「とにかく、まずは会計の勉強をして」
飲食で起業したいと話す元バイト仲間の神田くんに、私は電話口でそう繰り返した。
「あのね、会計って難しくないから。考え方の基礎がわかればいいの。だから、中学までしか学校に行ってなくてもダイジョーブ。基礎なら君でも分かる。数学からっきしの私でも分かった。だって小学校の算数レベルだもん」
「小学校の算数ならどうにかなりそうですw」
「でしょ? 毎日きちんと入出金の記帳さえしていれば、あとの難しいことは会計ソフトがやってくれるからね。
いまどきのクラウド会計ソフトって超優秀で、超便利なの!」
「そうなんすか? クラウド会計ソフトっていうのがあるんですね?」
「そう。色々あるから調べてみて。総勘定元帳も、損益計算書や貸借対照表も、確定申告に必要な書類はソフトが自動で作ってくれるよ。けど、それで出力した決算書は、自分で内容を理解できるようにならなきゃダメだからね」
「はい」
この子は返事だけはいつも良いのだ。だけど、本当はいまいちピンときていないに違いない。
「えっと、君は奥さんの実家がある地方に移住したんだっけ。起業もそこで考えているんだよね?」
「はい、そうです。最近、物件とかいろいろ見て回ってて。地域のニーズに合う店にしようって考えてます」
どうでもええわ、そんなことは。
地域のニーズなんてとらえどころのないものは、探ってみたところで掴みようがないのである。だったら「商いは飽きない」と言われる原則どおり、ゴーイング・マイ・ウェイで、自分が飽きずにやれることをやればいい。
「べつに何だって、君の好きなことをやればいいんだよ。大事なのってそこじゃないから。
飲食店は、必ずしも美味しくて評判の店とか、行列のできる人気店が、イコール経営がうまくいってる店ではないからね。それは分かる?」
「はい。なんとなく」
「世の中には、特別おいしいわけじゃないのに昔からある町中華とか、お客さんがポツポツしか入ってないのに、なぜか潰れない飲み屋とかあるでしょ?」
「あー、そうっすね」
「結局ね、オーナーが生活していけるだけの利益が出ていれば、お店は流行らなくてもやっていけるの。それと逆で、どんなにお客さんが並んでいても、ろくな利益を出せていなければ続けられないの」
「はい、それは分かります」
神田くんは長く飲食業界で働いており、包丁さばきはこなれていた。けれど、味付けのセンスはイマイチなのだ。
それでも愛想がよくて人好きするので、接客業には向いている。方向性さえ間違わなければ、起業してもやっていけるはず。
「起業にあたって、親御さんから支援を受けられたりはしないの?」
「それはないっすね」
「そっか。じゃあ、君みたいな資金力のない若い子が起業してやっていくには、できるだけ初期投資費用を抑えるにかぎるね。
初めての起業なら、使える助成金が色々あるはずだから、商工会議所とか、よろず支援拠点に行ってみて。
よろず支援拠点は国がやってる経営相談所だから、無料で利用できるの。専門家に相談できるし、小規模事業者向けのセミナーも色々あるよ」
「はい! セミナー行ってみます!」
「最初にドーンとお金を借りちゃって、事業のスタートにお金をかけてしまうと、初期投資費用の回収だけでも大変になっちゃうから、絶対やめてね。
あのね、借金の返済って、経費にならないんだよ。利益から返さないといけないの。利益って言っても、売上から仕入れ値を引いた粗利のことじゃないよ。そもそも利益って、手元に残るお金のことでもないからね。キャッシュと利益は別だから」
「???」
「そこから分かってないでしょう?」
「……..はい」
「利益には5種類あって、売上高から売り上げ原価を引いたのが売上総利益。これが粗利ね。
そこから販売費用と管理費を引いたのが営業利益。これが、お店が本業で稼いだ利益。
さらにそこから営業外収益をたして、営業外費用をひいたのが経常利益。
それに特別利益を足して、特別損失を引いたのが税引前当期純利益。
で、そっから税金を払って、残ったお金が当期純利益。個人事業主は、これが収入になるの」
何を言われているのかチンプンカンプンに違いないが、かまわず話を続けることにする。
「もし借金をしていたら、その収入の部分から借金の返済をしないといけないんだよ。それで暮らしていけそう?」
「いやっ…。う〜ん、分かんないすね…。ちゃんと勉強した方がいいかなって気がしてきました…」
「後で、飲食店の会計がざっくり分かるオススメの本を教えるから、読んでみて。それに、よろず支援拠点でも会計のセミナーを無料で受けられるから、受講してみて」
「はい」
「一方的に喋っちゃってごめん。でも、本当に会計って大事なの」
「はい」
気がつくと30分以上も喋り続けていた。電話を切った後のLINEのやりとりでも、引き続き会計の重要性を説いてしまい、我ながらしつこくてウンザリする。
ただ、しつこくしてしまうのには理由があった。
小規模事業者の成功例と失敗例を、それなりの数みてきたからだ。
すでに実店舗をかまえて、何らかの商売をしている人たちでも、キャッシュと利益の違いを理解しないまま営業しているのがザラにいる。
なんとなく手元にお金が残っているので、利益が出てるんだろうという感覚なのだ。
驚くことに、そうした経営者は「商売1年生」だけではなく、商店街に店を構えて数十年という老舗商店にも少なくなかった。
彼らは確定申告の時期を迎えるまで、自分の店がいくら売り上げていて、仕入れや販売管理にいくらかかっていて、いくらの利益が出ているのか、ろくに把握をしていない。
記帳どころかレシートの整理すらしておらず、高い顧問料と代理申告費用を払って、レシートの束ごと税理士に丸投げしているのである。
そうした経営者は、いざ数字が確定すると急にケチケチし始める。自分が思っていたほど利益が出ていなかったか、逆に利益が出過ぎているのに把握していないせいで節税対策が取れず、税金が高くなってしまったのである。
銭勘定ができないのに商売を始めたルーキーの場合は、以下のパターンをたどる。
(1) 短期間のうちに閉店して、あっけなく消える
(2)閉店はしないが、経営する店だけでは十分な利益が出ないため、勤めにも出てダブルワークをする
(3)(2) と同様に閉店はしないが、収入が少ないため自立を諦め、家族を頼る(実家に戻って生活費を減らす。安定した収入があるパートナーと結婚する等)
税理士に頼り切りの老舗商店の場合は、「近い将来に閉店」以外に用意された道はない。選択肢があるとすれば、借金にまみれて倒産するか、大怪我をする前に店をたたむかのどちらかだ。
なぜ老舗商店のくせにどんぶり勘定なのかと言うと、事業を継いだ跡取りに真面目に商売する気がないからなのだ。
昭和の時代に事業をおこした創業者には商才があり、時代も良かったため財産を築くことができたが、2代目3代目となると過去の遺産を食い潰す一方になる。
継ぎたくて継いだわけじゃないなら家業に身が入らないのも仕方がないが、そんな店がいつまでも生き残っていられるほど商売は甘くない。
起業ホヤホヤであれ、2代目3代目であれ、店を傾ける経営者に共通しているのが「数字が苦手で、会計に無知」なことだ。
逆に、商売を上手く軌道に乗せている店はどこも、経営者が会計を理解し、数字をきちんと管理している。
だから神田くんも、損益分岐点の分析や原価計算ができないまま「なんとかなるさ」とノリで起業してしまったら、絶対に失敗する。
20歳そこそこの身軽な若者なら失敗しても笑っていられるかもしれないが、神田君はすでに30歳を過ぎており、妻子もいることを考えると慎重になるべきだろう。
私としてはお節介を焼くつもりはなかったのだが、いざ話をし始めると、結局ああだこうだ世話を焼こうとしてしまう自分に苦笑いした。
まったく、これでは人のことを言えない。
こうして神田くんと話をすることになったのは、かつて彼と一緒に働いたレストランのオーナーに頼まれたからだった。世話焼きのオーナーは、レストランを閉店した後も働いてくれた若いスタッフたちを気にかけ、いまだに連絡をとっているらしい。
神田くんから独立して店を出すつもりだと聞いたオーナーが、無謀ではないかと心配し、「ちょっと何か言ってやってよ」と私に話を持ってきたのである。
「好きにさせればいいじゃないさ。まったく、お母さんかよ」
なんて悪態をついていたくせに、これでは私も親戚のおばちゃんのようだ。
せめて最後はガミガミ言わず、少しは褒めてその気にさせようと思い
「君は本を読むし、文章を読む力があるから、きっと会計も理解できるよ。起業は、お金の計算と収支のコントロールさえできれば何とかなるから、頑張ってね」
とエールを送った。
「はい!ありがとうございます!」
会話の締めくくりに、神田くんは幼い子供のスタンプを送ってきた。彼の息子の写真をLINEスタンプに加工したものだ。
愛らしい子だった。この子のためにも頑張ってくれよな、お父さん。
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(文責-ティネクト株式会社 取締役 倉増京平)
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