この記事で書きたいことは、大筋以下のような内容です。

 

・町内会で、「その場にいない誰かの気持ちを勝手に代弁して、相手の意見を封じる人」がいた

・「気持ち」自体は必ずしも軽くみられるべきではなく、むしろ尊重するべき

・けれど、「他人の気持ち」を安易に議論に持ち出して、しかもそれで他の人の意見を否定するのは妥当と思えない

・仮想的な誰かの気持ちを代弁することで、自分の意見に「客観的な意見」というような色を乗せようとするのは説得力のドーピング

・「快/不快」の話をするなら、まず「自分」を主語にして欲しいなあと思う

 

以上です。よろしくお願いします。

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。

 

以前書いたことがあるのですが、しんざきは地元の町内会というものに所属しておりまして、コロナ前は町内イベントの運営などにもちょこちょこ関わっておりました。

一応「青年団」という組織があるんですが、一般的な意味で「青年」と呼んでよさそうな人は誰一人所属しておらず、40代の私が最若手です。青年とは何か、若手とは何かという哲学的な問題について、深く考えさせられますね。

 

コロナ禍で大人数が集まる会議などは一旦開かれなくなりまして、最近は町内会の活動というものにもあまり参加しておりません。ぼちぼち再開されるのかな?と思っていたら「イベントは運営する人だけで話し合えばいいし、連絡は回覧板とメールでいいし、会議なんてなくても案外誰も困らないのでは?」という気づきが発生したらしく、顔を合わせる機会が殆どなくなりました。

 

「やらなくても物事がスムーズに回る会議」ほど無駄なものは世の中にないので、それが省かれるようになったのはとても偉大な気づきだと思います。素晴らしいですよね。

 

それはそうと。

その町内会に、「この人の論法、私ちょっと苦手かも……」と感じる人がお一人いました。私よりひとまわり年上の方で、町内会の同じ班にいらっしゃいました。

 

最初は「ちょっと苦手」というだけだったんですが、何度か会議などでお話する内に、段々解像度も上がっていって、苦手な理由を言語化出来るようになりました。

 

つまりその人、「相手の言葉や提案を批判する時、絶対自分を主語にしないで、「他の誰かの気持ちに対する配慮」をダシにして抑え込もうとする」んですよ。

 

例えば誰かの意見に対して、「そういう言い方は良くないですよ。私はいいんだけれど、〇〇な人が傷つくかも知れないから」とか、

誰かの提案に大して「◇◇な人がどう思うか。もうちょっと考えた方がいいと思います」とか、

そういった言い方をしばしばなさる。

 

つまり、「傷つくかどうか」「不快に思うかどうか」という極めて主観的な問題について、具体的に存在しない誰かの気持ちを勝手に代弁して、それに基づいて他の人の意見を批判しているわけですよね。

 

私が苦手に感じたのは、「他の誰かの気持ちを代弁すること」自体ではなくて、

・仮想的な他人の快/不快というデリケートな要素を安易に議論に持ち込んでいるから

・「自分はどう感じるのか」という重要な要素をマスクして、「不特定多数の誰か」をダシに自分の意見強度をドーピングする構図になっているから

だったのかなあ、と。

 

まず前提として、「誰かが傷つくかどうか」「誰かが不快に思うかどうか」に配慮する必要がないとは、私は全く思わないんです。

 

webだと「お気持ち表明」とかいう言葉、「ロジカルでない主観的な意見」に対するネガティブな意味合いで使われたりしてますが、私あれあんまりよくないと思っておりまして、「主観的な意見を表明してはいけない」なんて決まりは本来どこにもないわけです。

「快/不快」の感覚自体が否定されるのはおかしいし、誰でも「この言説は不快だ」と表明して良い。それに変なラベルを貼って、単に「快/不快」というレベルの意見表明をしにくくするべきではない。

 

同時に、「他の誰かの気持ちを代弁してはいけない」というわけでもない。世の中には声を上げられない、声を上げにくい属性の人もいるわけで、そういう人たちがどう感じるか、という思考自体は必要でしょう。

放っておくと一生「いないこと」にされてしまいがちな人について、誰かが代弁しなくてはいけない、という必要性はよく理解出来ます。

 

ただ、以上の前提をおいた上でも、「快/不快」というのは徹頭徹尾「本人にしか分かり得ない」問題でもあって、それを他の人が「代弁」するのであれば、それはやっぱり慎重にならないといけない。

人間にテレパス能力はないのだから、他人の「お気持ち」や「快/不快」を正確に推しはかることは誰にも出来ません。

 

昔塾講師のアルバイトをしていた頃にも、「子どもの気持ちを代弁するご両親」とは何度もお話しました。すぐ隣に子どもがいる面談の場で、「この子は本当に悔しいと思っていて……」とか「〇〇が出来るようになりたいって思っていて……」といった、子どもの気持ちについての説明を熱心にされる中、当の子ども自身は無表情のまま一切喋らない、という場面にも散々突き当たりました。

 

そういう場合、じっくり時間をかけてその子とある程度仲良くなってから、ようやく「そんなことは全く思っていない」と聞かせてもらえる、というケースが専らでした。

子どもの気持ちが理解出来ると思っているのは親ばかり、当人の意識とは巨大な断絶がある、なんてことはまるで珍しくないわけです。

 

それと同じことで、「不快だ/不快でない」なんて個人的な話をする時には、やっぱりそこにはある程度慎重なプロセスがあって欲しい。そりゃまあ、無限範囲の不特定多数を指定すれば、中には「不快に思う人」だっているでしょうが、それが批判の根拠として妥当かどうか、というのは検討の余地があるわけです。

 

そしてもう一点、「じゃあ自分はどうなの?」という点を、やっぱり私は考えてしまうんですよ。

その「快/不快」の源泉は、本当に「自分」ではないのか?何故「自分自身」の快/不快を表明しないのか?

 

そもそも、

「そういう言い方は良くないですよ。私はいいんだけれど、〇〇な人が傷つくかも知れないから」

という言葉に、何でわざわざ「私はいいんだけれど」などという留保が必要なのか。「私も不快だし、他にも不快に思う人がいるだろうから」では何故いけないのか?

 

やっぱりそれって、「主観的」というものに妙なマイナス点をつけて、「客観的」という数の力で優位に立とうとしている、と感じてしまうんですよね。

「自分一人の意見」ではなく、他の不特定多数の意見が乗っているから自分の意見は正しいんだという、いわば多数決めいた説得力のドーピングに、本人の明確な意図があるかはともかく、少なくとも論の構図としてはなってしまっている。

 

この、「自分」をマスキングして数の力を頼ってマウントをとろうとすることに、私はなんともいえない気持ち悪さを感じてしまうわけなんです。

 

別に「自分が不快」ならそれはそれでいいじゃないかと、それで十分尊重されるべきじゃないかと、少なくとも私は思うんですよ。

あなたの気持ちは、それはそれでちゃんと尊重されるべきである。「自分が不快」というのは、決して「他の誰かが不快」に劣るものではなく、十分参考にすべき材料になり得る。

 

なのにわざわざ「これは私の感覚じゃないよ、他の不特定多数の人たちの感覚だよ」とお化粧する。

そういう説得力ドーピングの構図が、こういう言い方苦手だなーと私が感じる最大の原因だ、という話なのです。

 

***

 

上記のような論法、別段珍しいものではなくって、職場でもwebでもちょくちょく見かけます。

 

この記事を書いた直接的なきっかけは、先日はてブで「ディズニーランドに行かない理由はディズニーが苦手だからなのだが、なかなか理解してもらえない」というような趣旨のTogetterまとめを見たことです。

晒す意図はないのでリンクはしないのですが、やはりそちらで、「自分は別にディズニー好きじゃないが、この言葉をディズニー好きの人が見たらどう思うのか想像出来ないのか」などという言葉を投げかける人がいたんですよ。

 

そこに私は、やっぱり「不特定多数の安易な快/不快代弁」を感じてしまいまして、「別にディズニー好きじゃない」というなら、なんでわざわざディズニー苦手な人の言葉に反応するの、なんで不特定多数マウントで人の発言封じようとするの、と思ってしまったんです。

 

ディズニー苦手なら、「ディズニー苦手」という発言をして良い。同時に、「ディズニー好きだから、ディズニー苦手と言う発言を見て不快に感じた」という人がいてもいい。けど、「自分は別にディズニー好きじゃないけれど、ディズニー苦手という発言についてはディズニー好きな人に配慮しろ」というのはちょっと理解出来ない。

 

同じように、なんだかんだ20年近くブログを書いていると、自分自身がこういう論法の対象になることもちょくちょくあります。

 

個人的な印象としては、特に育児関連の記事がそういう論法の対象になることが多いような気がしています。

育児についてのスタンスについてとか、子ども自慢について書いた時、「これを見て、子どもがいない人がどう思うか想像出来ないのか(自分がそれに該当するわけじゃないけど)」みたいな言葉を投げつけられる、というようなケースですね。

 

これについて個人的な所感とスタンスを書いておくと、

・基本的に、私が育児について書くときは、飽くまで「n=1の自分のケース」として書いているつもりで、誰かに押し付けたり、「これが正解」と謳ったりはしていないつもりです

・ただ、(育児に限らず)私の書いた文章が「あなた」を不快にさせてしまったとしたら、それは残念に思いますし、書き手としてあなたの気持ちは尊重します。文章を取り消したり謝罪したりするかどうかはケースバイケースなので分かりませんが

・一方、「あなた」ではなく「他の誰かが不快になるかも知れないから配慮しろ」というのは、正直ちょっと理解出来ないし対応出来ません

ということになります。

 

繰り返しになりますが、「快/不快」という気持ちの問題は、決して軽んじるべきものではないと考えます。「全ての人を不快にさせない」というのは無理なので程度問題ではありますが、書き手として、なるべく多くの人に納得感をもってもらうよう努力してはおります。

 

ただ、「快/不快」の話をするのであれば、まずそこには「自分」がいて欲しい。「不特定多数の誰か」の快/不快の話をする前に、まず自分の話から初めて欲しい。

そんな風に思うわけです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

【安達が東京都主催のイベントに登壇します】

ティネクト代表・安達裕哉が、“成長企業がなぜ投資を避けないのか”をテーマに東京都中小企業サイバーセキュリティ啓発事業のイベントに登壇します。借金=仕入れという視点、そしてセキュリティやDXを“利益を生む投資”とする考え方が学べます。


ウェビナーバナー

▶ お申し込みはこちら(東京都サイト)


こんな方におすすめ
・無借金経営を続けているが、事業成長が鈍化している
・DXやサイバーセキュリティに本腰を入れたい経営者
・「投資」が経営にどう役立つかを体系的に学びたい

<2025年7月14日実施予定>

投資と会社の成長を考えよう|成長企業が“投資”を避けない理由とは

借金はコストではなく、未来への仕入れ—— 「直接利益を生まない」とされがちな分野にも、真の成長要素が潜んでいます。

【セミナー内容】
1. 投資しなければ成長できない
・借金(金利)は無意味なコストではなく、仕入れである

2. 無借金経営は安全ではなく危険 機会損失と同義
・商売の基本は、「見返りのある経営資源に投資」すること
・1%の金利でお金を仕入れ、5%の利益を上げるのが成長戦略の基本
・金利を無意味なコストと考えるのは「直接利益を生まない」と誤解されているため
・同様の理由で、DXやサイバーセキュリティは後回しにされる

3. サイバーセキュリティは「利益を生む投資」である
・直接利益を生まないと誤解されがちだが、売上に貢献する要素は多数(例:広告、ブランディング)
・大企業・行政との取引には「セキュリティ対策」が必須
・リスク管理の観点からも、「保険」よりも遥かにコストパフォーマンスが良い
・経営者のマインドセットとして、投資=成長のための手段
・サイバーセキュリティ対策は攻守ともに利益を生む手段と考えよう

【登壇者紹介】

安達 裕哉(あだち・ゆうや)
ティネクト株式会社 代表取締役/ワークワンダース株式会社 代表取締役CEO
Deloitteにてコンサルティング業務に従事後、監査法人トーマツの中小企業向けコンサル部門立ち上げに参画。大阪・東京支社長を経て、2013年にティネクト株式会社を設立。
ビジネスメディア「Books&Apps」運営。2023年には生成AIコンサルティングの「ワークワンダース株式会社」も設立。
著書『頭のいい人が話す前に考えていること』(ダイヤモンド社)は累計82万部突破。2023年・2024年と2年連続で“日本一売れたビジネス書”に(トーハン/日販調べ)。
日時:
2025/7/14(月) 16:30-18:00

参加費:無料
Zoomビデオ会議(ログイン不要)を介してストリーミング配信となります。


お申込み・詳細
お申し込みはこちら東京都令和7年度中小企業サイバーセキュリティ啓発事業「経営者向け特別セミナー兼事業説明会フォーム」よりお申込みください

(2025/6/2更新)

 

 

 

【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo:UnsplashNik