足の親指を深爪して靴が履けなくなってしまったので、久しぶりに形成外科を訪れた。以前、ばね指でお世話になって以来、3年振りくらいだろうか。

 

大きなビルの一角にあるクリニックは、その間にずいぶん様変わりしていた。

受付は1人から3人に増え、レイアウトもずいぶん変わって、待合室が広くなっているのだが、空席が見当たらない。Webで順番がとれるので、診察待ちのすべての患者がいるわけでもないのに、この繁盛ぶりはどうだ。

雰囲気もなんとなく前とは違う気がする。

 

順番がくるまであと30分といったところか。暇つぶしに首をめぐらせて偵察する。すると、壁には「ハイフやってみませんか」というポスターが貼ってある。

ハイフって、なんだ?

ヒアルロン酸注射のポスターがすぐ横に並んでいるところをみると、美容整形系だろうか。

 

早速スマホで調べてみると、案の定、美容施術も始めたことがわかった。ボツリヌス毒素注射は以前、聞いたことがあるが、ダーマペンだの、メソアクティスだの、ルビーファンクショナルレーザーだの、舌を噛みそうな名前のオンパレードである。

 

ついでに料金も見てみると、施術にもよるが、思ったほど高くない。他で節約した分を回せば、手が届きそうな額なのだ。

プチ整形というやつか、今どきだなあ、と思う。

 

診察が終わってから、さりげなくきいてみた。

「先生、皺って簡単に改善できるものなんですか」

「ええ、できますよ。歳をとると、どうしても重力で下がってきて、たるんじゃうんですよね」

 

医師は私のフェースラインを両手で挟み、

「でも、横内さんは年齢の割に緩みが少ないですね」

「いえいえ、とんでもない!」

 

数年前なら、単純に喜んでいたかもしれないが、現実は厳しい。

私はちょっと見には若く見えるらしく、ときには10歳以上も若く見られることがあって、正直、悪い気はしない。

 

だが、6年前に白内障の手術をしてから、劇的に視力が回復した。それは有難いのだが、自分の皺やシミのように、見たくないものまでくっきり見えてしまうのはいかがなものか。

でもまあ、それが現実だし、なにごとも掛け値なしの事実を受け止めるところから始めようというのが、私のモットーでもある。

 

「ハイフって効果があるんでしょうか。待合室のポスターを見て、ちょっと気になってるんですけど」

「じゃあ、説明しましょうかね」

ハイフというのは、美容機器を使い超音波を活用して皮膚を引き締める施術だという。

 

説明がすみ、2日前までなら無料でキャンセルできるから、迷ったら予約しておくのも手だと言われて、思い切って予約することにした。

ちょうどキャンセルが入った直後で、本来なら2か月待ちのところを、3週間後に予約がとれた。

 

出来心である。

私だってきれいに見られたい。リニューアルした自分の顔が短時間でほぼ安全にゲットできるのは魅力ではないか。

 

でも、それだけではない。

初めての美容整形に自分はどんな気持ちで向き合うのだろう。何をどう感じ、想うのか。そもそも本当に施術を受けるのか。

そんな好奇心がむくむくと湧き上がってきて、抑えきれなくなってしまったのだ。

 

「手術じゃあるまいし、ハイフくらいでご大層な」という声も聞こえてきそうだが、初めての美容整形である。私にとっては一大事だ。

 

皺・皺・皺の日々

それからというもの、他人様の皺にばかり目が行くようになった。

TVにそれらしき人が映ろうものなら、慌てて眼鏡をかけ、じっと皺の寄り具合を観察する。

 

SNSで“熟女の装い”的なポストを探しているうちに、たちまちフィルターバブルに陥り、同じようなコンテンツばかりが表示されるようになった。

 

おでこ、目尻、頬、口周り、首、デコルテ……。

皺というものは本当にどこにでも寄るものなのだ。

皺という皺に引き寄せられ、目を奪われる。

 

しかし問題は皺そのものではなく、皺をどう捉えるかだ。

そんなふうに、皺・皺・皺の毎日を送っているうちに、あることに気がついた。

“街角のマダムたち”が実にカッコいいことだ。

 

特にインスタで見たパリやミラノのマダムたちは、深く刻まれた皺を隠そうともせず、長年愛用してきた年代物のアイテムと今のトレンドを組み合わせて独自のセンスで着こなし、優雅に闊歩している。

 

そんなマダムたちの横にぴちぴちの若い娘が立ったら、どうだろう。その若さが際立つだろうか。

いや、そうはならないだろう。それどころか、未成熟な青臭さが露呈してしまい、逆にマダムたちを引き立ててしまいかねない。

そう思わせるほどの貫禄なのである。

 

そのうちに、ある人に行きついた。キャロライン・ケネディ元駐日米国大使だ。

アメリカのセレブの多くは、頻繁に美容整形を繰り返し、若さと美貌を保つという。きっとセレブ御用達の腕の立つ美容外科医がいるのだろう。

 

正真正銘のセレブであるはずの彼女は、しかし、そうした風潮には流されない人のようだ。

在日米国大使館・領事館のウェブページに載っている“高解像度公式写真”がそれを物語っている。

 

在日米国大使館・領事館 キャロライン・ケネディ元駐日米国大使

 

この笑顔を見たら、誰でもあたたかい気持ちになるのではないだろうか。

理性も感じるし、美しいとも想う。

 

でも、それだけではない。

見るたびに心の奥の深いところが揺さぶられるのは、なぜだろう。

 

「ほー、このおばさん、やるねえ」

ちょうどその写真に出会った頃、例の暴言が報道された。

「俺たちから見てても、ほー、このおばさん、やるねえと」

「少なくともそんなに美しい方とは言わんけれども」

上川陽子外務大臣を評した麻生太郎氏の言葉だ。

発言全体をみれば、おそらく外務大臣の資質や能力、手腕を称えようとしたのだろうなとは思う。

 

しかし、そこにあるのは、あまりに露骨なミソジニー&エイジズム&ルッキズムだ。

 

女性が歳をとると、この3つが束になって飛んでくる。

上川さんとほぼ同い歳の私も、他人事ではない。誰だって歳をとるのに、理不尽だ。女性だけがなぜこんなトリプル・パンチを食らわされるのか。

 

しかし、上川さんは抗議をせず、その理由をきかれてこう受け流した。

「世の中にはさまざまなご意見や、また考え方があるということについては承知をしております」

 

それに対して、

「毅然と抗議すべきだろう」

「いや、懐の深い、大人の対応だ」

賛否両論が湧き起こる。

 

作家の林真理子さんが、

「デキる女はどう対処するか、鮮やかに見せてくれた上川さん」

と週刊文春のコラムに書いたら、Xはたちまち大炎上。

「ケッタクソ悪い」

「なんなんだ、時代錯誤な」

「昭和かよ」

そんな騒動をみていて、確信したことがある。

 

機は熟そうとしている

ミソジニーにしろエイジズムにしろルッキズムにしろ、それを他者に向けるのはタブーである。

現在の日本にはそうした共通認識が醸成されつつあると考えていいのではないだろうか。

 

それは“失言”をめぐる社会の反応が示唆している。それらが誰かに向けられたときには、不当だと抗議するのが当然という時代に入ったのだ。

 

しかし厄介なのは、自分自身の中にもこのトリオが内在していることだ。

そこから完全に自由でいられる人はどれくらいいるだろう。

 

誰だって美しいものに憧れる。

褒められたことではないが、私も若いころはかなりの面食いで、端正な顔立ちの男性にどうしようもなく惹かれたものだ。もちろん中味も大事だが、まずは見かけだった。

 

それは“頭”の問題ではなく、本能的とでもいいたくなるくらい、理性では抗えないものだった。鳥や動物の世界で、華やかな外見のオスにぐいぐい引き寄せられてしまうメスさながらだ。

そして、歳を重ねるにつれ、物質としての肉体は変化し、それとともに、自分の中のエイジズムやルッキズムと折り合いをつけるのが難しくなってきた。それらをつい自分自身に対して向けてしまいがちなのだ。

 

では、“街角のマダムたち”を、なぜカッコいいと思うのだろう。

それは彼女たちが、エイジズムやルッキズムが誰かに向けられたときに猛然と抗議するのと同じように、自身に向けられても毅然と跳ね返し、それと同時に、自分の内なるそれらとも賢く折り合いをつけているからではないだろうか。

 

彼女たちには、加齢による肉体の変化を自然のこととして受け入れる、聡明さと度量、潔さがあるのだ。

それは価値観であり、生き方でもある。

キャロライン・ケネディさんの笑顔に心を打たれるのは、そのことが直感的に感じとれるからではないだろうか。少なくともあの笑顔は私をエンカレッジしてくれた。

 

ようやく機は熟そうとしている。

社会がトリプル・パンチを許さなくなってきたのだ。

次は、自分の中のそれらと闘い、折り合いをつける番ではないだろうか。

 

 

 

 

 

【プロフィール】

著者:横内美保子(よこうち みほこ)

大学教員。専門は日本語文法、日本語教育。

クリニックにキャンセルの電話を入れると、「ありがとうございました。お大事に」と、あくまで感じよく対応してくださいました。でも、何を大事にするのでしょうか。まさか、皺?

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