しゃれにならないエピソードはない
身体加工といえばいかにも野蛮だが、それこそが文明のはじまりなのだ。誰も動物を野蛮とはいわない。野蛮は文明のはじまりなのであり、おそらく、文明もまた一種の野蛮のはじまりなのである。
おれは身体加工をしている。左耳に三つのピアスをつけている。耳たぶに一つ、ヘリックスに二つ。
おれは四十代中盤の中年男性で、いたって平凡なサラリーマンだ。
おれがピアスを最初に開けたのはいつか。会社員として働き始めたときである。大学生になったときでもないし、大学を中退したときでもない。会社員になって、ピアスの穴を開けた。
「開けてもらった」といったほうがいいかもしれない。
最初に、耳たぶに穴を開けたのは職場であって、ガチャンとやるピアッサーで穴を開けてくれたのは、上司の女の人だった。
ピアスを開けるのが普通の職場なのか? 違う。違うけれど、おもな客先は自治体や公共機関だ。
しゃれたカフェでもバーでもない。それでも、おれはなんかピアスつけたくなったのだった。
なぜか。慶應大学を中退して、ニートでのほほんと暮らしていたら、親が事業に失敗して実家が失われ一家離散となった。そして、なんか流れ着いた先の職場だった。
「ああ、おれは高卒で、零細企業に流れ着いてしまったな。おれにもうまともな人生は残されていないな」と思った。思って、一発ピアスを開けることにした。
よくわからないか? おれもよくわからない。バチンと開けてくれた上司の女の人がなにを考えていたかもわからない。
そしておれは、ピアスつき野郎になった。
なんだかそれで変わったように思えた。クライアントと顔を合わせるときには耳たぶのそれを外した。それだけのことだ。
「おれはもう真っ当な人生を歩んでいないんだ」という、そういう人間だという意思を表示したかった、といえるかもしれない。
二発、三発
しかし、おれにはなにか物足りないものがあった。左耳にピアス一つではなにか心細い。心細いというのも変な話だが、実際にそうなのであった。
では、右耳に開けるのか? それはなんか違うと思った。左耳にもう一つ二つ開けたい。そう思った。思いながら、二十代が終わった。
二十代が終わって三十代になって、「そろそろ開けなければがまんできない」という気持ちになった。
よくわからない。よくわからないが、ヘリックスと呼ばれる軟骨部分に、またドラッグストアで買ったピアッサーでバチンと穴を開けた。
二発目は角度を間違って、一発で開かなかった。
メキメキと音を立てながら、力任せで開けた。そのとき、テレビでは大河ドラマの切腹シーンだったことを覚えている。
おれの左耳には三つのピアスが並んだ。
三つのピアスで心が整う
おれは左耳にピアス三つの人間になった。ヘリックスにはシンプルなシルバーのボールピアス二つ。耳たぶはなんか、適当な、そのときどきのピアス。
それでどうなったか。おれは心が整った。いや、おれは精神疾患者なので心が整うということはないのだけれど、身体加工については「整ったな」と感じた。
実にいいバランスのように思えた。耳たぶ一つでは心もとない。それが三つになって、力が湧いてくるようだ。耳にはツボがあるというが、つねに刺激されていれば、体調もよくなる。そうだろうか?
なにもわからないが、とにかくおれは、この点については上々の気分になった。悪くないぞ、と思った。他人がどう見ようが知らないが、おれは「整ったな」と思った。
これ以上のピアスは必要ないと確信した。右耳に開けることはないし、舌はちょっと興味あったけど面倒くさい。ボディに開けるほど立派なボディももっていない。左耳に三つ。これがおれの到達点だ、と。
タトゥーは?
身体加工。タトゥーはどうなのだ。タトゥーを考えたことがないと言えば嘘になる。嘘になるが、タトゥーは入れなかった。
タトゥーショップに行くこともこわかったし、温泉に入れなくなることも嫌だった。おれが温泉に行くことはほとんどないのだが。
しかし、もしも、Amazonとかで買えるなにかでタトゥーが入れられるなら、入れたかもしれない。
どんな図案? おれのアイコンのそれだろう。太陽のようななにか。ありきたりかもしれない図案。
偶然、おれはこれと同じ構成のピアスを見つけてすぐに買った。大切にしている。
しかし、タトゥーはな、やはりなんか無理だった。自分に入れるのはちょっと無理だったというだけであって、他人がしているのはまったく気にならない。いまだに「いいなあ」と思うこともある。
すごくしっかりしたタトゥーより、なんか下手くそに彫られたな、みたいなやつのほうがよく思える。しょぼいやつのほうが「いいな」と思える。そのあたりの感覚も自分でよくわからないが。
おれは黄金頭ではなくなった
もうちょっと気軽な身体加工といえば、髪の色を変えるというのがある。茶髪、金髪。
おれは黄金頭を名乗っているが、頭が金色だからというのが由来ではない。
すばらしい競走馬から名前を借りた。返すことはできないだろう。ゴールドヘッドは強く、美しい馬だった。
おれの頭はずっと黒かった。藏頭白海頭黒。
小学校のころ頭を染めるなんて発想はなかった。中高一貫校の私学では「頭を茶髪にするのは勝手だが、そのときはこの学校をやめてもらうだけだ」と教師が言った。べつに髪を染めることへのあこがれはなかったし、そういうものだろうと思った。
これもまたピアスと同じだが、会社員になってから初めて髪を染めた。
染めたというか、ドラッグストアで売っているブリーチで色を抜いた。おれは茶髪になった。金色に近くなったこともあるかもしれない。あるいは、赤色。
これもまた、「おれはまともな人生を歩めませんでしたよ」という意思表示だった。
それに、なんというか、髪を染めていると気楽なのである。そのチャラさが、かえって人に安心感を与える、といってわかるだろうか? 黒髪メガネの男性より、茶髪でピアス開けたメガネ人間の方が、ある意味で警戒されない。チャラさが楽にする。そういうところはある。
無論、社会の底辺の人間の中での話である。ビシッとスーツで決めることができれば、なにもそんな必要はない。
おれはそういう人間でなかったから、別の方向に走った。そういうものである。
このあたり、本当に歩んできた人生によってまったくわからないものだと思う。おれはそういう階層を生きている。
生きている? いや、ちょっと過去形になった。おれはもうブリーチをしていない。髪は黒い。
四十代に入ったころだろうか、ちょっと過ぎたころだろうか、おれは髪の色を変えるのをやめた。
なぜだろうか。よくわからない。髪が傷んではげたりするのは嫌だな、と思ったというのもある。あるいは、ツーブロックの涼しさに目覚めて、かなり極端なツーブロックにして、もう染めなくてもいいかと思ったのかもしれない。
ああ、そういえば、前提としておれの柄は悪いようだ。大学に入って、まだ髪も黒くて、ピアス穴もなく、ただチビのメガネ野郎だったのに、ただスーツを着たら「インテリヤクザみたいだ」と言われたことがある。
目付きが悪いのか、なんなのか、おれにはよくわからない。おれはいたって真面目な人間なだけであって、インテリでもヤクザでもない。ただ、持って生まれた柄の悪さはあるらしい。
あごひげバイオレンス
ひげを剃ることが身体加工なのか、ひげを伸ばすことが身体加工なのか、ちょっとわからないところがある。
しかし、ひげを伸ばすことは、やはりちょっと自己主張のようなところはあると思う。
おれとひげ。ひげとおれ。
おれは体毛についてかなり薄い方である。四十代を過ぎて、「肌が女子小学生のようですね」と言われたこともある。つるつる人間だ。
ひげも薄い方で、二十代になるまで、とくにひげ剃りを必要としなかったように思う。とはいえ、やはり生えてくるものは生えてくる。
おれもひげを剃るようになった。電気シェーバーでない剃刀で。いまだにおれは「おれのひげは電気シェーバー向きではないな」という妙な思い込みで、剃刀を使っている。
して、おれはいつ頃からあごひげを少し伸ばすようになったのか。これはよく覚えていない。二十代だったか、三十代だったか。
おれはおれの童顔気味なのを少し気にしていて、「あごひげでも伸ばせば年相応に見えるかもしれない」と思ったような気がする。
そしておれはなんかわからんが、あごひげを少し残すようになった。茶髪、ピアス、あごひげ。なんかそれらしい見た目になったな、と思った。
夏などはアロハシャツを好んで着て、完成形じゃないかと思ったりもした。なんの完成をしたというのか。
いずれにせよ、おれは髪を染めるのはやめたが、あごひげを少し伸ばすのはやめていない。
ひげのなかに白いものが混じってくるところに加齢を感じるばかりではある。とはいえ、これを剃ってつるんとしてしまうのもなにか寂しいような気がして、剃れないでいる。
身体加工は力をくれる
むろん、現代人も化粧もすれば衣服も身につける。耳にはピアスをし、髪を切っては熱処理まで加工する。睫にマスカラを付けもすれば、爪を切ってエナメルを塗りもするのである。刺青をする人間もいれば、整形手術をして若さを保とうとするものもいる。しかも、必ずしも美容上、健康上の理由によってというわけではない。潜在的には、装身具の多くは、いまなお呪術的な力を持つとみなされるといっていい。
にもかかわらず、人間の身体とは何かと問われれば、人は一般に「裸で何も塗らず、形を変えず、飾らない人間の身体」であると答えるだろう。それが現代人の人間の身体についてのイメージであるといっていい。医師の視線にさらされた身体がそれであり、病気も異常も、そのイメージとしての身体からの隔たり、変異として捉えられているのである。
だが、そのような身体を、標準的な人間の身体であると見なすようになったのは、「きわめて後世の、一般的ではない文化的成果」としてなのだ。『身体の零度 何が近代を成立させたか』三浦雅士
呪術力。おれがピアスに安心を得たのも、髪を染めて気が楽になったのも、あごひげを伸ばすことで年相応を演じようとしたのも、それなのかもしれない。そしてそれは、ある種の文化の成果なのである。
諸君、ビジネスマンがきっちりスーツを着て、耳に穴も開けず、整えているのも文化の成果だ。野蛮と文化ではない、文化の違いだ。文化が違うのだ。
とはいえ、おれはもう面倒くさくなって、クライアントの役人との打ち合わせでもピアスを外さなくなった。その結果、どうなったか。
べつにどうにもならん。おれだってサラリーマンらしいシャツに、ジャケットを羽織ったりする。ただ、耳にピアス穴つけているだけだ。
おれはいたって常識人だし(そうだろうか?)、話し言葉も丁寧だ。メールの文面も、おれの精一杯の文章力で書いている。
もちろん、おれが低賃金の下層階級であることには変わりがない。でもまあ、下層階級なりの身なりで、おまえらなんだ、文句あるか、というところだ。
さらに言えば、おれはこんな身なりだけど、能力でやってんだ、低賃金の下流だけど、腕だけでなんとか破綻しないんでいるんだ、という小さな自負のようなものもある。勇気を与えてくれたのは、ピアス。
おれは本当に、左耳に三つピアスつけてよかったと思っている。
呪術かなにかわからないが、おれを力づけてくれる。どんな場所へ行っても、おれはこういう人間だ、ということを主張してくれる。おれが何も言わずとも。
これを、弱者のイキり、見栄、強がり、なんと蔑んでくれてもかまわない。おれがおれであることは、おれの三つのピアスが保証してくれる。やはり呪術か。
しかし、おれも四十代半ばだ。いつまでピアスなんぞしているのか。そういう気持ちも芽生えてきたのも否定しがたい。
でも、おれが「ピアスなんぞ」と思うそれは耳たぶの一個であって、外すことのないヘリックスの二つは、もはやおれの身体といっていい。
よほどのことがないかぎり、おれはこのピアスをつけつづけるだろうし、つけられない立場になったら大人しく自裁するほうがましだと思うくらいだ。
とはいえ、勤め先の零細企業の倒産など、よほどのことは起こりうる。起こってほしくないが、起こるだろう。
できればおれはピアス三つつけたままべつの職場に就きたいが、そんなところはどんなところだ? こわいところか? 呪術力でなんとかなるのか? まったくわからない。
しかしなんだろう、大卒、新卒就職といった人生の真っ当な道からそれてしまったおれ。亡骸が焼却処分されるそのとき、耳にピアスがあってくれたら最高だなと思う。真っ当な人生を歩んでいるあなたにはわからないだろうが。
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【著者プロフィール】
著者名:黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
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