もう随分と前のことだが、遠足の行き先をめぐり、保護者の間でちょっとした騒ぎになったことがある。

聞けば、小学2年生の子どもたちの目的地が石舞台古墳とのことで、賛成できない親御さんがいるとのこと。

 

ご存知のように石舞台古墳といえば、奈良県明日香村にある、日本を代表する史跡だ。

しかしその見た目は、乱暴に言えば「岩を積んだだけの何か」といえなくもない。

幼い子どもたちが連れて行かれても、喜ぶ姿は確かになかなか想像できないだろう。

石舞台古墳

画像引用:農林水産省「棚田に恋」より

 

そのため反対する親たちの意見は、

「そんなところに幼い子どもを連れて行って何になるのか」

「子ども向け遊園地に連れて行ったほうが、良い思い出になるのに」

といったもののようだった。

 

思えばこの論争は、私たちが「大人の都合」で旅行先を決められていた子ども時代に、いつも感じていた疑問だ。

せっかくの修学旅行なのに、なぜ京都や奈良に行かなくてはならないんだ。

どうせなら沖縄の海に行きたかった、ディズニーランドで思い出を作りたかったと、そんなことばかり考えながら地図を片手に神社仏閣を巡った人も多いだろう。

私自身そう思いながら、皆と食べる夕食だけを楽しみに、苦行のような時間に耐えていたように記憶している。

 

しかしいい年のオッサンになった今、あの遠足や修学旅行の無意味な目的地の意味を、やっと理解できるようになった気がする。

さらに言えば、小学2年生の子どもたちを石舞台古墳に連れて行くなんて、なんて素敵なことだろうとすら考えている。

それはどういうことか。

 

「おばちゃんが買うたる」

話は変わるが、1980年代に作られた「てんびんの詩」という映画をご存知の方はいるだろうか。

近江商人の大店(おおだな)に生まれた主人公が、小学校を卒業した日に父親から呼び出され、数枚の鍋ぶたを渡されるところから始まる物語だ。

 

「この鍋ぶたを行商で売ってきなさい。鍋ぶたの1枚も売れないような者に、家業は継がせられない」

渡された商品はどこにでもある、木製のありふれたものだった。

以下、映画のネタバレが含まれることをご理解の上で、お読み頂きたい。

 

「そんな程度のことで、家業を継げるのか~(笑)」

大店で育った呑気な少年には、鍋ぶたの1枚や2枚を売ることなど、簡単な仕事に思えた。

 

最初に思いついた売り先は、店の取引先である。

(いつもウチが世話をしてやってるところにいけば、すぐに買ってくれるだろう)

そんなふうに考えたためだ。

そして店先に行くと「ほれ、未来の当主である僕が売りに来てやったぞ」と、傲慢な態度で買えと迫る。

当然のことながら店主は怒り狂い、少年は叩き出された。

 

次に少年が考えたのは、近所の農家だった。

農家を何軒か回れば、ちょうどいいタイミングで必要な家もあるだろう。

しかしどの家でも、「忙しいのに邪魔だ!」と、ほうほうの体で追い出された。

ならばと、揉み手をしながら卑屈な作り笑いで「へへへ、いかがっすか~」と通りすがりの人に売ろうとしたが、もちろん売れるわけがない。

 

何をしても売れなかった少年が最後に思いついたのは、「泣き落とし」であった。

老夫婦を狙い撃ちし、鍋ぶたが売れなければ今夜のご飯も食べられないと泣いて見せれば、きっと買ってもらえるのではないか。

この作戦は当たりかけるものの、話の途中で辻褄が合わなくなり、心優しい老夫婦まで激怒させ蹴り出されてしまった。当然である。

 

こうして少年は、何ヶ月たっても安価な鍋ぶた1枚すら売れず、朝から晩までただひたすら歩くだけの日々が続く。

「こんなありきたりの鍋ぶたが売れるわけ無いだろ!」

などと、商品のせいにしてみたり、親を恨んだり、ただただ“非生産的”な時間を過ごしながら。

 

そんなある日のこと、いつもどおり売れないままに歩き疲れ、途方に暮れていた少年は、農家の玄関先に鍋ぶたが干してあるのを見つけた。

(・・・そうか、この鍋ぶたを壊してから売りに来れば良いんだ)

次の瞬間、鍋ぶたを手にとった少年は一瞬ためらいの表情を見せると川に向かい、なぜか無心に洗い始めた。

そこにちょうど帰宅した家人の女性。怪しい少年が鍋ぶたに何かをしているのを見咎め、怒り狂う。

 

「ちょっと何してるの!」

「ご、ごめんなさい!悪いことする気はなかったんです!」

 

そして少年は、自分は商家の跡取りであること、修行のために行商をしているのに何ヶ月も売れずに悔しかったこと。

ついに、鍋ぶたを壊してから売りに来ようとまで思いつめたものの、この使い古された鍋ぶたが愛おしく思えてしまい、とてもできなかったこと。

そしてピカピカに磨き上げたくなり、手にとって洗い始めていたことなどを、赤裸々に話し始めた。

 

黙って聞いていた農家の女性は、少年に歩み寄る。

そして肩から掛けていた手ぬぐいを手に取ると、泥と涙で汚れきった少年の顔を拭いてやり、こう言った。

「お前の鍋ぶた、おばちゃんが買うたる」

「え・・・?ええのんか?」

こうして少年は、人生で初めての「顧客」を得ることになった。

 

「てんびんの詩」はざっと、そんな物語だ。

 

この映画を私が観たのは昭和の頃、中学校の文化祭の一環としてだった。

当然のことながら、私を含め生徒たちの反応は、

「世の中そんなうまくいかねぇ~」

「正直に頑張れば報われるとか、ベタすぎるだろ~」

というものであった。

 

私自身、鑑賞後感想文には確か、

「誠実に頑張れば、努力は決して裏切らないと思いました」

とか適当なことを書き、優秀賞あたりをもらった覚えがある。正直、当時の私にそれ以上の“教訓”は、なにも無かった。

 

しかしそれから随分と時が流れ、あの映画について私は今、全く違う感想を持っている。

 

それは「100冊の本よりも1回の経験の方がはるかに強い」だ。

 

海外旅行、恋愛、投資、格闘技、会社経営・・・何だって同じである。

ノウハウ本を100冊読んで得た知識よりも、ヒリヒリする緊張感の中で汗をかき、空気を感じ、意思決定したことのほうが、遥かに血肉になる。

恋愛本などというふざけたハウツーを読むよりも、意中の女性に実際に花束をプレゼントしキモがられる方が100倍早く、現実を理解できる。

 

もちろん現実は白か黒ではないので、本で学べることがあるなら学ぶに越したことはない。

しかし断言しても良いが、私は“プロとしての仕事”に関して、現実から学んだ以上のことを本から学べたことなど、一度たりともない。

そんな教訓を、実体験とともに30年以上の時を経て、あの映画から学び直している。

 

魅力的な人物こそムダに溢れている

話は冒頭の、「幼い子どもに石舞台古墳はアリかナシか」の話だ。

なぜ私がオッサンになった今、無意味にも思えるこのような遠足に賛成できるのか。

 

それは自分自身が、「てんびんの詩」の価値を大人になってから初めて、発見できたからだ。

人生の経験を積み、様々な体験を通して初めて見えるようになった“ものの見方”といっても良いだろうか。

そして私は、中学校の文化祭という“大人からの強制”でもなかった限り、あのコンテンツに出会うことは一生なかった。

 

もちろん石舞台古墳もてんびんの詩も、結果として全てムダになるかも知れない。

しかしそれをムダというのは、

「数学なんか学んでも、人生でなにの役にも立たない」

と嘯いている子どもと同じである。

勉強や体験、失敗などという人生のあらゆる「点」は、それ自身が意味を持つ存在なのだから。

 

点の数が多く、そしてその散らばりの範囲が広いほど、人の持つ線は長く太く繋がる。

それはやがて大きな面となり、積み上がっていき、その人の人生と人格を形作る全てになる。

だからこそ、自分の力で出会うことができなかった「点」とのコンタクトは、かけがえのない経験になるということだ。

石舞台古墳もてんびんの詩も、ムダにはなるかも知れないが無意味になることなど絶対にない。

 

思えば、深みのある魅力的な人物こそ、どうでも良い知識をたくさん積み上げており、わけのわからない失敗にあふれた人生を送っていると感じたことはないだろうか。

これほどに、ムダとは人生のスパイスであり、時に成長の思わぬ起爆剤にもなる、形のない大事な財産ということだ。

 

ところで、てんびんの詩と同じように私も、初めての顧客になってくれた女性の顔とお名前は、今もよく覚えている。

もう30年近くも前のことだが、新人証券マンとして営業2ヶ月目にしてやっと頂いた株式の注文だった。

わずか20万円ほどではあったが、あの喜びは今も深く心に刻み込まれており、言葉に出来ないほど感謝している。

帰社の途上、市バスの窓からみた滲む北大路の雑踏を一生、忘れることはない。

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということわざがあります。
立派な人は、学問や見識が深まるほどに謙虚になるという意味ですが、私はこれ因果が逆だと思います。
謙虚で、人ひとりの存在など取るに足らないと理解しているからこそ、知見が深まり、周囲に愛され立派な人になるんだろうと。
最近、そんな人とご縁があり、ますますその思いを深めました。

twitter@momono_tinect

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Photo by Daniele Colucci