令和の映画『蒲団』

あまり大作ではない映画『蒲団』をミニシアターで観た。

 

『蒲団』って、田山花袋の『蒲団』?

そのとおりだ。国語の教科書に載っていただろう。日本の私小説のはじまりとも、自然主義文学のはじまりともいわれる作品だ。

なんとなくあらすじを知っている人もいるだろう。蒲団でなにをするのか知っている人もいるだろう。

 

でも、読んだことある? おれはなかった。おれが大好きな高橋源一郎の「日本文学史もの」でもよく出てくるのだが、なんとなく読んでいなかった。古典的名作ってそういうものでしょう。開き直り。

 

で、映画『蒲団』。こちらはあくまで田山花袋作品を「原案」としている。

舞台は令和の現代だ。先生(主人公の時雄のことをこのエントリーでは「先生」と呼びます。おれのなかでなぜかそうなっているので)は小説家ではなくテレビドラマの脚本家だ。そこに、脚本家志望の若い女性が弟子になりたいと押しかけてきて……。

 

大筋は原案どおりの展開だ。……え、「原案どおり」?。なんで知っているの? そうだ、おれは映画のあとに田山花袋『蒲団』を読んだ。青空文庫で読んだ。

 

そんなに長い作品でもないので、未読の人はこのさい読んでみたらどうだろうか。まあいい、映画では大幅にカットされた要素があって、弟子の女性の家族が一切出てこない。かなりミニマムな映画だ。先生とその妻。子供はいない。弟子の女性、恋敵となる小説家志望の若い男。あとは、脚本を渡すプロデューサー。これだけ。

 

原案の方もそう多くの登場人物はいないが、かなりざっくりと削ってシンプルにしている。これは、悪くないと思う。この構成で小説にすると「もたない」かもしれないが、映画は役者の演技で持たせられる。脚本を渡すときの先生、斉藤陽一郎の顔芸など最高だ。

 

明治の『蒲団』と令和の『蒲団』

して、どうしても明治の『蒲団』と令和の『蒲団』を比べたくなるではないか。

 

まずは、先生と弟子がどこに住むかというところが違う。明治では先生の自宅、妻と子供がいる家に住まわせた。これは当時どうだったかもわからないが、現代では考えにくい。

もちろん、明治の妻は専業主婦(という言葉もなかっただろうが)で、現代ではバリバリ働いているライター兼編集者のようで、リモートワークをしている。なんなら、今の先生より稼いでいるのかもしれない。

 

では、「蒲団」はどこにあるのか。先生は古いビルの屋上的なスペースに仕事場を持っている。そこで執筆活動をする。蒲団はそこにある。

 

先生、先生といっているが、なんの先生かも違う。明治の先生は小説家であるが、現代の先生はテレビドラマの脚本家である。……ちょっと古い感じがしないではない。令和でテレビドラマの脚本家に憧れて、わざわざ上京してくる人がいるだろうか。

 

しかしまあ、ここはギリギリに原案の「らしさ」を残すラインかもしれない。本当に現代となったら、VtuberかYoutuberかなにか人気の配信者のもとに……とかになるのだろうか。どうもそれでは話の雰囲気が変わってしまう。

 

先生の年齢も違う。明治の先生は「34歳くらい」だ。34歳で子供が3人できて、中年の世界に入り込みかけている。もう若くもないが、枯れ切ってもいない。そんなお年頃。

これが令和になると「48歳」だ。昭和と比べて現代人の年齢は8掛けくらいというが、明治と比べたらさらに差がある。

 

とはいえ、48歳くらいのおっさんというのはリアルな年齢だろう。

34歳くらいではまだまだ若すぎる。仕事にも私生活にもくたびれたおっさん。40歳? いや、もう一声、というところで48歳。現代の48歳はいい具合にくたびれているが、悪い感じに若い。そんなところだ。

 

で、令和の先生は妻一人の家庭にも疲れている感じだが、仕事の方もくたびれている。かつてのようなナイスな作品が書けなくなっている。才能の枯渇か、時代へついていけなくなったのか……。

 

ここで、令和の弟子は明治の弟子と違う。先生のアシスタントとして仕事を助ける。脚本の一部分を書いたりする。

その部分が評価されてしまったりする。先生はそれを本人には言えない。「あの部分はプロデューサーに文句を言われたけど、こっちから言っておいたよ」みたいなこと言う。そんなふうに、若い弟子に頼るようになる。ああ、情けない先生。

 

明治のNTR、令和のNTR

時雄は悶えざるを得なかった。わが愛するものを奪われたということは甚だしくその心を暗くした。元より進んでその女弟子を自分の恋人にする考は無い。そういう明らかな定った考があれば前に既に二度までも近寄って来た機会を攫むに於いて敢えて躊躇するところは無い筈だ。けれどその愛する女弟子、淋しい生活に美しい色彩を添え、限りなき力を添えてくれた芳子を、突然人の奪い去るに任すに忍びようか。機会を二度まで攫むことは躊躇したが、三度来る機会、四度来る機会を待って、新なる運命と新なる生活を作りたいとはかれの心の底の底の微かすかなる願であった。時雄は悶えた、思い乱れた。妬みと惜しみと悔恨との念が一緒になって旋風のように頭脳あたまの中を回転した。師としての道義の念もこれに交って、ますます炎を熾んにした。わが愛する女の幸福の為めという犠牲の念も加わった。で、夕暮の膳の上の酒は夥しく量を加えて、泥鴨の如く酔って寝た。

映画では、若い弟子に依存しつつある先生の前に現れてしまうのが弟子の彼氏である。

『蒲団』は近代日本文学のはじまりはNTRなのである。なんという国だろう。すばらしい。あ、NTRとは「寝取られ」のことです。そういう趣味の人もいるのです。ここにいるかもしれません。

 

そうなのである。先生と弟子はいい感じになるが、あくまで弟子には彼氏がいる。明治では手紙のやり取りを先生は盗み見するが、令和ではLINEのやり取りを盗み見する。

先生はストーカー気質がある。こころをかき乱されては、あひるの如く酔って寝る。

 

して、その彼氏もずいぶん違う。明治の方はそれほど個性を与えられていない。同志社を中退して上京してくる元神学生の書生みたいなの。あくまで先生の目から見ると、なんでこんな男という描かれ方。

 

令和彼氏はどうなのか。大学を中退して上京、東京で脚本家になって一旗揚げるというところは同じだ。

ただ、この、最初はメガネをかけたひ弱に見えた青年が、これが鬼畜メガネなんよな。先生に「あんたの仕事はもう古いんだ、才能が終わってんだ」みたいなことを直接言ってのける。

さらには、最後に「あいつ、おまえのこと処女だと思っていたぜ」とか、まぐわいながら言ったりする。それに対する弟子の答えもけっこう悪いのだが、このまぐわっているときにこの発言はNTR力は高いと言えよう。

 

そうだ、明治の先生も、令和の先生もやけに処女にこだわる。正直言ってキモいと言わざるをえない。

明治の先生も令和の先生も、「やったのか、やっていないのか」にこだわる。その考えも令和では古いとメガネに言われてしまう。まあ、そうだろう。そして、きっと、明治の二人にもそう思われていたのだろう。ああ、先生、先生はキモい。

その田中という二十一の青年が現にこの東京に来ている。芳子が迎えに行った。何をしたか解らん。この間言ったこともまるで虚言かも知れぬ。この夏期の休暇に須磨で落合った時から出来ていて、京都での行為もその望を満す為め、今度も恋しさに堪たえ兼ねて女の後を追って上京したのかも知れん。手を握ったろう。胸と胸とが相触れたろう。人が見ていぬ旅籠屋の二階、何を為ているか解らぬ。汚れる汚れぬのも刹那の間だ。こう思うと時雄は堪らなくなった。「監督者の責任にも関する!」と腹の中で絶叫した。こうしてはおかれぬ、こういう自由を精神の定まらぬ女に与えておくことは出来ん。監督せんければならん、保護せんけりゃならん。

「手を握ったろう。胸と胸とが相触れたろう」! 想像たくましい、先生!

 

先生のミソジニー

しかしなんだろうか、先生はパワハラしまくりである。

「師匠の監督責任として」とか言いながら、彼氏を遠ざけようとする。彼氏に「考えが甘い。絶対に成功しない。とっとと田舎へ帰れ」と言う。令和の先生は「弟子の近くのアパートに引っ越してくるなんて、覚悟が足りない!」とかわけのわからないことを言う。

 

さらに令和の先生は悪いことをする。いちばんきつい表現をすれば不同意性交未遂である。セクハラにパワハラが合体した上に、自分の劣情に負けている。

最初、弟子が蒲団で仮眠するときとか、雨にふられてシャワーを浴びたときとかは我慢していたのに、心がボロボロになって襲ってしまう。そんな人だったのか、先生。

 

ここまでくると、先生はミソジニストじゃないかと言われても仕方ないかもしれない。女性蔑視者。弟子が自分の作品に感謝しているほどのファンであり、脚本家の師匠になってほしいという意味での好意と、恋愛的な好意、性的な好意をごっちゃにしている。相手のことをまったく考えていない自分勝手さだ。自分になびいている若い女なんて……と、内心思っているんじゃないのか、先生。よくないぞ、先生。

 

先生の情けない結末

先生と弟子との結末も、明治と令和では違う。明治の先生は田舎から弟子の親を呼び出すというパワープレイに出て、弟子は田舎へ連れ戻されることになる。先生は弟子を失うが、彼氏との仲を引き裂くことには成功する。これはひどい、先生。

 

一方で、令和の先生はどうなのか。こちらは弟子に打ち捨てられる。彼氏を選択する。さらには、仕事も弟子に取られる。先生は股間を蹴り上げられて、路上を転げ回る。弟子は晴れやかな顔で仕事にも恋にも勝つ。

 

令和の先生の負けっぷりのほうがひどい。それだけ劣情に負けた結果ではある。

とはいえ、やはり『蒲団』のクライマックスは蒲団である。しかし、明治の『蒲団』も最後の一行は不要のような気がするし、令和の映画『蒲団』も蛇足じゃないのかという終わり方をする。語り継がれる名シーンでズバッと終わればいいのに、と思う。

 

……明治の文豪にそんなことを言う、おれは何様なんだろうか。

 

『蒲団』の先生からなにが学べるのか

以上が明治と令和の『蒲団』の感想となる。あくまで自然主義文学、私小説である。ここから何かを学ぼうというのはへんな話かもしれない。でも、先生が身を以て示してくれた情けない姿から、なにか学べるものがあるのではないか。令和のおっさんとして学ぶべきところがあるのではないか。

 

いや、「学ぶ」というところがおかしい。もっと、なんというか、この……「反省しろ」だろうか。おまえ、先生みたいになっ」」ていないか。先生みたいな態度で女性に接してはいないか。とくに若い女性にパワハラしていないか? セクハラしていないか? マイクロアグレッションしていないか? 自省、反省、反理性。

 

そしてまた、男の弱さについての自覚。これも求められる。強い立場に立ってハラスメントしているのに弱い? そうだ、自らの劣情への弱さだ。女性に同じような弱さがあるのかわからん。あるのかもしらんし、ないかもしらん。似ているけど違うかもしれないし、違うけれど似ているのかもしらん。

ただ、とにかく、男は弱いよな。惑溺するよな。そう思ってしまう。田山花袋はそれを詳らかにしてしまったよな、と言いたくもなる。この、男の裏切り者め!

 

……とか言ってたら、おれも悪い男である。おれは老いぼれだが悪い男ではない。そしてもうすぐ死ぬ。だから、ちょっとそこのお嬢さん、話をしないか? たとえば文学の話とかだ。なあ、おれも「先生」とか呼ばれてモテたいよな……。

 

 

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【著者プロフィール】

黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

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