先日、Twitterを見ていたら、あるアカウントが「論理の間違い」を指摘されていた。
「そこは因果関係ではなく、相関があるだけですよ」と、指摘されたのだ。
だが、客観的に見れば、指摘はまっとうで、非難めいた口調でもなく、丁寧な指摘だった。
ところが、そのアカウントの主は、怒った。
「私がいいたいのは、そのようなことではない」と、指摘した人をブロックした。
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最近、親戚がうちに来てくれたときのこと。
その方は、親切で、人の世話を焼くのが大好きな方だ。非常に献身的で「子どもたちのために、スープを作りたい」と、わざわざ遠くから来てくれたのに、料理を振る舞ってくれた。
ところが、子どもたちがスープをあまり飲まない。
「味が変」というのだ。
その方は「好き嫌いはダメだよ−」と子どもたちにいうのだが、結局、子どもたちはスープを残してしまった。
味をみた妻が「これちょっと酸っぱくない?」と指摘したところ、
少し怒らせてしまったのか「いつもと一緒」と一蹴された。
そして、妻はその原因にあとで気づいた。ゴミ箱を覗くと、「牛乳」の代わりに、「飲むヨーグルト」の紙パックが捨てられていたからだ。
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「間違いを認めない」のは、個人だけではない。組織や、制度も同様である。
特に「権威」を重視する、警察制度、法制度などは特にだ。
英国のジャーナリスト、マシュー・サイドは次のように指摘している。
失敗の数々は、どこで間違いが起こったのかを特定し、司法制度の欠陥を精査するいい機会になる、と普通なら思う。
しかし、警察・検察・裁判官の姿勢はまったく違う。彼らは自分たちと異なる意見はまるで受け付けない。「司法制度は完全無欠であり、それに異議を唱えることこそ思い上がりだ」と考えている。(中略)
事実、ミシガン大学ロースクールのサミュエル・R・グロスの研究によれば、
「死刑囚ばかりでなくどんな受刑者に関しても、もし同じように冤罪を晴らす活動が行われていたとすれば、(アメリカ国内の)死刑囚以外で無実が証明される件数は、ここ15年間で2万8500件にのぼっていただろう。しかし現実は255件にとどまっている」
との指摘がされている。
また、カルトの信者は、カルトの教祖が「世界が滅ぶ」との予言を外したときに、教祖を見捨てるどころか
「我々が祈ったから世界は滅ばなかったのだ」と、ますます信仰を強めるそうだ。
マシュー・サイドは「多くの場合、人は自分の信念と相反する事実を突きつけられると、自分の過ちを認めるよりも、事実の解釈を変えてしまう」と述べている。
これを、心理学の分野では「認知的不協和」と呼ぶ。
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かつての私の上司は、仕事において、天才的なコミュニケーション能力を持っている人だった。
彼は「言い方が重要」と事あるたびに言っていたが、その「言い方」に関するノウハウは教条的ではなく実務的だった。
そして、その中で、最も彼が強調していたことの一つは「経営者に、会社の課題をストレートに指摘してはならない」だ。
だが、私は不思議だった。
コンサルタントと言う職業は、会社の課題を指摘して、それを解決することで報酬を得る職業ではないか。
それを上司に言うと、彼はこう言った。
「では、安達さんは人事評価の時期に「あなたの欠点は同僚からの信頼がないところです」と言われて、「そうですね」と素直にそれを受け入れますか?」
「それは……」
「私たちは、経営者に同じようなことを言おうとしているのですよ。特に、会社の経営者、役員は間違いを指摘されることに慣れていません。」
なんでも言ってくれ、という言葉を決して信じてはいけないと、私は上司から教わった。
特に人前では。
仮にその場はうまく収まったとしても、「過ちを指摘したこと」は、絶対に忘れてもらえないのである。
かつてGMのトップだった、アルフレッド・スローンは、インタビューに来たドラッカーに
「正しいと思われたことはそのままご提案ください」
と言ったという。懐の深い人物だったようだ。
しかし、そのスローンですら
「五〇年もトップにいると、なんでもわかった気になってしまいます。したがって、裸の王様になっていないかどうか確かめる必要があるんですよ。中の者はなかなか言ってくれませんのでね。」
と、ドラッカーに告げている。
つまり、部下は、スローンの懐が深いと知っていても「ストレートに指摘」は避けていたのである。
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まとめると、以下のようなことが言える。
1.人は、基本的に間違いを認めない。事実の解釈を変えるほうが得意である。
2.間違いを指摘すると「私は嫌われている」「この人は失礼だ」と解釈されてしまう可能性もある。
特に、2.は致命的だ。以前、こんな記事を書いたことからもわかるように、「まっとうな人」であっても、迫害を受けてしまうかもしれないのだ。
インターネット上で罵りあうだけであれば大した影響もないが、会社組織やチーム内で上の二つが発生することは、なんとしても避けなければならない。
それが病院や交通機関であれば、人命に関わることすらある。
だから、知的労働をする会社は、間違いを認める「風土」を持たなければならない。
場合によっては、トップが率先して積極的に間違いを認め、間違うことが、学習と、改善につながる貴重な機会であると認識する風土を作り出す必要がある。
そして、それを可能にした組織は、非常に強い。
例えば、Googleが高度な知的人材を惹きつけてやまないのは、実はこの「風土」によるものが大きいのではないか。
残念ながら、経験イコール説得力のある主張とされる企業が多い。能力ではなく、勤続年数で権限が決まるこうした会社は「勤続年数至上主義」とでも呼ぶべきか。
これを聞いて思い出すのは、かつてネットスケープのCEOだったジム・バークスデールの言葉だ。
「データがあれば、データを見よう。それぞれの個人的意見しかなければ、私のを取ろう」(中略)
ダース・ベイダーがフォースの力で一方的に自分に盾突く者の喉を締め上げ、さっさと惑星を破壊できた時代が懐かしくなるぐらいだ。
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私はかつて、コンサルタントとしてさまざまな会社に出入りし、「間違いを認めない組織」を数多くみた。
そこでは、地位が高い人も、地位が低い人も、ベテランも新人も、等しく間違いを認めず、指摘をすれば怒る。
しかし、プライドは守られるが、事態は変わらない。
逆に私は「積極的に間違いを認める組織」も数は少ないが、見てきた。
そこで重視されていたのは、真の意味での「知的能力」、すなわち「メンツ」や「プライド」ではなく、「実効性」と「勇気」を重んじることだった。
もちろん、前者は徐々に衰退し、後者は発展する。
それが世の理というものだ。
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