外国人が日本を礼賛するテレビ番組がどうも苦手だ。

うっかり観てしまうと、すぐに胸がざわざわしてきて、慌ててチャンネルを変える。

 

YouTubeもそうだ。

制作者側の「作品」であるテレビ番組がどこか嘘っぽさを感じさせるのに比べると、自主制作のコンテンツはよりストレートでアツい。

 

「彼ら」はとにかく日本や日本人を褒めちぎる。マナーから公衆トイレにいたるまで、ありとあらゆることが賞賛の的になる。

そして、日本が、日本人が大好きだと熱っぽく語るのだ。

 

善良そうで感じのいい人たちばかりである。

YouTuberである以上、PVを意識するのは当然としても、彼らの日本礼賛はあながちPV稼ぎのためばかりとも思えない。

 

それに、褒められて嬉しくない人がいるとすれば、それはよほどのひねくれ者だ(わたしのように)。

案の定、

「自分たちさえ気づかなかった日本人の良いところを見つけてくれてありがとう」

「日本を愛してくれてありがとう」

と、コメント欄には感謝のことばが溢れている。

 

でも、そういうのが、どうにもダメなのだ。

なぜだろう・・・。

 

最近その謎がするりと解けるような経験をした。

 

超絶アナログ

謎解きにはちょっと遠回りになるが、それはこんな経験だ。

 

日本はDXで遅れをとっている。それをいやというほど思い知らされることがあった。

車検証の住所変更のために陸運局に足を運んだときのことだ。

 

受付で用件を伝えると、「あそこに並んでください」と、にこやかに言われた。

その窓口はひどく混んでいて、入口付近にまで行列が続いている。

 

その最後尾につき、小刻みに前進しながら首をめぐらすと、まわりには士業や業者とおぼしき人が目立つ。

 

(そういえば、必要な書類をネットで調べたとき、「ご自分で手続きをなさる場合は」と書いてあったな。もしかして、やっかいな手続きなのだろうか・・・。)

 

ようやく窓口にたどりつき、用意してきた車庫証明書、住民票、車検証を差し出す。

 

窓口の職員はプロフェッショナルの早業で書類に目を通し、手際よくクリップで留めると、

「コレを見てこれに記入してください。終わったら、あそこの窓口に出して、収入印紙を買ってください」

早口で言いながら、わたしが持参した書類と3種類の用紙、記入例が載ったファイルをよこす。

 

(後で誰かが入力するものを、わざわざ手書きで記入しろって? ここは10市6郡を束ねる管轄だ。遠くから来なければならない人だっている。各自、オンラインで入力した方が断然効率的で、間違いも少ないだろうに。そもそも住民票と紐づけしてあれば、手続きそのものが不要だろう。)

 

そう思ったが、現場でぐだぐだ言ってもはじまらない。窓口の人に文句を言ったところで、すぐにシステムが変わるわけでもないしと、おとなしく従う。

 

それからのことはあまり思い出したくない。

とにかくめんどくさくて、忍耐力が試される作業だった。

ようやく番号札をもらって待っていると、ついに順番がきた。

 

書類を渡され、やれやれこれで終わりかとほっとしたのも束の間、

「これを持って、ここに行って、手続きを完了してください」

と係りの人が言うのだ。

 

(嘘でしょう・・・・?)

 

膝から崩れ落ちそうになった。

数百メートル離れた別の建物に行けというのだ。

 

(いやはや最後の最後にこんなトラップが仕掛けられていようとは・・・。)

 

気を取り直してハンドルを握り、指定された建物に行って書類を出し、あれやこれやの後、「これで手続き終了です」

となったときには、もう何の感情も湧いてこなかった。

 

引っ越しの度にもれなくついてくるこの手続き。

いくらなんでも、今どき、アナログすぎるだろう。

 

日本人じゃなかったら

「ねえねえ、どんなだったか、聞きたい?」

帰宅早々、パートナーをつかまえる。

「いや、別に聞きたくねーけど・・・」

「いいから、聞いて!」

 

盛大にぶちまけると、ふむふむと聞いていた彼はこんなことを言った。

「日本人だからおとなしく従ってるけど、日本人じゃなければ、暴動が起きてるかもな」

「暴動は言い過ぎだけど」と言いかけて、言いたいのはそれじゃないと気づいた。

 

「日本人じゃなければってどういう意味?」

「外国人だったらさ・・・」

「外国人って、誰のこと?」

「さあ、そう言われても・・・」

 

そうか、これだと思った。

何かの基準や線引きを「なに人だから」に求めるという図式だ。

そして、そういうとき、同じ社会の構成員であっても、日本人以外は「外の人」として扱う。

 

そういえば最近、日本で傍若無人に振舞う外国人に対して、「日本から出ていけ! もう2度と来るな!」と糾弾する外国人YouTuberが話題になっているという話を聞いた。

 

そのチャンネルのコメント欄を覗いてみると、

「よくぞ言ってくれました」

「僕たちの代わりに言ってくれてありがとう」

「日本のことを大事に想ってくれて嬉しいです」

「泣けてきました」

と、感謝、感激のコメントが並ぶ。

 

その気持ちはわからないでもない。

日本のことを大切に思っているのはわたしだって同じだ。

 

けれど、こうも思うのだ。

「日本人ではない人が日本や日本人を想う」という構図がなぜ必要なのかと。

 

他の国と同じように、日本にはいいところも悪いところもある。

日本人もさまざまだ。

 

というか、そもそもことの良し悪しに絶対的な基準などあるはずもない。

それに、一見、長所に見えることでも見方を変えれば短所になるし、短所だって裏返せば長所だ。

 

陸運局での態度もしかり。

文句も言わず指示されるままに行列に並ぶやり方は、決められた枠組みの中では摩擦を生じさせず、感情の消費も少なく、理にかなった振舞いといってもいいかもしれない。

忍耐力は必要だが、耐えられれば、秩序正しく、平和だ。

 

だが、その一方で、そのように円滑に機能することが、フレームワークそのものを変革する際の障壁になってしまう。

 

たとえば最後に別の建物に行くように言われたとき、「どうしてですか」くらいはきいてもよかった。

なんらかの理由があるにせよ、ひとつの手続きが1か所で終わらないとしたら、そこには制度か運用か施設か、なんらかの設計ミスがあるはずだ。

 

でも文句を言わずにおとなしく従うことで、その枠組みは強固で固定的なものになり、必要なDXがなかなか進まないという事態を招いてしまっているのではないか。

 

このように、目につくところだけを取り上げて良いの悪いのといっても、それはものごとの一側面に対する、ひとつの見方にすぎないのだ。

 

そして、わたしたちの社会にはさまざまな人たちが暮らしている。

なかには、日本や日本人が好きな人もいるだろうし、その逆の人もいるだろう。

そのときどきで、好きになったり嫌いになったりするのも、ごくふつうのことだ。

ある側面は好きだが、別の面は好きになれないということだってある。

その人が日本人であろうとなかろうと、だ。

 

その中からことさらに「日本人ではない人」を掬い上げ、その人たちから褒めてもらうことに特別な意味を見出して、いい気分に浸ろうとするのは、自己満足にすぎないのではないだろうか。

その装置をつくるために、「日本人ではない人」を担ぎ出すのは失礼だ。

 

もし日本人であることに自信をもち、誇りを感じたいのなら、わざわざそんな装置をつくるまでもない。自分自身や自分たちの社会にそれを求めていけばいいだけの話ではないだろうか。

その方がよほど健全だと思うのだが、いかがだろう。

 

 

 

 

 

【プロフィール】

著者:横内美保子(よこうち みほこ)

大学教員。33年間、日本語教育、日本語学習支援に携わっています。
Webライター歴は4年あまり。生来の怠け者なので 書く仕事をしていなければ、その分、ひたすら眠っていることでしょう。

Twitter:横内美保子

Photo:David Fintz