いわゆる「毒親」のもとで育ち、トラウマを抱えながら生きている人たちがいる。自分自身が上手に生きられなくなってしまった人たちがいる。

 

わたしの両親は「毒親」ではなかったと思う。

むしろ有り余る愛情を注がれてきた。

 

女の子の一人っ子。母方の祖母にとっては初孫。溺愛するのはある意味では当然かもしれない。

しかし申し訳ないがわたしは、親のことが好きではない。嫌いというわけではないけれど、決して好きではない。

 

「良い子」が親を怒鳴りつけた夜

「あんたたち、どっちも自分のことしか考えとらんやん!そんなんで娘の大事な時期を潰すんかね!」

 

高校生だったある日の夜。

私は両親をついに「あんたたち」呼ばわりして怒鳴ってしまった。我慢の限界だった。

 

実際、私は「大事な時期」にいた。

受験勉強の仕上げにかかるころ。センター試験(今でいう大学入学共通テスト)の数日前に、ことは起きたからである。

 

物語のような両親の出会い

北海道生まれの母と長崎生まれの父が出会ったのは岐阜県内でのことだったという。

日本の端で生まれた人同士がちょうど真ん中あたりで出会ったなんて、おもしろい話だなと思った。

 

当時母は集団就職の名残で、自分の姉と共に北海道から岐阜県内の紡績工場へと働きに出ていた。寮生活で、実家に仕送りをしていた。

そして当時、父はトラックの運転手だった。母がいる工場に定期的に集荷に行っており、そこで出会ったのだという。

母は自分の工賃から得る小遣いを握りしめ、父と工場近くの焼き鳥屋に通っていたという。

 

そうこうするうちに母の生活を改善しようと父が駆け回って名古屋でおもちゃ屋さんの仕事を紹介し、母の寮生活は終わった。

程なくしてふたりは結婚し、ボストンバッグ1つで北九州市に辿り着く。そしてわたしが生まれた。

母20歳、父25歳のときのことだった。

 

若くて美人の母は自慢でもあった。少なくともわたしの記憶にある小学生のときには、ふたりは仲睦まじかった。作文に書いたことを覚えている。

「お母さんが料理をしているときに包丁で指を切ってしまい、かわりにお父さんがご飯を作ってくれました。うれしかったです」。

そんな内容だった。

 

どうしても地元を離れたかった理由

団地暮らしで、決して裕福な家庭とは言えなかったが、それでも両親にとっては一人娘である。ピアノをやりたいと言えばピアノを買ってくれて、4歳のときに始めた。

 

母が毎週自転車の後ろに私を乗せて教室まで送ってくれて、終わった後は父が迎えに来た。

発表会の衣装は叔母が縫ってくれた。

 

硬筆教室にも通っていた時期がある。

時系列はそこまではっきり覚えていないが、両親共働きの「カギっ子」でもあった。従兄弟が近くに住んでいたので、学校から従兄弟の家に行き宿題をしていた頃もあった。

 

そして、中学受験。

これに関しては、教育ママだからというわけではなく別の事情があった。

 

北九州市、と聞くと地元以外の人がいろいろ想像する側面があるだろう。今でこそきれいな街になったが、30年か40年も前だと、けっこう深刻な状態にあった。

 

当時、市内でもワーストランキングに入りそうな学区に住んでいた。アンパン(シンナー)を屋根裏にストックしている生徒が普通にいる界隈だった。

そのことを母が心配して、わたしを私立の中学校に入れようと考えたのである。

かわいい一人娘に危ない思いをさせるわけにいかない、というわけだ。

 

そしてある私立中学校に、ギリギリで合格した。母は当然喜んだ。

「制服がかわいいけんね。お母さんこのエンブレム好きっちゃ」。

 

外で着る制服以外に、なにかと着替えなければならないカネのかかる学校だったが、母はそうやって楽しむすべを知っている人なのだ。身近なことに喜びと満足を得る能力はピカイチだと思う。

 

ほぼビリで入った私立中学校。しかし成績マウントのいじめっ子に負けまいと踏ん張って、卒業するときには上位にいた。

お金のある家庭ではないので、中学だけ出て成績の良い公立高校に行くプランだったが、高校では特待生にしてくれるということになったので「こっちの方が安い」という理由で進学した。

 

そして高校3年生にもなれば、「ゼロ時間目」と呼ばれる補習から、「8時間目」と呼ばれる補習までが1日である。朝6時には家を出て、帰宅は20時前だった。

そんなときでも、母は毎朝5時に起きて弁当を作ってくれた。

 

両親としては、なるべく安い方法で進学していってほしい。両親の理想は九州大学だった。国立だから授業料は安いほうだし、自宅から通えないこともない距離だからだ。

 

しかし、地元に収まっているわけにはいかない事情が、ふたつ発生した。

 

「子はかすがい」であることの重み

「こと」の始まりがいつ頃、どういう理由だったかはわたしは知らない。

高校に入ってからのわたしは夕食後さっさと自分の部屋にこもって勉強をする。そんなルーティーンを続けていた。寝るのは両親より遅くなっていた。

 

そんな中、気がつけば家の中に不穏な空気が流れていた。

団地の3DK。大きな声や音は嫌でも私の部屋に聞こえてくる。

 

両親がなにか騒がしくなっていたことには気づいていた。しかしわたしは積極的に介入することはしなかった。自分の勉強時間が大事だからだ。

ただ、物音は次第に無視できないものになっていった。

 

あるときには物が壊れる音がしていた。

そしてあるときには玄関先で父が、

「お母さん、ちょっと外行こうっちゃ。殴っちゃるけん」

と。

わたしの部屋は玄関の隣だ。

 

本来なら、

「お父さん何いいよるんね!そんなんしたらいけんっちゃ!何しよるんね?」

と部屋を飛び出すはずのわたしも、もう日々の物音に疲れていた。襖一枚隔てたところでそれを黙って聞いていた。というか、もう、自分が大事で、その均衡を破るわけにはいかなかった。

 

同時に、一人っ子の自分が、事情も知らずにどちらかだけの肩を持つような行動に出るのがいいのか?と考えた。

 

そんな日が続き、私は当時ウォークマンのイヤホンを耳に突っ込んで勉強することにした。

そしてある時から、夕食をとることをやめた。

 

「夜にご飯食べたら眠くなるけん、そしたら家で勉強できんけん」。

こういうとき、自分が果たすべき振る舞いは分かっている。犬猿の仲という両親でも、わたしの前でそれは出さない。だから、3人でならまともな食卓になる、そんなことはわかっていた。

 

しかし、いまはその役割を背負う余裕はないしその場しのぎにすぎない。多少腹は減ろうとも、自分の受験勉強のほうが大事なのである。

同時にその頃、学校では進路相談の詰めに入る。

 

そのときに担当教師から言われたのが、

「おまえ東大とか京大じゅうぶん狙えると思っとるんよね」。

 

家に帰れば騒音地獄が待っている。

でも、家計を考えると九州大学に行くことを親は喜ぶ。

 

とはいえ、「東大京大」というレベルになったら?

仕送りにはお金がかかるだろうが、さすがに「行くな」とは言えないんじゃないか?

 

そのことが、わたしに大きな希望をもたらした。この地獄を脱出する唯一の手段だと思った。

 

父に聞いた。

「学校はこんなん言いよるけん、もし受かったらどっちかに行きたいんやけどどっちがいいかね?」

「どっちかっちゅうんやったら、京都のほうがいいねえ。お父さん東京は嫌いやけん」

となった。

 

その話さえつけばその後は簡単だ。

「こんな家、絶対出てやる。絶対京都に行ってやる」。

 

その思いがさらに勉強に拍車をかけた。こういうときに湧くエネルギーとはすごいものだ。今のわたしに再現はできない。お金を積まれてもできないだろう。

 

そして、ことは起きた

そのとき考えていたのは、きょうだいが欲しかったなあということである。特にお兄ちゃんだったら良かったかもしれない。

 

わたしが両親のこの諍いを黙って見ているしかできないのは、一人っ子だからだ。

 

ひとりしかいない子供が、どちらかの肩を持ってしまうことは良くない、そう考えていた。仮に兄がいれば、じゃあお兄ちゃんはお父さん担当ね、わたしはお母さん担当するけん、といってなんとか子供なりに役に立てたはずだと思っている。

しかし、この家に子供はわたしひとりしかいない。

 

その日もいつものように、騒音をかき消すためにウォークマンのイヤホンを耳に刺して勉強していた。

しかし、それを突き破るような母の悲鳴が聞こえてきたのである。

 

「さやかあああああああああ!助けて!!!!!!!手伝って!」

 

ここまでの音量は尋常ではない。

さすがに部屋を出て状況を確認しに行った。

 

すると、ベランダで父の足を掴んで耐えている母の姿があった。

泥酔した父が、団地5階のベランダから飛び降りようとしていたのである。というか、ほぼしていたのである。

 

すぐさま手を貸した。

母とわたし、ふたりでようやく父を引き上げた。

 

引き上げて寝室に運ぶと、父は嘔吐とともに気を取り戻した。

そしてわたしは、さすがに両親を怒鳴りつけたのである。センター試験を直後に控えた冬の日だった。

 

マークXを一晩で廃車に

わたしは別に、親同士が喧嘩をすることじたいには、ここまでは悩まない。

おそらく、わたしがもうすぐ自分達の手を離れてしまうことの寂しさからなにか歪んだものが生じたのかな、などとと思っている。

 

わたしは念願通り親元を離れた。

しかし、両親の間の亀裂は収まったわけではなかった。母はしょっちゅう電話をしてきては愚痴る。しかし片方だけの意見を鵜呑みにするつもりはない。

 

一度は「やり直そう」と引っ越しをしたが、ひさびさに「新しい実家」に帰ると、棚のガラスが抜けている。何かの節に父が割ってしまったのだ。

ある時は、酔って家を飛び出した父が無茶苦茶な運転をし、廃車状態にして戻ってきたこともあったという。

 

でも、わたしはそこにいなくてよかったのだ。離れて正解だったのだ。あれ以上巻き込まれずに済んでよかった。猛勉強してよかった。

 

そう考え、夏休みも正月も、とにかく海外旅行に行っていた。

とはいえ「子はかすがい」だから、1年か1年半に一度くらいは実家に行くようにしていた。

 

しかし、もう義務でしかなかった。

わたしのいる日くらいしかこのふたりは会話しないんだろうな、わたしのいる日くらい和むといいのかな、という感じだった。

 

しかし社会人になると、もうそれもほとんどやめてしまった。自分も病み始めたところに、親に気を遣うことがバカらしくなってきた。

羽田から福岡まで行く飛行機代は決して安くない。同じ値段あるいはちょっと料金を積んで海外旅行にでも出たほうが自分は純粋に楽しいし、純粋に楽しめるところに時間とお金を使わないともったいない。

 

そうやって放置しているうちに、知らぬ間にふたりは仲の良さを取り戻していた。

きっかけはリーマン・ショックあたりか。母がパート先を失ってからのことだ。

 

ベトナムに遊びに行ったとき、帰りの便を待つ空港で母からの電話を受けた。正月だった。

「いまね、お父さんと釣りにきとるんよ。ちゃんとテントで毛布とかしいとるけんあったかいんよ。きょうは鍋したけんね」

 

楽しそうな両親の報告の電話をベトナムで受ける。

心地よい距離だと、そのとき感じた。これくらいがいい。

 

これはわたしのワガママなのかそうでないのか

正直、一連の出来事から数十年経っても、わたしはこのことによって親を好きになれないままでいる。

 

帰省は義務。ずっとそうだった。

そうこうしているうちに、母は53歳の若さにして思わぬ形で、自ら命を絶った。

 

最後までわたしの心配をしていたという。わたしは心配される年齢でもないのに、それは母の未練だろう。

死屍に鞭打つつもりはないが、そのことを後で聞かされたわたしの気持ちは正直、重いものでしかなかった。

 

愛情は尊い。

しかしそれは、受ける相手が喜んでこそのものである。

 

どれだけの愛情を注がれようと、受け止める側にもキャパシティに限界があるのだ。

かつ、自分が大事な時期を害されたことは決して許してはいない。

 

結果としてわたしは親元を離れられる大学に行った。でもそれは結果論である。

毎朝早起きして弁当を作ってくれたのはありがたい。でも、それ以上でも以下でもないと思ってしまうくらいには、自分は両親というものの存在に疲れていた。

 

就職後、自分の鬱が酷かったときに叫んでしまったことがある。

「わたしは産んでくれっち頼んだ覚えはないけんね!」

 

親に吐くにはあまりにも残酷な言葉だったとわかっている。ましてや「わたし」という存在が最大の生きがいになっている母に対してである。直後は自分で自分を責めた。

 

しかし自分が追い詰められたときに出てきた言葉であるのは事実だ。

時が経ったいま、自分のこの言葉を否定するつもりはない。というか、しなくていいと思うことで自分が救われている。

 

 

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【プロフィール】

著者:清水 沙矢香

北九州市出身。京都大学理学部卒業後、TBSでおもに報道記者として社会部・経済部で勤務、その後フリー。

かたわらでサックスプレイヤー。バンドや自ら率いるユニット、ソロなどで活動。ほかには酒と横浜DeNAベイスターズが好き。

Twitter:@M6Sayaka

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