昔話をする。本当に単なる昔話であって、教訓もなければ何かの役に立つ示唆もない。それは承知の上お読みいただきたい。

 

これを話すと大体の人に冗談だと思われるのだが、私は昔「俺より強いヤツに会う為」に東京に出ることを決意して、それだけの為に東大を受験して、何かの間違いで東大に合格して、そのまま東京に引っ越してきた。

 

何のことかと言うと、要するに格闘ゲームの話だ。

 

私は物心つくかつかないかくらいの頃からゲームが好きで、生まれて初めて遊んだのは近所の駄菓子屋においてあった「Mr.Do!」だった、らしい。といってもこれは兄からの伝聞だ。

 

まだ5歳か6歳くらいの頃の話で、正直ゲームプレイ時の記憶はおぼろげなのだが、その駄菓子屋が「つくい」という店名だったことと、Mr.Do!のBGMについてはよく覚えている。

モンスターが変身する度に妙にアップテンポのBGMが流れるのだが、あのメロディは今でも時々脳内でリフレインすることがある。

 

以来根っからのゲーマーとして、私はゲーセンと見るとふらふらと中に入っていって日がな一日ゲームを遊ぶような生活をしていたのだが、1992年の「ストリーファイターII’」以降の対戦格闘ブームには、言うまでもなくハマり込んだ。

当時、ストIIダッシュの対戦台を求めて、いくつものゲーセンを廻った。

 

私の家の近所に、「キャビン」という名前のゲーセンがあった。

 

恐らく倉庫か何かを改装した建物だったのだ、と思う。屋根の鉄骨が剥き出しになっているボロい建物で、中には1ゲーム50円のゲーム筐体がずらっと並んでおり、プライズゲームなど一台も置いておらず、妙に高い天井には飛行機の模型が幾つもぶら下がっていた。そんなゲーセンだった。

 

そこの親父は頭髪が一本もないことが外見上の特徴で、大抵店員業を放棄して脱衣麻雀をプレイしていたのだが、ガキの分際でゲーセンに入り浸っている私には随分親切にしてくれて、よく30円のスナック菓子をおごってくれた。

私はキャベツ太郎という駄菓子を偏愛しているのだが、私が初めてキャベツ太郎を食べたのはこの親父におごってもらった時である。

 

「ストIIダッシュ」の盛り上がりに少し遅れてキャビンにも対戦台が入って、私は当然のようにキャビンに通いつめ、許す限りの小遣いで格ゲーを遊んだ。

 

ストZEROを、サムスピを、KOFを、ヴァンパイアを、龍虎の拳を。

ワーヒーを、ファイターズヒストリーを、豪血寺一族を、天外魔境真伝を、超人学園ゴウカイザーを。

 

当時、恐らくゲーセンの常連としては最年少だったと思う。当然のように、よく見る顔の中では私が一番弱かった。

 

相手が年上だろうと一切ためらわず対戦に入って、「見知らぬ誰かと本気で対戦する」ことの面白さをこの時知って、何度も何度もけちょんけちょんに負けて、その度「どうすれば勝てたのか」を考えた。

こんなことから人生の教訓を見出したくはないが、これはこれで敗因分析という言語化の練習にはなったかも知れない。

 

キャビンは、私の「ホーム」と言っていいゲーセンだった。ホームというのは、ありていに言えば「行きつけのゲーセン」という程度の意味だ。

 

当時「ゲーメスト」やベーシックマガジンを読み漁っていた私は、ゲームが上手い人たちがみんな「ホーム」と言えるゲーセンを持っていることを知っていて、それに憧れてもいた。

自分もホームゲーセンが欲しくって、それもキャビンに通い詰めていた理由の一つだったと思う。

 

キャビンに通い続けて数年経った。

 

サイキックフォースやストZERO2、ヴァンパイア ハンターくらいの時代だったと思う。

この頃になると、「キャビン」で負け越すことはほぼなくなっていた。大体の対戦台で勝ち続けて、私が座りっぱなしの中向かい側が代わる代わる乱入してくる、という状況が殆どだった。

 

「ホームで最強」と言えば聞こえはいいが、実のところ、地元でゲーセン通いを続けていた人間の数も少なくなっていた、というのが実情だと思う。

常連が少なくなって、相対的に私のゲーセン内での地位が上がったのだ。「どの台にも人が鈴なり」なんて風景も見なくなって、昔程対戦数が重なることもなかった。ゲームによっては、対戦が成立しないままCPU戦をクリアしてしまうこともあった。

 

もちろん私の腕も多少上がってはいた筈だが、まあ早い話井の中の蛙で、自分が蛙だということを理解してもいた。

それでも「キャビン最強」という言葉にはそれなりに誇りを持っていたし、大して根拠のない自信も培っていた。

 

笑ってもらって構わないのだが、当時の私は、本気で「全国を相手に腕試しをしたい」と思っていたのだ。まさに「俺より強いヤツに会いに行く」である。

どうせなら一番強いヤツらがいるところがいい、と思った。それで、ひどく短絡的に「東京に行こう」と決めた。

 

当時はいくつかの格ゲーを掛け持ちしていたのだが、一番遊んでいたのは「ヴァンパイアセイヴァー」や「サイキックフォース」「わくわく7」辺りだったと思う。

セイヴァ―やサイキックフォースはともかく、わくわく7については対戦が成立することも殆どなくて、これも東京に行く理由になった。

 

つまり私は、極端な話、わくわく7の為に上京することにした。

サンソフトがなければ今の人生がなかったと言っても過言ではなく、センター試験の受験申込書に上京理由を書く欄があれば、「まるるんと麦ちゃんが可愛いから」と書いていただろう。

 

色々と事情があって、経済的にもどう転ぶか分からなかったのだが、一番いい大学に受かれば文句ないだろ、無理なら就職しようと思って東大を受けて、何故か受かった。そうして私は東京に来た。

 

昔、新宿に「モア」というゲーセンがあった。

早稲田と若松河田の間くらいにあるボロアパートに居住していた私は、自転車で新宿まで行って、モアに通い詰めた。西口スポーツランドにも行ったし、カニスポにも行ったし、ランキングバトルにも出た。

 

ぼっっっっっっっっっっっっっこぼこにされた。

 

もう笑っちゃうくらい勝てなかった。セイヴァーやストIIIはもちろんのこと、サイキックフォースも、わくわく7も、餓狼スペも、月華の剣士も、当時やり込んでいたタイトル、殆ど全てまるで勝てなかった。10回入って1回勝てるかどうか、くらいの勝率だった。

 

唯一斬紅郎無双剣だけは多少勝てたが、それはこのゲームの対戦バランスが世紀末だからであって、私の腕はあまり関係がない。

 

当時の新宿の面子というのは、現在プロゲーマーとして活躍されている方もちょくちょくいて、大げさではなく日本最強の面子だったと思う。

地方出身の井の中の蛙一匹、実力の差を思い知らされるには十分なインフラで、「これが身の程を知るってことかー」と納得もした。

 

しょうもない話だ。ただ、楽しかった。物凄く楽しかった。

負けに負け続けながらも、心の底から「東京に来てよかった」と思った。滅茶苦茶レベルが高い対戦が見られることが、その中に身をおけることが無性に楽しかった。

 

以来20年以上、私は今でも東京に住み続けているし、ゲームを遊び続けている。

 

「良い思い出」というには、いささかアホらし過ぎる経験だ。ただ、こういうアホな経験も、今ではなかなか実現しないんだろうなーと思う。

 

井の中の蛙になる為には、そもそも井戸が必要だ。

インターネット越しの対戦が普通になって、トップ層の対戦動画を手軽に見られる今では、実力を勘違いすること自体なかなか難しいだろう。「お山の大将」というポジション自体がなくなってしまったことは、ほんの少し寂しい。

 

最近、昔ちょくちょく通っていたゲーセンの閉店の話を聞いて、ふと上のような話が書きたくなった。

新宿モアは遥か昔になくなったし、その後に建ったLABIも今ではもうないらしいが、こういう時代があったんだ、という話はインターネットのどこかに残っていてもいいだろう。

 

今日書きたいことはそれくらい。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo:Matt & Chris Pua