きっついお話を先月のbooks&appsで見かけた。

実力も謙虚さもない年配者は、もう居場所がない。

結局のところ、実力に関わらず「素直さ」、「学ぼうとする意欲」、「ちょっとしたチームへの貢献」というのは、年齢関係なく、歓迎されるといえる。
要は年配になっても「謙虚さ」を保てるかどうか、という話に帰着する。

だが「そんなの無理」という年配者もいるだろう。

だが、こう考えてみてほしい。謙虚にふるまえるかどうかは「死活問題」だと。
シニアになってからのQOLに直結する話なのだと。

冒頭リンク先のお話をワンセンテンスにまとめるなら「実力もなければ謙虚さもない、そんな無能で鼻持ちならないシニアは忌避されるぞ」といった内容だし、たぶんそのとおりだと思う。

そして年上には謙虚さや徳の高さが(年下に比べて)期待されがちで、それもまた能力のうちなので、無能なうえに謙虚も欠如したシニアは二重に無能だ、とさえ言えるかもしれない。

 

それと冒頭リンク先には「かわいがられやすい年上」「面倒をみたくなる年上」のことも記されていた。これも、QOLに直結する大問題だ。

 

高齢者向けの福祉施設を見ていると、まさに「かわいがられやすさ」「面倒をみたくなりやすさ」が適応を左右するさまがみてとれる。

 

ある高齢者は、忘れっぽくなっていても謙虚で、施設の介護者たちからも他の高齢者たちからも好かれていた。認知機能が低下してもなお、長年かけて培ってきた人望の、その大元は健在の様子だった。

他方、別の高齢者はプライドが高く、妬みやすく、しばしば居丈高だった。機能が低下する人にも色々なパーソナリティの人はいるわけで、そういう高齢者が福祉施設の世話になることだってある。

 

施設のスタッフはそのような人物でも分け隔てなく接しなければならないことになっているし、現場はそのように努めているけれども、そうはいっても現場の人間とて福祉ロボットではない以上、これは、緊張をはらむ難しい問題だ。

そしてスタッフがどれほど平等性を示したとしても、他の施設入所者や施設利用者の感情まで平等になるわけではない。

 

そうした好悪の循環の結果、プライドが高く鼻持ちならない高齢者は次第に施設での居心地や立ち位置を悪くしてしまい、施設にうまく適応できなくなる。であれば、謙虚に振る舞えるかどうかは死活問題というほかない。

 

ちなみに福祉施設には(いや、世間にも)、謙虚さが足りていないのだけど不思議とかわいがられる人、不思議と面倒をみてもらえる人というのもいる。

ずるいじゃないか! と思う人もいるかもしれないし、私もそう思う。

 

私のみる限り、不思議とかわいがられる人で多いパターンは、「かわいい」高齢者だ。

かわいい高齢者というと語弊あるかもしれないし、子どもや若者のかわいらしさとはまた少し違ったかわいらしさなのだが、私の知っている語彙のなかで一番それっぽいのは「かわいい」、である。

 

かわいがられる高齢者は、若い頃からかわいがられた・愛された人であることも多い。

これもずるいじゃないか! と思う人もいるだろう。実力や謙虚さの神より、愛の神のほうが平等の精神に欠けているとは、つとに思うところである。

 

でもそれって、シニアだけじゃないよね。

いやしかし、この話は年齢や時代に限ったものではないようにも思える。

振り返ってみれば、子どもの頃から実力・謙虚さ・かわいらしさは峻厳に問われている。

 

かけっこの早いAくんは、かけっこが早いという実力によってクラスで人気を獲得している。

勉強ができて昆虫や植物にも詳しいBさんも、作文や絵では右に出る者のいないCくんもそうだと言える。

 

謙虚さ。子どものうちから皆がチェックしていて、自己中心的な子は「あいつはいやなやつ」と思われている。

そして学校は謙虚さに親和的な場所でもある──あちこちに協調性を重んじるフレーズや標語がちりばめられ、協調性を重んじる課題が提示され、なんとなれば、クラスのなかで宿題をしなかった子がいたらそれはクラスの連帯責任であるなどと主張する学校教師もいるという。

 

そのような空気のなかで育った子どもたちは、自他の協調性、ひいては謙虚さの欠如にも敏感に育つ。

圧倒的な実力の持ち主でさえ、謙虚さは大切だと心得ている。

ライトノベルの悪役のような、中途半端な実力でプライドを振り回す子どもは滅多にいないし、いたとしても、そのまま長く適応を維持することは難しい。

 

ここでも、かわいさ・かわいらしさが正義であることは言うまでもない。

嫉妬を買うこともあるし、かわいさ・かわいらしさの「見せ方」はいつも問題ではある。とはいうものの、見た目や振る舞いで得をする者/損をする者の差異は確かに存在していて、かわいい子、かわいらしい子は世話されやすく助けられやすい。

 

そうやって、この不平等な社会は、私たちに何かを差し出せと囁き続ける。実力をみせろ。謙虚さをみせろ。かわいらしさや愛されやすさをみせろ、と。

してみれば、いまどきの老若男女は、実力も謙虚さもかわいらしさもなければ居場所が得られない、と言っても言い過ぎではあるまい。

 

大昔も謙虚さは死活問題だった

実力や謙虚さやかわいらしさが社会適応にとって重要だったのは、はるか昔からのことだ。

このうち、実力やかわいらしさが、自然淘汰や性淘汰に直結していたのは論じるまでもない。

たとえば実力の乏しい男女は生存も子育ても難しかったろうし、かわいらしさの欠如した赤ん坊は世話されず死んでしまう確率が高かったというのだから。

 

実力がなくても生きていられるようになったのも、赤ん坊が世話されるのが当たり前になったのも、近代以降の、比較的最近の出来事でしかない。

 

では、謙虚さはどうだろう?

 

私たちの道徳心の起源に迫る進化生物学の書籍、『善と悪のパラドックス』において、著者のリチャード・ランガムは、「昔ながら狩猟採集の社会では、平等な社会がかたちづくられる反面、でしゃばる者・利己的な者・攻撃的な者・独占的な者を処刑するメカニズムが働き続けている」、と述べる。

文化人類学者のブルース・クナウフトは、小規模な平等主義の集団のなかで、噂話がどのようにして個人の追放につながるのかを知った。1980年代、ニューギニアの辺境の低地にある熱帯雨林で、ゲブシ族と2年近くすごしたときのことだ。(中略)彼らの社会は小規模で、およそ450人からなる。移動生活をする狩猟採集民のように、小さな村で平均30人に満たない人々が暮らし、集団内に権力を持つリーダーはいなかった。社会の人間関係は一般的に穏やかで、落ち着いた会話にはユーモアがあふれ、自慢話をする者もいない。政治は平等主義だが、例によって、みなが平等というわけではなかった。ゲブシ族では、魔女や魔術師は他者に不幸をもたらすと疎まれたが、魔女は生まれつきなのに対し、魔術師はみずからの意思で邪悪になると思われていた。そのせいで彼らはいっそう赦しがたい存在となり、たいてい取るに足らないことで頻繁に殺されていた。殺人は紛争を解決し、社会の結束を維持するのに役立っていたのだ。
(中略)
夜が明けると、彼らは待ち伏せを企てる。処刑は棍棒や弓矢でおこなわれる。まず拷問にかけることもある。その後、男を殺して、料理する。外部の文化と接触するまえ、食人は広くおこなわれていたが、食べられるのは魔術師だけだった。

このような社会では、悪目立ちする者・自己中心的な者・規範からはみ出す者は生き残ることができない。

その結果、謙虚な態度を身に着けることがきわめて重要になってくる。

人類学者のケネス・リーバーマンも、オーストラリアのアボリジニの状況をこのように記録している──「うぬぼれが強い人間でないことを他者に示すために、羞恥心と当惑を示すことが重要だ」。

 

同書のなかでランガムは、狩猟採集社会の人々がこのような平等主義と「出る杭を暗殺する」社会を築いた背景として、人間の言語発達が重要だった、と述べている。

 

もちろん武器も暗殺には有用ではある。だがそれ以上に、噂話をとおして意思疎通をはかりあえること、ひとりひとりの感情を入念に確認し、計画をみっしりと練り上げて調整することは、足並みを揃えてパニッシュメントを実行するうえで重要だ。

もし、人間がこうした意思疎通のできない動物だったなら、体格の大きなうぬぼれ者や戦いに秀でた逸脱者を処刑できなかっただろうからだ。

 

そして、こうした「出る杭を暗殺する社会」を何千年何万年と積み重ねるうちに人間は道徳的な心性を獲得していったというのが『善と悪のパラドックス』のメインテーマであり、さらに男尊女卑や家父長制の由来にも話が広がっていくだが、そのあたりについては同書を読んでみてください、とおすすめするに留めておく。

 

いずれにせよ、謙虚さの欠如した人間の居場所は、太古的な社会にも無かったのである。

 

処刑はされなくはなった。それでもご注意を。

いっぽう現代社会において、悪目立ち・謙虚さの欠如・臆面の無い振る舞いなどは、そこまで命取りにはなりにくい。

 

とりわけ日本のような、警察機構が発達し、社会契約のルールが徹底した社会では、謙虚でないからといって殺されてしまうリスクは少ない。

まったくないとは言い切れないが、狩猟採集社会に比べれば圧倒的に安全で、たとえば富豪になった人が成功を鼻にかける発言をしたとしても命を落とすことはまずない。法の許す限り、恥知らずな振る舞いを続けることだってできる。

 

しかし冒頭リンク先を読むにつけても、『善と悪のパラドックス』を読むにつけても、まだまだ人間にとって謙虚さは重要に思える。

人間すべてが狩猟採集民だった頃から謙虚さが絶えず求められ続け、そうしたニーズの何千年~何万年にわたる積み重ねが私たちの本能的な道徳心をかたちづくったのだとしたら、謙虚さの欠如は不特定多数の敵をつくりやすく、悪印象を与えやすい、小さくない欠点であるように思える。

 

もちろん、実力のある人やかわいらしさのある人なら謙虚さの欠如は多少はごまかせよう。

それでも、たとえばスポーツ界や芸能界の実力者にしても、少なくとも表向きは謙虚な姿勢を保っているわけだから、社会適応における謙虚さの重要性は推して知るべしである。

 

よりよく社会に適応していくうえで、謙虚さはいまだ死活問題だ。

日々、気を付けていかなければならないと思う。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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Photo by Josh Appel