あなたは誰かにミスを指摘され、イラッとした経験はあるだろうか?
あるいは自分がやった仕事について、何らかの批判をされて不快になった経験でもいい。
僕はこれらにブチッとなるのは四六時中である。「うるせえなぁ」「褒め言葉以外、要りません」と常々思っていた。
人生というのは不快になる為のものではない。だから不満の元となる原因からは距離を置き、心地よい時間を増大させるのが最高の戦略である…と、かつての自分は信じていた。
しかし色々あって、最近は随分と認識を改めるようになった。
というわけで今回は不快感との付き合い方について書いていこうかと思う。
イラッとするのは生理現象だが、どう対応するかは自分の問題
とある人の瞑想体験記を読んでいた時の事である。
その人はあるコース参加者の態度が気に食わないと思ったようで、コースマネージャーにそれを打ち明けたのだという。
コースマネージャーは彼女の意見を一通り聞き終わった後に、こう述べたんだそうだ。
「それは他人の問題ではありません。自分の問題です」
この言葉を聞いて、彼女はハッとしたのだという。
気に病むかどうかは、自分自身で決められる
「確かにアイツには気に食わない所がある」
「だが、それを気に病むかどうかは、自分自身で決められる」
「自分がどう感じるかは変えられないかもしれないが、クヨクヨする価値があるか否かは自分の裁量次第じゃないか」
この気づきを得た後から、彼女自身は他人の目が必要以上に気にならなくなったのだという。
自分自身が他人の事ばかり考えている事に気が付き、それが自分の病だと認識できるようになったんだそうだ。
自分の目が先か、他人の目が先か
世の中には二種類の人間がいる。
最初に自意識が先に先行する人間と、最初から誰かの目にビクビクおびえている人間である。
ちなみに僕は本当に、全くといっていいほどに普段の生活では他人の目を最初には意識しないタイプの人間である。なので自意識選考型の人間の気持ちは非常によくわかる。
自分が何かのアクションを引き起こす前に「他人がどう思うか」を気にした事は下手すると一度もない。
それ故なのか過去にはよく誰かと会話すると「お前の意見はウエメセだ」と言われた。その度に
「いや、別に客観的に意見してるだけなんだけど」
「ってか意見に上も下も無くないか?正しい or 正しくないだけじゃね?」
とずっと思っていた。
他人の目を気にするのは健常発達?
ところが最近、普通という異常 健常発達という病 (講談社現代新書)という本を読んで、いの一番に「他人の目」を気にしてから行動するタイプの人間も多いという事を知って衝撃を受けた。
著者いわく、他人の目を気にしてから行動するタイプの人間というのはむしろ”健常発達”なのだそうだ。
そう言われてみると、アスペルガーと言われているタイプの人間が「空気が読めない」と言われる理由がメチャクチャに腹落ちするのである。
何かをする前に他人の目を気にしているような人間からすれば、初期衝動だけで考えなしに動いている人間がいるだなんて青天の霹靂だろう。
しかし改めて考えてみればである。人間は社会的動物なのだから、他人の目にビクビクおびえてた方が、どう考えても失敗しなさそうである。他人の目など気にせずに好き勝手ふるまってたら
「アイツ、なんか調子にのってね?」
と制裁されるリスクは確かにありそうだ。
そう考えると、他人の目が最初に気になる人間の方が、どう考えても生き残りやすそうなわけで、たしかに言われてみれば”健常発達”だと言えよう。
他人の目が気になりすぎる繊細すぎる人達
とはいえ程度の問題もある。
他人の気持ちが一ミリも気にならない人間はそれはそれで問題だが、他人の気持ちが気になりすぎるのも、それはそれで問題だ。
貴方の周りにも繊細すぎて扱いに困るタイプの人間がいるんじゃないだろうか?例えば周りは何もしていないのに
「傷ついた!!!」
と周囲に騒ぎ立て、ハラハラと涙を流して周囲に自分自身が被害者であると、アピールする人間が一人ぐらいは思い浮かぶと思う。
僕はこういう人間が何をしたいのかマジでサッパリわからなかったのだが、今では
「ああ、元々この人は他人センサーの感度が高すぎたんだな…」
「それが誤作動を起こしまくった結果、行き着いた先としての悲劇のヒロイン・ポジションに味をしめるようになってしまったんだろう」
と、自分なりに納得するようになった。
繊細チンピラはマジで救えない
こういう繊細チンピラ気質な人は
「あの人は…うん、そっとしておこう」
と徐々に周囲から距離を取られがちである。
実は冒頭で書いたコースマネージャーにクレームをつけた瞑想体験記の人は、この繊細チンピラ気質があったたんだそうだ。
彼女はとにかく周囲から自分への加害者意識を見出す事にヤミツキになっていたんだそうで、それを盾にインターネットで正義を執行しまくっていたという。
最初はこれがメチャクチャ楽しかったのだが、あるとき自分の周りを見渡してみるとロクでもない人間しかいない事に気が付き
「…これってヤバくね?」
と猛省し、自分自身を見つめ直す為に瞑想修行に出かけたのだという。
「それって、どういう事ですか?」と聞いてもいい
そうして自分自身を内観しまくった結果、自分がイラッとするお気持ちだけはコントロール不可能だが、イラッとさせられた時に一呼吸おいて”反応しない”事が可能であると気が付き、堪忍袋の緒がブチ切れる回数が激減したのだという。
他にも、他人から何か言われてイラッと来たら
「それって、どういう事ですか?」
とムッとした気持ちを抑えて、冷静に聞き返すように努め、お気持ちを爆発させない術を身に着けられたんだそうだ。
そうして他人を本当の意味で注意深く観察するようになってみると…自分自身がカッとなるような意見を言われても発言者は特に悪意や敵意ではなく、むしろあまりモノを考えずにテキトーに言ってるだけだと気がつけるようになったのだそうだ。
彼女はそういう脳無し発言の多くはあまり深い意図が無い事に気が付き、「あ、”それって貴方の感想ですよね”がまたキタ」とカッと反応せずに処理できるようになったのだという。
生存の為にも、ちゃんとイラッとを処理する技術を身につけるのは肝心だ
世の中は色々な意味で生きにくい。そういう世の中を心安らかに生き抜く為には、適応する他に道は無い。
そういう観点でモノを眺めるとである。他人というのは本当にどうしようもなくコントロール不可能な存在だ。
だが、自分自身はギリギリどうにかなる。だから他人の目が気になりすぎる人は、他人は意外と悪意など無いという事を理解する事が肝心だと思う。
これは本当に本質情報なのだけど…実は多くの人間は自分にしか興味が無い。
他人に異常な程に感心を持ち続けられるのは、殺したい時か恋している時だけである。だから殺意か性欲の香りがしない時は、あまり難しい事を考えるのは損だ。
鈍感になるのは無理な人でも、納得した上で処理できるようになるのは不可能ではない。
だから生存の為にも、ちゃんとイラッとを処理する技術を身につけるのは肝心だ。社会動物として、それは必須技術だといえよう。
他人の目が最初に気にならない人間だって、嫌われたいわけではない
ここまで書いて「ああ…他人の目が気にならない鈍感なアスペ人間がメチャ羨ましい」と思った人も多いかもしれない。
だが、アスペはアスペで他人の目を最初に気にできないが故の苦労が絶えない。
断言するが、他人の目が気にならない人間だからといって他人から嫌われたいというわけではない。
アスペ人は考えもなしにしか行動ができない存在だが、その結果が悲惨な現実を産んでいるという事態はキチンと理解してる。
よくわからないうちに気がついたら所属コミュニティで自分の居場所が消失していたという経験をした事のあるアスペ人は本当に多々いると思う。
究極的な事をいえば、人間には合う合わないがある。だから自分に合う人間だけが残ればいいと納得するしかない。
だが、自分の好きな人にまで嫌われるような人間は終わりである。そういう意味では最初に他人の目が気にならない人間は、反省を身につける必要がある。
他人の目を取り入れて、適度に自分をチューンしよう
また断言するが、他人の目が最初に気にできない人間は、どうやっても気にするのは不可能である。
四六時中「他人の目…他人の目…」と耳元でボソボソつぶやく秘書でも雇えるのなら話は別かもだが、多くの人間は気が緩んだら”忘れてしまう”。
じゃあアスペ人間どうすればいいのかだが、これはもう手痛い失敗の度に”学習”するしかない。
実際問題として御作法を整えるだけで回避できる闘争は本当に多い。
郷に入れば郷に従えという言葉もあるが、郷に従うだけで同じ意図なのに反発が激減するという事は本当に多い。
マナーや礼儀、礼節というのは、アスペにとっての擬態である。
一度しっかりと擬態さえすれば、軋轢が激減するのだから、衣装をいつまでたっても整えないのは単なるバカである。
アスペ人もちゃんと成長する
そしてここが本当に面白い所なのだけど、こうやって他文化のルールを吸収できるようになると、ビックリするぐらいアスペも成長するのである。
自分自身、かつては「合わないな…」と思っていたタイプの人のダメ出しを「仕方がない。これも人生だ」と渋々うけいれて自己チューンを行うようになったところ、ビックリするぐらいに自分が成長する事に気がついた。
かつて大嫌いだった上司の小言を、自分を殺して完コピしたら、信じられないぐらいにミスの無い完璧な仕事が仕上がるようになったり
一円も稼げないからと忌避していた研究を、これで最後だとやってみたら、研究者としての視点が身につくようになったりと
今では他民族の衣装を着回すのが楽しくて仕方がないぐらいである。
変わることを恐れない勇気
そうして気が付いたのだが、自分が誰かから何かを指摘されてイラッとするのは、自分自身に固執しすぎていたからだった。
ちっぽけなプライドという言葉がある。
僕はかつて、この言葉の意味がよくわからなかったのだが、今ではこれは「変化を恐れる自分自身の心」を意味するものだと認識している。
私たちは変わる事を殊の外に嫌がる生き物である。昔を懐かしんだり、新しいものを遠ざけたりするのは、人間の習性と言ってもいいのかもしれない。
だが、枝葉末節が変わったからといって、本質部分までもが変化するという事は無い。どんなに革新的なイノベーションが起きたとしても、人間の本性は100%変えられない。
これは個性についてもそうだ。誰かの意見を聞きまくって、完コピできるぐらいに己を殺したとしても、あなた自身が消え失せるだなんて事は100%無い。
むしろ良い強化学習の機会だと割り切って、色々な情報は入手できるうちに己の脳を通過させた方が、撥ねつけて見なかった事にするよりも絶対にいい。
変わること恐れるのは、生まれ変わった事がない人間だけだ。恐れるべきなのはむしろ、変われなくなった事である。
何度だってやり直せるし、何度だって生まれ変われる。人間とはそういう生き物なのである。
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【著者プロフィール】
都内で勤務医としてまったり生活中。
趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。
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noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます
Photo by :Petri Heiskanen