宮崎駿監督の最新作であり恐らく最終作である『君たちはどう生きるか』をみてきた。

 

最初に言っておくと、僕はこの映画を非常に高く評価している。ラストシーンでは自分でも全く予期していなかったのだが涙がボロボロと込み上げてきて、美味しんぼの有名シーンのようになってしまっていた。

とはいえ多くの人がご存知のとおり、この映画の評価はメチャクチャである。

 

全く意味がわからなかったとクソミソにけなす意見から、僕のように凄いと絶賛する意見で真っ二つに分かれており、評価が星1と星5で割れるという、ある意味では凄い事になってしまっている。

 

まず第一にいえる事として、この映画は脳みそをカラッポにしてみて楽しめるタイプのものでは全く無い。

読み解き側にある程度の教養やタフネスといったものが求められるという時点で、かなり観客側に求められるものが大きい。

 

加えてこの映画のテーマがそれまでのジブリ作品とはかなり一風変わったものだというのも大きい。

 

これまでの宮崎駿作品は自然との共生(ナウシカ・もののけ姫)や芸術の功績(風立ちぬ)といったような公的なテーマが主題に置かれる事が多かったのに対して、本作である君たちはどう生きるかは完全に私小説である。

 

なので本作を楽しむのにはちょっとしたコツがいる。

今回はそのヒントについて書いていこうかと思う。以下はネタバレ全開なので未鑑賞の人は注意して頂きたい。

 

わずか2時間で自分の人生を表現するという異能

先程も書いたが、この作品は100%宮崎駿の私小説である。だから宮崎駿の人生観だけでなく、宮崎駿の人生そのものが色濃く抽出されている。

 

それを一番最初に感じさせられるのが、冒頭から1時間ぐらいまでの時間のゆっくりとした流れと、後半からの駆け足にすら感じるテンポの速さだ。

 

このテンポのズレを後半はなんか無理やり物語を詰め込んだように感じると思った人も多いかもしれないが、僕が思うにこれは完全に狙ってやっている。

恐らくこの時間の流れの加速度の差は宮崎駿本人による時間の感じ方である。

 

具体的にいうと幼少期は時間というのはゆっくりと丁寧に流れるようなものであり、時系列が比較的シッカリとしているのだが、その代わり退屈で鬱屈とした日々が続くという事が示唆されている。

 

対して、中盤以降の地獄めぐり以降の展開はめくるめくものだ。

部分的には論旨が飛躍しているかのように見える場所もあるものの、その代わりに躍動感が溢れており映画としての面白さがグッと広がる。

 

これは職業人となった宮崎駿が主観的に感じた人生の振り返りそのものを描いたが故の展開である。

まるで走馬灯のように色めく人生が高速で駆け巡っていったという思い出を、これまで身につけてきた技術を全てつぎ込んで表現したのが、後半パートである。

 

この映画は就労以前と就労後の2つの時間の流れがドッキングするように、あえて作られている。

よく年をとると時間の流れがどんどん早くなると言われているが、実際に宮崎駿が主観的に味わった人生のスピード感はこんな感じだったのだろう。

 

タイトルの「君たちはどう生きるか」は宮崎駿からのド直球の問いかけであり、おそらく接頭部に「僕はこんな感じで人生を生きてきたけど、君たちはどう生きるか」と続く暗喩表現なのだ。

 

様々な場所にみえる人生の痕跡の跡

そもそもこの物語はセルフオマージュの嵐である。

屋敷のばあさんは湯婆婆や銭婆のような出で立ちであったり、一緒に地獄に飲み込まれるばあさんキリコは宮崎駿の母親がモデルとなったと言われる崖の上のポニョの意地悪ばあさんトキに様相が極めて酷似している(役割も極めてよく似ている)

 

つまりこの世界は表現されるものがほぼ全て宮崎駿の何らかの投影と思ってもらって間違いはない。

そういう観点で物語を読み解くと、この映画は全ての場所に読める謎が仕込まれまくっている。

 

例えば主人公であるマヒトが冒頭で友人たちと喧嘩した後に、自分で自分の頭を石で殴りつけて傷を負うシーンがある。

あれがいったい何を意味するのか全くわからない人も多いと思うのだが、僕はあれは宮崎駿のアニメイターというフィクション(嘘つき)制作という職業を自ら選んだという罪の意識であると思う。

 

これはジブリファンの間では有名な話なのだが、宮崎駿は本当は子どもたちには外で自然と触れあって遊ぶべきだと思っており、それがトトロのような作品の骨子となっているのだという。

だが、かつてある母親から「うちの子、宮崎駿さんの作ったとなりのトトロを家で何度も何度も繰り返しみているんですよ」と言われ、自分の願いと現実の食い違いに頭を抱えてしまった事があったのだという。

 

「自分は子供を外の世界に誘おうとしてああいう自然アニメを作ったのに、それが結果として子供を家に釘付けにしてしまっている」

 

この自分がやりたい事であるアニメーターという職を選んだ結果、子供に対して悪い事をしてしまっているという自責の念が自身に深い根として宿っているそうなのだが、その罪の意識があの頭の傷のメタファーだろう。

 

この説を裏付けるシーンも複数ある。例えば傷を作った後で父親が突然学校に300円もの寄付をするシーンが唐突に出てくる。

ほとんどの人にとってあれば意味不明なシーンだろうが、恐らくあれは初期のジブリに出資してくれた出版社・徳間書店の社長・徳間康快による映画への出資のメタファーである。

 

子供を外から家に釘付けにするという汚れ仕事をするという決断をしたマヒト(宮崎駿)に対して、お前は世間など気にせず自分のやりたい事をやれと徳間康快が莫大な資金を提供してくれた事を作中で表現したのがあのシーンの真意なのだが、9割ぐらいの人は完全に置いてけぼりであろう。

 

いやはやこの映画は本当に宮崎駿個人史である。

 

地獄は深層心理

彼はこうして聖痕ならぬ邪痕を身につけた事で、アオサギに誘われて塔を通じて地獄巡りの旅へと出かける事になる。

 

地獄とは何か。恐らく地獄とは、宮崎駿にとっての深層心理である。

そしてその深層心理に深く入り込み、そこから作品を組み上げるというのが宮崎駿の思う彼の仕事観である。

 

これもキチンと作中でその意図が明示されている。

それが地獄に入り込んだ当初、ワラワラと白いものが船上で群がってきて上に立ち上っていくあのシーンである

 

あれはしっかりとネタ(魚)を獲得してきて、それを丁寧にさばいて自分なりに解体(解釈)し、脳の中にいる謎の小人(無意識)にシッカリとメシを食わせたら、無意識から意識下に作品が浮上するという事をほぼそのまま提示している。

 

これは創作活動をやっている人間なら、誰もがやっているすごく普通の事である。

そしてそれ(作品)を食べる存在が鳥だ。つまり鳥とは、アニメ消費者のメタファーである。

 

どんどんグルメになり豚化する消費者

鳥は大叔父が塔の中に招き入れた住民だと作中で説明されているが、本来であればアニメを消費したらキチンと現実世界に巣立っていって欲しいという宮崎駿の願いであり、自身の作品である紅の豚にもよくでる「飛べない豚はただの豚さ」というセリフをかなり直球で比喩表現したものに他ならない。

 

先ほども書いたが、創作活動というのは作者の深層心理から生み出された芸術行為である。故に消費者は作品を通じて、その作者の深層心理に触れる事で得難い何かを得る事ができる。

 

作中でも主人公であるマヒトが母が残した吉野源三郎による君たちはどう生きるかを読んで涙するシーンがあるが、本来であれば芸術というのはそれそのものの消費が目的ではなく、芸術消費を通じてそこから何かを得て、現実社会でより強く生き抜く事を目的として作られるものだった。

 

しかし現代社会では主従が逆転し、芸術消費は高尚な暇つぶしにまで堕してしまった。

ペリカンは天高く飛べなくなり、インコに至っては具材を料理して美食をするにまで至ってしまっている。

 

塔はスタジオジブリ

故に塔の中の世界は地獄なのだ。じゃあ塔とは何か。それはスタジオジブリだ。

 

どこかの世界から、この世界に降り注いできた異物を、貴重なものだからと人工的に囲い、それを管理しようと試行錯誤することで何人もの死者を生み出してしまったという表現は、これまで宮崎駿や高畑勲による厳しい労働でもって潰れてしまったアニメ制作者のメタファーだろう。

 

自分自身のエゴの実現の為に、どういう事をやってしまったのか。それが極めて素直に表現されているように自分は思う。

 

最後の最後に塔は崩壊し、そこからインコが飛び立っていったあのシーンは、シン・エヴァンゲリオン劇場版:‖以上にアニメ消費者をジブリから卒業させた屈指の名シーンであると自分は思う(ちなみにこれば別件だが、おそらくインコの王は庵野秀明である)

 

アオサギ、そしてポスターの白い鳥

まだまだ読み解ける事は膨大にあるのだが、最後にアオサギ、そしてポスターの白い鳥についての考察を深めてこの記事をしめくくるとしよう。

 

世間的にはアオサギはプロデューサーである鈴木敏夫ではないかと言われているのだが、僕はアオサギは高畑勲だと思う。

なぜそう思うのかだが、一つにはこの映画は宮崎駿にとっての卒業もテーマになっているからだ。ラストシーン付近で宮崎駿は塔の中で母性との真の別れを告げるシーンがあるが、その後にアオサギとの別れもほぼ同時に行われいる。

 

おそらくこれは父性からの卒業を意味するために意図して配置されたものだ。アオサギは「あばよ、友達」といってマヒトと別れたが、あれは高畑勲への宮崎駿なりの屈折した思いへの別れである。

 

宮崎駿の高畑勲に対する屈折した感情については様々な場所で綴られている。

例えば「仕事道楽 新版 スタジオジブリの現場」という本の中で、スタジオジブリのプロデューサーである鈴木敏夫は

 

「宮さんはじつはただひとりの観客を意識して、映画を作っている。宮崎駿がいちばん作品を見せたいのは高畑勲」

「絵コンテ描きながら、いまだに「鈴木さん、こんなことやってたら高畑さんに怒られるよね」。これを六七歳の男が言うんですから」

 

と語っている。

 

この映画の中でアオサギは極めて奇妙な事に、鳥であると共に人間であるという二重性を唯一所有している。

先ほども述べた通り、鳥はアニメ消費者のメタファーだが、その消費者が人間としての人格も所有するというのはどういう事なのかを逆算すると、実はアオサギはアニメ消費者でもあり制作者でもあるという二重性を所有するという事が示唆される。

 

そもそも地獄の世界では人の顔を持つ男性は3人しかいない。マヒトと大叔父とアオサギがそれだ。

マヒトと大叔父の共通点は芸術家であるという事であり、となるとアオサギも必然的にクリエイターとしての側面を持つと考えるのが妥当である。

 

アオサギはマヒトと同じく唯一塔を出入りする事が可能な極めて例外的な存在だが、なぜ彼が憎々しい有様をしているのかといえば、清い存在である大叔父と父性を聖邪で二分割されて表現されているからだと思えば、その理由も納得がいく。

 

火垂るの墓ととなりのトトロが再び同時上映されている!

この物語は一つの要素が分割されて提示されている。

例えば母は母親をモデルとした女性(キリコ)と継母と母性としての母と3分割されているが、そう考えると父性が白と黒で分割されて提示されている事には特段違和感はない。

 

僕がアオサギを高畑勲だと考える理由は他にもある。

劇中でキリコの船から旅でた二人が武装したインコの家にて「ここを突破しなくては先にいけない」と言うシーンがあるが、あそこでアオサギはインコを引き付ける。

 

そうしてアオサギがインコを引き付けた先でマヒトは家の中にてインコに食べられそうになるのだが、そこで炎の能力を持つ母に救われ、母の家へと招かれるシーンへと続く。

 

このシーンは色んな意味で論理的な整合性が取れていないが、ことスタジオジブリの歴史を知っていると何も違和感なく受け入れられる。

あれは『となりのトトロ』(原作・脚本・監督:宮崎駿)と『火垂るの墓』(原作:野坂昭如 / 脚本・監督:高畑勲)が同時上映された事のメタファーだ。

 

アオサギがインコを引き付けてくれたのは、火垂るの墓という名作が観客の着目を集めてくれたが故に、となりのトトロがセットで大ヒットしたんだという宮崎駿の内心である。

そうでなければ、あそこで炎の能力を持つ母が突然現れて宮崎駿を快適な空間へと移行させたシーンの生成理由がどこにもない。

 

なお、言うまでもなくあのシーンは火垂るの墓屈指のトラウマシーンである包帯で巻かれた母の組み換えである。

墓の中で継母が紙を操るのに火でもって対抗した事からも、この事がよくわかる。

 

ご存知の方も多いかもしれないが、高畑勲は2018年4月5日に死去している。つまりこの映画は唯一、宮崎駿が高畑勲に批評される機会に一生あずかる事ができない作品という事になる。

そうでなくとも82歳という年齢も考慮すれば、恐らく宮崎駿は高畑勲を意識した作品創りを行うことはもう二度とできまい。

 

つまりラストの「あばよ、友達」とは、尊敬する高畑勲(父性であり戦友)に宮崎駿が永遠の別れを告げるという屈指のエモいシーンなのである。

 

それに呼応する形で出されたのがポスターのシロサギこと宮崎駿だというのは疑いようがなく、その宮崎駿に真剣に生きることを問われた僕たちは、背筋を伸ばす以外にいったい何ができるというだろうか。

 

まだまだ書き足りない事ばかりなのだが、本作を駄作と思ってしまった人は是非とも「仕事道楽 新版 スタジオジブリの現場」を片手に「君たちはどう生きるか」を再解釈してみて欲しい。

信じられないほどのゾクゾクする感覚が、背筋から湧き上がること必至である。

 

 

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(2024/4/21更新)

 

 

 

【著者プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

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