「個性的だね」

「マイペースだね」

こう言われたことはないだろうか。誰しも一度は言われたことがあると思う。

 

私も個性的だと言われたことがある。そして、言われる度に思う。

「そう言うあなたも、個性的なんじゃないの?」

 

きっとあなたも一度は言われたことがあるはず。

言われたことがないとしても、11人違う人間なのだから、極論すれば個性的でない人なんていない。みんな個性的だ。

 

マイペースについても同様のことが言える。以前、友人がマイペースについて語っていた。

 友人「よくマイペースって言われるんだ」

 私「うん、わかる。マイペースだよね」

 友人「そうやって言うけど、逆にマイペースじゃない人なんているの? みんな自分のペースで生きているでしょ。マイペースは“私のペース”なんだから、マイペースじゃない人なんていないはずだよ。だから私はマイペースという言葉の存在自体に疑問を抱いている。あたり前のことに言葉を当てはめてしまうから、こんな使い方をされているんじゃないかな」

 

たしかに、他人のペースで生きるなんてことはありえないし、自分は自分というあたり前のことを前提にすると(哲学的に考えると、この前提もあたり前ではないのかもしれないが、ここではあたり前ということにしておく)、マイペースという言葉は不要なのかもしれない。

 

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みんな個性があるはずなのに、個性的だと言われるのはどういうケースなのか。

多くの場合、「自分とは違う」「普通じゃない」「変わっている」という意味で「個性的」という言葉が使われていると感じる。

 マイペースは、「自分とは違うペースで生きている」「周りに合わせない」といったところだろうか。

 

そういえば最近こんな一幕があった。

先輩「マイペースだね」

私「どういう点が、ですか?」

先輩「他人に気を遣わないところが」

 

実際どうなのかはここでは触れないが、「他人に気を遣わない」人も、マイペースと言われがちなのかもしれない。

 共通しているのは、「自分とは違う」あるいは「自分が思う“普通”と違う」場合に「個性的」「マイペース」という言葉が出てくるという点だ。

 

ここで“普通”という言葉の意味を確認してみよう。

「普通」

特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。

【引用】コトバンク

https://kotobank.jp/word/%E6%99%AE%E9%80%9A-618997

 

特に変わっていないこと。

誰にとって?

自分にとって。

 

ごくありふれたものであること。

誰にとって?

自分にとって。

 

それがあたりまえであること。

誰にとって?

自分にとって。

 

そう、全て基準は自分。たぶん、みんな自分を普通だと思っている。私にとっては私が普通であり、一般的であり、標準的だ。

そして、私とは違うあなたは、あなたが普通であり、一般的であり、標準的だと思っている。

 

あなたが海外旅行をしたとしよう。現地の人を外国人だと思うはずだ。だがどう考えても外国人はあなたである。

 

もう1つ。

この記事を読んでいるあなたは、9割前後の確率で異性愛者だ。そうだとしたら、あなたはバイセクシュアルである私を“普通じゃない”と思うだろう。

でも、私にとって「異性しか好きにならない」異性愛者は(あえてこう表現するが)“普通じゃない”。

 

誤解されたくないので補足するが、バイセクシュアルが“普通じゃない”ことを、私も理解はしている。(セクシュアル“マイノリティ”と表現されることからも理解できる。)ただ、私にとって自分がバイセクシュアルであることは普通だということだ。

 結局、「個性」なんて他人から見た自分の特徴にすぎない。

誰一人として同じ人間はいないという意味ではみんな個性的だし、みんな個性的であるということは、みんな無個性だと言っても同じようなものかもしれない。

 

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あれ?

みんな無個性という結論になってしまった……。

どこでどう間違えたんだろう(いや、間違えてはいないか)。

 

ではまた!

次も読んでね!

 

 

 

[プロフィール]

名前: きゅうり(矢野 友理)←名前をクリックすると記事一覧が表示されます

2015年に東京大学を卒業後、不動産系ベンチャー企業に勤める。バイセクシュアルで性別問わず人を好きになる。

著書「[STUDY HACKER]数学嫌いの東大生が実践していた「読むだけ数学勉強法」」(マイナビ、2015)

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