昔、私が知り合った物書きの一人に、“写経”の大好きな人がいまして。

その人は、自分が気に入った作家の文章を、ワープロで片っ端から書き写していました。

文章が上手くなりたくてやっていたわけではなく、とにかく“写経”が楽しかったらしいのですが、やがて、書き写した文章の影響を受けて、自分の文章が上達していることに気づいたそうです。

 

それからは、私も積極的に“写経”をやるようになりました。小説や物語でなく、論説文やキャッチコピーも、気に入った文章は片っ端から打ち出してみます。

“写経”をやると、文体が影響を受けたり、書いてある内容がしっかり頭に入ったりします。猿真似だと笑う人もいるかもしれませんが、文章を上達したいと思っている人は、一度“写経”をやってみてください。きっと、気付きがあると思います。

  

人生を“写経”するのが難しい理由

さて、ここからが本題です。

文章はいくらでも“写経”できますが、人生とか、ライフスタイルとか、そういったものは簡単にはコピーできません。

 

隣の家の奥さんが素敵だからといって、その奥さんの人生を“写経”することは不可能です。

素晴らしい業績を残し続けているサラリーマン、トントン拍子で出世し、教授や病院長のポストにおさまるドクター、メディア上で「自分らしい生き方」を喧伝している自由な人、等々も同様です。

他人の人生を真似るのは、文章を“写経”するよりもずっと困難です。

 

文章はコピーしやすいのに、人生やライフスタイルがコピーしにくいのはなぜでしょうか。

 

コピーしにくい理由は、たくさん思いつきます。

まず、気性や体質など、人間には生物学的な個人差があります。穏やかな気性の人の人生を、激しい気性の人がコピーしようとしても、そう簡単にはいかないでしょう。

 

容姿の違いも計算に入れなければなりません。昔からのネットの言い回しに、「ただし、イケメンに限る」というものがありますが、実際、容姿が優れている人と、そうでない人では、同じことをやっても結果が異なる場合が往々にしてあります。

 

年齢も無視できない要素です。同じ言動でも、年齢が違えば受け取られ方も違います。

二十代のうちは「挑戦心があって良い」と評価される試みが、三十代になると「非常識だ」「何を考えているのかわからない」と評価されてしまうことは珍しくありません。

逆もまた然りで、ルーキーがベテランの言動をコピーしたつもりが、「青二才が何を言っている」「お前が言っても説得力が無い」とみなされてしまうことはよくあります。

 

また、性別による違いも無視できません。まだまだ世間には「男のくせに」「女のくせに」といったジェンダー的な固定観念が残っています。

たとえば専業主婦に憧れて、自分も専業主夫的なライフスタイルを真似したい思った男性は、有形無形のジェンダーの壁に直面して、乗り越えることを余儀なくされるでしょう。

 

ほかにも、配偶者がいるかどうか、いたとしてどういう夫婦仲なのか、子どもはいるのか、等々によっても人生は大きく違ってきます。

独身者が既婚者の人のライフスタイルをコピーするのは、既婚者が既婚者の人のライフスタイルを真似るよりも難しくならざるを得ません。

 

それでも、良い人生をコピーしたいなら

しかし、こうした「人生がコピーしにくい理由」について理解を深めることこそが、憧れたい人、見習いたい人の人生の良いところをコピーする第一歩であるように、私には思われます。

 

あの人のような業績をものにしたい、あの人のようなライフスタイルで生きてみたい、と思った時、なにも考えず、お手本人物のやっていることを自分もやってみるのは、上策ではありません。

さきにも書いたとおり、同じ言動でも、人が違えば周囲の受け取り方も異なります。ということは、お手本人物をそのまま真似るだけでは、だいたい上手くいかない、と思っておくべきでしょう。

お手本人物の言動をコピーする際には、容姿の違い、年齢の違い、立場や境遇の違いをよく理解して、その違っている部分にアレンジをかけて――つまり自分がコピーしても問題が生じないように補正して――やるべきでしょう。

 

上手に補正をかけながらお手本の良いところをコピーしようと思えば思うほど、お手本人物と自分の違いについて、精度の高い把握が必要になります。

把握の精度が低い場合は、どれほど簡単そうにみえる人生のコピーも、上手くいきません。

というより、コピーが簡単に思える時とは、お手本人物と自分の違いがよくわかっていないから簡単に思えるだけのことも多いので、むしろ注意しなければならないかもしれません。

 

それともうひとつ、お手本人物の「やっていること」だけを真似しても駄目で、「やっていないこと」も真似しなければコピーが成立しないことが往々にしてあります。

たとえば人望のある人をお手本にしたい、夫婦仲の良い人を見習いたいと思った時に、その人達がやっていることだけに目を付けても、たぶんコピーはうまくいきません。営業成績の良いサラリーマンや、出世頭の先輩を見習う時も、たぶんそうです。

 

「これを口にしてはいけない」「ここでこういう挙動をしてはいけない」といった、「意図的にやらないようにしていること」を見抜いて、そこを真似て自分もやらないようにしなければ、人望も、夫婦仲も、営業成績も、出世も望み薄です。

これは、人間関係の領域に限った話ではありません。たとえばスポーツやコンピュータゲームで巧いプレイヤーをお手本にする際にも、お手本プレイヤーが「やっていること」だけ真似てもなかなかうまくいきません。

何を「やらないようにしているのか」にも意識を向けて、お手本プレイヤーがやらないようにしていること・避けていることをトレースしてはじめて、コピーが成立することがよくあります。

 

それでも、模倣は、コピーは人の力だ

このように、誰かをお手本にして、何かをコピーするのはなにかと大変です。

それでも、お手本になる人物の、お手本にしたいところは積極的にコピーしていきたいところですし、また、そのようにコピーできる人が、人生を成功へと導いていけるのでしょう。

 

模倣は、コピーは、人の力です。うまくやっていきたいものですね。

 

 

 

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(2024/3/13更新)

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)など。

twitter:@twit_shirokuma   ブログ:『シロクマの屑籠』

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 (Photo:Diana Eftaiha