「人はなぜ、生きているのか?」
自分という存在を自覚するようになった頃に、一度は考えたことのある疑問ではないかと思う。
生きることには楽しいこと・気持ちの良いこともあるが、苦しいこと・辛いこともたくさんある。
最近ときどき耳にする「反出生主義」になぞらえて考えるなら、かならず苦しみが伴うのに私たちが生まれてくるのは良くないことで、生まれてこないほうがいいし、子孫など残さないほうがいい……となるかもしれない。
そして人間だけが苦しいわけでない。動物も昆虫も、生きとし生けるものが生きる限り、もがき、苦しむ。
欲しがっても得られない苦しみ、命を脅かされる苦しみ、そして老化や病気による苦しみや死に至る苦しみ。苦を悪とみなし、苦を回避することを善とみなす限りにおいて、人類絶滅や生物根絶をうたう人々の言い分には確かに一貫性がある。
私も私なりに「人はなぜ、生きているのか」について考え続けてきたが、今もわからないままだ。そうしたなか、最近、市橋伯一という生物学者による『増えるものたちの進化生物学』という書籍に出会った。
この本の章構成は、私にとって非常に魅力的とうつった。というのも、
第一章:なぜ生きているのか
第二章:なぜ死にたくないのか
第三章:なぜ他人が気になるのか
第四章:なぜ性があるのか
第五章:何のために生まれてきたのか
まさに私の考え続けてきた「なぜ」を積み重ねた内容だったからだ。
『増えるものたちの進化生物学』を読んで私が辿りついたのは
はじめに言っておくと、『増えるものたちの進化生物学』そのものは、冒頭で問うたままの「人はなぜ、生きているのだろうか」には答えてくれていない。第五章には、以下のような記述もある。
幸せになることが目的ではないのなら、私たちは何のために生きているのでしょうか。
これに対する答えははっきりしています。私たちには、「○○のために生きている」といったわかりやすい使命や目的はありません。私たち人間を含むすべての生命は物理現象です。増えて遺伝するものが出現すると自動的に起こる現象です。物質が重力によって下に落ちることに目的や使命がないのと同じように、私たち増えて遺伝するものの存在にも目的や使命はありません。
だから実存的な問いに本書だけで答えきれているとは言えない。そもそも進化生物学の書籍なのだから、実存的な答えは期待し過ぎないほうがいいのだろう。
しかし、その実存的な問いを考える際の大前提、人が「どのように」生きているのか・生きるとはどのような現象なのかを考える材料を本書は提供してくれている。つまり、「なぜ生きているのか」のうち、whyという疑問には答えきれなくてもhowという疑問には本書はかなりのところまで答えてくれているのだ。
では、人は(そして生物全般は)どのように生きているのか?
市橋先生は生物の起源にまで遡って、「物質の自己増殖」という現象を紹介する。確かにそうだった。生物を特徴づけるのは自己増殖だ。厳密にいえば、生物だけが自己増殖するわけではない。
しかし全ての生物は自己増殖する。そして自己増殖を繰り返すなかで生き残った者の性質が後世へと伝えられ、そんなことを何十億年も繰り返してきた果てに私たちもこうして生きている。あらゆる生物には自己増殖する性質があり、例外はない。
自己増殖するといっても、その増殖の仕方はさまざまだ。バクテリアのようにものすごい勢いでコピーを増殖させる種もあれば、パンダや人間のように、少ない子孫しか残さないかわりに長く生き、有性生殖をとおして遺伝子をシャッフルさせる種もある。
多産多死の殖えかたと少産少死の殖えかたでは、自己増殖のストラテジーは当然変わってくる──そのように市橋先生は解説する。バクテリアはかぎりなく安い命をかぎりなく殖やすことで、子孫を残し絶滅を免れてきた。いっぽうパンダや人間の命はそうではない。
特に人間は寿命が長く、数少ない子孫の命を大切に育てなければならない。大切に育てなければならないからこそ、人間の自己増殖のストラテジーには「子どもを大切にする」という性質が発展し得る。愛情と私たちが呼んでいる行動上の性質も生まれてこよう。
人間は少産少死をきわめた自己増殖ストラテジーの種として、命を大切にし、愛情を持ち、子どもを育てる性質を身に付けてきた。集団で助け合って生きていく性質も発展させてきたから、他人にどう見られているのかを気にするし、他人を気にかける性質も発展させてきた。
してみれば、私たちが日ごろ執着している悩みごとはどれも、少産少死の自己増殖ストラテジーをきわめた種ならではのもの、であることが本書をとおしてみえてくる。仏教は生老病死を四苦と呼び、愛別離苦や怨憎会苦などをあわせて八苦とも呼ぶが、本書はまるで、そうした執着や悩みの源を進化生物学のロジックで説き起こしていくかのようだ。
第三章「なぜ、他人が気になるのか」も、第四章「なぜ性があるのか」も、社会的欲求や性欲がしばしば悩みの焦点になることを思うと、「なぜ苦しみ、悩むのか」のメカニズムを進化生物学的に説き起こしているようにもみえる。
そう、本書は実存的な「人はなぜ生きているのか」を明示していないとしても、「人はなぜ執着し、苦しみ、悩むのか」については進化生物学的に色々なことを教えてくれるのだ。
本書の読み筋として、「人間の悩みや執着を進化生物学的に読みとおす」が妥当なのか、正直私にはわからない。が、すくなくとも私は本書をとおして人の苦というもの、人の執着というものを強く思った。
私は進化生物学が大好きで、いままで色々な本を読んできたけれども、人の苦、人の執着を進化生物学的に、これほど読みやすく説き起こした本はなかったんじゃないかと思う。
たとえばNHKの『ダーウィンが来た!』も優れて進化生物学的な番組だが、あの番組からは、生きるということと表裏一体の執着や苦しみ、渇愛、といったものはそこまで想像されない。
いろんな人にお勧めできる議論の出発点になっている
本書の最終章では、そうした「人はなぜ生きているのか≒人はなぜ執着し、苦しみ、悩むのか」を考えてきた着地点として、未来の人間がどうなっていくのか(そして未来に向かって私たちは何をなすべきなのか)について市橋先生なりの未来予想を示している。
そこには、性による不平等は少ない方向へ、寿命は長い方向へ──そして不老不死へ──と向かっていくとも書かれている。
この部分については色々な意見があるかもしれないが、さしあたって市橋先生はエキセントリックなことや非常識なことは書かず、読者が議論するための手堅い出発点を提供している。
進化生物学に興味のある人も、自己増殖ストラテジーを持った生物としての人間に興味のある人も、もっと実存寄りの興味を持っている人も、一読してみて損はないだろうし、自分が考えたいことを考える良いスタート地点になるんじゃないかと思う。
私は生きるということの未来─現在─過去を思わずにいられなくなった。
ついでながら、私が本書を読み終えて議論したくなったことも書いておこう。
さきにも書いたとおり、まず私は、本書で解説されている人間の自己増殖ストラテジーが仏教の説く執着によく対応していると感じた。生きるために・増えるために私たちは執着し、悩み、苦しむ。進化生物学的には、それらの執着が足りないご先祖様は子孫を残しにくく、執着のたっぷりあるご先祖様が子孫を残しやすかったのだろう。
そうやって執着の乏しい者が淘汰されていく何十億年もの繰り返しの果てに私たちは生きているのだから、そうした執着が人間にプリインストールされているのは無理もないことだ。
進化生物学は、そのように私たちが進化した所以を教えてくれるが、私たちが生きている意味は教えてくれない。だとしても、進化生物学をとおして、生きるということに執着や苦しみが内包されているさまは、くっきりと可視化されるのではないだろうか。
ここから、私の議論になる。
では、そんな私たちは苦を滅却するために滅亡すべきだろうか?
ラディカルな反出生主義者は「イエス」と答えるのかもしれない。
また性による不平等を極力減らし、不老不死へと向かうことで苦を減らすべきなのだろうか?
良識的な現代人は「イエス」と答えるのかもしれない。
私は……わからなかった。わからないのだけど、滅亡に向かうのも不老不死を目指すのも、なにか違う気がしている。
一面として、それらは人間の苦を減らす方策としてどちらも正しいようにみえる。結果として人間が滅ぶ、結果として不老不死になる、どちらも構わないといえば構わない気もする。しかしなぜ、私たちはそこまで苦を減らさなければならないのだろう?
またなぜ、私たちは不老不死を目指さなければならないのだろう?
反出生主義と不老不死志向は正反対のようにみえて、「生の過程についてまわる苦の存在に否定的である」という点で案外似たロジックに支えられている気がする。
苦のある人生、不老不死ではない人生は、未来においても現在においても過去においても、あってはならないもの・避けるべきものと考えてしまって本当に構わないのだろうか?
いやいや、うまく書けてないな。
なんて書けば読者のかたに伝わるのだろう?
しばらく考えて思い出されたのは、コミック版『風の谷のナウシカ』第七巻、最終盤のナウシカの台詞だった。
絶望の時代に理想と使命感からお前がつくられたことは疑わない。その人達はなぜ気づかなかったのだろう、清浄と汚濁こそ生命だということに。苦しみや悲劇やおろかさは清浄な世界でもなくなりはしない。それは人間の一部だから……だからこそ苦界にあっても喜びやかがやきもまたあるのに。
あわれなヒドラ。お前だっていきものなのに、浄化の神としてつくられたために生きるとは何か知ることもなく最もみにくい者になってしまった。
すさまじいテクノロジーの時代に作られた不老不死のヒドラという存在に、ナウシカはこのように言い放つ。
そしてヒドラとの応酬のなかで、
いのちは闇の中のまたたく光だ!
みずからの生命観をナウシカはこう言ってのけた。
生命の輝きは、苦や汚濁と表裏一体だ。このシーンに至るまでに人間の数えきれないほどの愚かさと苦しさを直視してきたにもかかわらず、ナウシカは苦しみや悲劇やおろかさと共にある人間をそのように肯定する。(と同時に、数多の人間の愚かさを直視できず、肯定できなかった人々もコミック版『風の谷のナウシカ』では描かれている)。
私の仏教観も、ナウシカに近いのかもしれない。
仏教といえば、苦しみの滅却、そのための輪廻からの解脱を連想する人もいるだろう。
しかし私の身近にあった仏教、大乗仏教にして庶民仏教でもあった諸派は、輪廻からの解脱をゴリゴリに説くものではなかったし、輪廻から解脱できない生を見下すものでもなかった。
教理そのままに解脱を目指すより、もっと目線の低いところにそれらはフォーカスしていて、葬式仏教だ現世利益だと後ろ指を指されながらも、苦とともに生きている私たちに寄り添い、はげまし、希望や慰めになろうとするものだった。
庶民仏教は、自己増殖ストラテジーにもとづいて苦を無限に再生産する私たちの生を止めようとはしない。むしろ先祖供養などをとおして再生産に加担するものかもしれない。
じゃあ、それが駄目だったかといったら、私は駄目じゃなかったと思う。ナウシカの世界の人間たちも、私たちの世界の人間たちも、目的も目標もなく、あてどなく、なぜというでもなく、生きている。苦という単一の尺度をもって測るなら、そうした私たちの生は存在しないほうが良いものだろう。
そして自己増殖ストラテジー、あるいは自己増殖の遺伝的アルゴリズムとでもいうべきものに衝き動かされて生きるのは愚かなことでもあるのだろう。私の知る庶民仏教は、そうした愚かかもしれない人々の生に必ずしもダメ出ししていない。教理のなかに解脱を良しとするところがあっても、だ。
私は、技術の進展などによって結果的に人の寿命が長くなってもいいし、日常生活に伴う苦が少なくなるに越したことはないと思う。が、そのことをもって、なぜ生きているのかもわからないまま生きている私たちの生、自己増殖ストラテジーに基づいて増えるものたちの生全般がネガティブにとらえられることを警戒する。
過去においても、現在においても、未来においても、私たちのこのような生がどうか肯定されますように、少なくとも否定に向かい過ぎませんように、そのようにも願う。人は生まれて死んできた。これまでも、これからも。『増えるものたちの進化生物学』を中心にグルグルと考えて私が辿りついたのは、そんなことだった。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
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ブログ:『シロクマの屑籠』
Photo by 金子 作造