。

 

でもこれは、まわりの無理解による分厚い同調圧力の壁なんかじゃない。

ただの、常識的なアドバイスだ。

そもそも、よっぽど「やばいだろ……」と思わないかぎり、ふつうは他人の夢に口を出さないし、ましてや否定なんてしない。

 

そんなの面倒くさいもの。適当に応援しといたほうが楽だもの。

否定するより肯定したほうが、人間関係がうまくいくなんてみんなわかっているもの。

 

それなのに多くの人から反対されるということは、成功するビジョンがまったく見えないほどの無計画ということであって、「最先端の自分についてこれないまわりが悪い」わけではない。

 

ちなみにわたしは、大学時代からドイツ語を学び、ドイツ語検定に合格し、1か月のサマーコースで初留学、その後1年間の交換留学をし、帰国後は大学に通いつつ週5フルタイムでアルバイトをしてお金を貯めて、卒業後にドイツに移住した。

こうやって準備しておけば、まわりはむしろ、「がんばっててえらい」という反応をしてくれる。

 

当時はそういうことを理解できずに、「夢を否定する人=敷かれたレールを押し付けている」と短絡的に考えてしまっていたのだろう。

まわりに反対されるだのがイヤなら、まわりを説得できるくらいの準備や努力、結果を提示すればいいだけだったのにね。

 

人生の選択肢を減らしているのは自分自身かもしれない

学生や20代半ばのときは、みんな同じような人生を歩んでいる……というより、同じような人生を歩んでいる人としか関わる機会がない。

だから「そうあるもの」だと思い込んで、「敷かれたレール」を歩かされている気分になってしまう。

そしてそれが、たまらなくイヤだった。

 

でも30歳になって改めて考えると、「別にそう生きるように頼まれた覚えはないな……」とも思う。

 

「企業勤めしなさい」とだれかに言われたことはないし、スーツがイヤならカジュアルな社風のベンチャー企業を探すとか、スーツを着なくて済む業種で考えるとか、やりかたはいくらでもあったはず。

それなのに外の世界に目を向けず、ラクな多数派に流れようとしていたのは、自分自身の選択だ。他人から選択肢を奪われたわけではない。

 

選択肢を減らしていたのは、「みんなと同じようにやらないと」と思い込み、敷かれたレールを歩かされていると勘違いしていた、自分自身だ。

 

「多数派が選ぶ道」は存在するけど、それ以外の道を選ぶ人に対し、世間はそこまで厳しくない。ちゃんと準備をして、他人に迷惑をかけなければ、案外受け入れてもらえる。

 

当時のわたしは敷かれたレールを押し付けられていたのではなく、いろんな世界につながる扉が見えていなかっただけなのだ。

とはいえ、まわりから理解されずに苦しんでいる人に「自分が悪い」というつもりはない。環境が悪いことは、往々にしてある。親や恋人に理解してもらえないこともあるだろう。

 

どうしてもわかりあえない人は、残念ながら存在する。

しかしそうではないのに、他人に選択肢を奪われていると思い込み、「みんなと同じような人生を歩まされている!」「敷かれたレールの上を歩くなんてごめんだ!」「自分らしく自由に生きたい!」ともがく人に、伝えたい。

 

やりたいなら、やればいい。

ちゃんと準備したうえでの挑戦なら、思っているより反対されないから。

 

「敷かれたレール」なんて、いうほどみんな歩いてないよ。

自由を制限する壁をつくっているのはきっと、自分自身だ。

 

 

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(2024/12/6更新)

 

 

 

【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by :Jake Weirick