今回、『シロクマの屑籠セレクション』として寄稿したこの文章は2016年に書かれたものだが、内容が古くなっているとは思えない。むしろ今後ますますクローズアップされ、論議されていく可能性の大きなものだと思う。
高齢者を巡っては、さまざまな問題とその解決策が議論されている。
たとえば高齢者において著しい貧富の格差もそうだ。高齢者ひとりひとりの問題として考えた場合、経済事情の厳しい高齢者の問題は小さくない。
が、大局的にみた場合、今日の高齢者はやはり豊かではないだろうか。そういうことを随筆したのが以下の文章だ。
みんな「長生き」=「豊かさ」を忘れてしまっている
現在の日本の高齢者は豊かである。もちろんひとりひとりの高齢者を見れば、老々介護を余儀なくされている家庭や無資格施設に”収容”されている高齢者の経済事情は厳しい。
それでも全体としてみれば日本の高齢者は恵まれていると言って構わない、と思う。
その理由は、現在の高齢者がとにかく長寿かつ健康で、認知症やそのほかのハンディを医療のテクノロジーや介護制度によってカヴァーされているからでもある。
現代の高齢者は、とにかく長生きである。80~90歳は当たり前で、100歳超えも珍しくない。
昔の精神医学の教科書には「アルツハイマー型認知症は予後不良、五年以内に亡くなる人が多い」と書いてあったが、近年は、十年以上の余生を生きるアルツハイマー型認知症の人が珍しくなくなった。
高齢者の大半はなにかしら病気や障碍を持っているものだが、病院に通って診察や投薬を受けながら、健康診断やフィットネスクラブやデイサービスなどを利用しながら、とにかくも健康を維持して老後生活をおくっている。
私は、このこと自体が現代の高齢者の「豊かさ」だと指摘したいのだ。
命、とりわけ高齢者の命は無料で手に入るものではない。
高齢者の命は、医療や介護によって守られている。バリアフリーや配食サービスといったサービス業も高齢者の命を支える一助となっているだろう。
平成時代以降、80代を優に上回る人が増えた背景には、そうした諸々の進歩と普及があったことを忘れてはならない。
上掲は厚労省のサイトから借用した、社会保障給付費の推移のグラフである。このグラフの数字はそのまま日本国民の命にかけられた値段、とりわけその大きな割合は高齢者の命にかけられた値段である。
ちなみに他のOECD加盟国と比較した場合、対GDP比でみれば日本の社会保障費は真ん中ぐらいの水準である。日本の特徴は、その社会保障給付の割合に占める医療の割合が高い点にある。
“お金を使って寿命を伸ばすのは、いい事に決まっている”と、みんなが思い込んだ結果として、みんなが命にお金をかけるようになったから、医療費や介護費は天井知らずに増えていった。
「命をお金で買う」ことを社会正義だと信奉している人にとって、今日の医療費の伸びは誇るべき成果である。たくさんの人の命がお金で買えるようになり、ひと昔前なら消えるはずだった命もお金で延ばせるようになったわけだから。
しかし逆に考えるなら、平成~令和時代の高齢者は(そして日本国は)、昭和時代の高齢者よりもずっと命をお金で買っている、命のためにお金をなげうっている、ということでもある。これを「豊かさ」と言わずに、何と言うのか。
この厚労省のグラフが示しているとおり、50代あたりまでの一人当たり医療費はそこまで高くない。
しかし70代の一人当たり医療費はそれよりずっと高額である。つまり70代の命の値段は、30代の命の値段よりも“割高”である。
70代を迎えるお年寄りが少数派だった頃は、それでも大したことはなかったかもしれない。
しかし皆が70代を迎える社会では、その“割高”さが問題になり得るし、現に、大変な問題になっている。それどころか、80~90代のお年寄りもザラにいて、さらに”割高”な命であっても手抜かりなく私たちは支えようとしている。
そうである以上、「国民一人当たり医療費」という名の“相場”は高くならざるを得ない。
その高い命の値段をみんなで負担し、とにかくも“命を買いまくっている”現状を、私は「豊かさ」だと確認したいわけである。
私たちは、高齢者それぞれについて「でも貧しい高齢者もたくさんいる」と言うし、それはミクロな個人の話としては事実に違いない。けれどもマクロな全体の話としては、「超高齢者がこんなにたくさんいて、医療費や介護費を血のにじむような努力をして支払って、とにかく命を延ばしている」という現況全体、やはり「豊かさ」である。
ところが医療を施す側も受ける側も、それが「豊かさ」で、ときには「贅沢」ですらあるという事実を忘れてしまっている。
なぜ、「長生き」=「豊かさ」が忘れられているのか。
理由の一端は、「個人の命はなにより尊い」「個人の命はカネより重い」という固定観念が社会を覆い尽くしているからだろう。
事実としては医療技術や介護制度で命を買っているとしても、命の重みに対しては思考を停止させてしまう――そういう思考停止の作法と観念が社会に浸透し、しかも、浸透したということ自体をみんなが忘れてしまっているのだから仕方がない。
また、命を延ばすための医療技術や介護制度を売る側も、商人のような顔つきで命を売るのでなく、もう少し真面目な面持ちで、神妙な手つきで命を取り扱ってみせるから、命を売買しているという自覚は売る側にも買う側にも乏しい。
むしろ双方の共犯関係は「命は救わなければならない」「命のための支払いは惜しんではならない」といった義務感を醸成することに成功している。
ために、現代の日本社会において「自分達は命を買っている」という醒めた自覚を持っている人はそれほど多くない。
命を金で買っているという自覚が乏しく、健康に金を払わなければならないという義務感のほうが強いから、「長生き」=「豊かさ」に喜びむせぶ人は少なく、命を買い続けることの困難さに悩む人のほうが多い。
いつまで「豊かさ」は続くのか
この、長寿という「豊かさ」は一体いつまで続くのか。
財力で押し切れる富裕層は、これからも安泰だろう。医療技術の進歩による恩恵で、もっと長寿で健康になるかもしれない。
しかし、国民皆保険制度に助けられている一般庶民においては、この限りではない。
もちろん、これまでも制度は高齢化社会にあわせて変化してきたし、破綻を避けるためにこれからも変化し続けるだろう。ただし、国も個人も貧しくなっていく近未来においては、長寿のために支払える金額は公私ともに目減りせざるを得ない。
たとえば高齢者の医療費自己負担が5割になり、いわゆる「就職氷河期世代」が70代を迎えた未来を想像してみて欲しい。どう考えても、現代の高齢者ほどには命を金で買えない社会ができあがる。
そして「長生き」=「豊かさ」を買い支えきれない社会ができあがるにつれて、それを追認するための作法と観念、そして思想が流布されていくのだろう。いや、胃瘻に関する議論などを眺めていると、もう変化は始まっているのでは、と思わなくもない。
映画『PLAN75』のような、高齢者の自主的な死をすすめる未来社会がやってきたとしても驚くにはあたらない。そのとき思想は、そのような社会を正当化するためにどのような理屈をこね、正当化する手続きを示すのだろうか。
時代や制度や政治の事情によって、命を金で買える世代と、命を金で買えない世代の「格差」が生じることは、ほとんど不可避である。“たかが命の長さ”とはいえ、やはり、その長短は「豊かさ」と「貧しさ」に違いない。
もし、ある世代が誰でも長寿を購えて、別の世代が富裕層しか長寿を購えないとしたら、それは、世代間格差といって構わないものではないだろうか。そのあたりの未来について、みんなはどのように考え、どのように折り合っているのだろうか?
これは2010年代よりも2020年代においてより差し迫った問題になると思うので、『シロクマの屑籠セレクション』としてbooks&appsに第二稿を寄稿することとした。
──『シロクマの屑籠』セレクション(2016年7月12日投稿)より
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』
Photo byNhia Moua