道徳教育の場面において「女王のフィンガーボウル」というエピソードがしばし登場する。

これはイギリスの女王、ヴィクトリアの有名な逸話から引用したものだ。

女王がある国の貴族を招いて食事会をした際、手を使って食べる料理が出された。

当然、その際に指を洗うフィンガーボウルも出されたが、招かれた貴族は文化の違いからそのフィンガーボウルの使い方が分からず、飲料水だと思って中の水を飲んでしまったのだ。

 

しかしながら、女王はそのマナー違反に対して意外な行動をとった。怒るでもなく、間違いを指摘するでもなく、笑い者にするでもなく、気分を悪くするでもなく、全く別の行動をとったのだ。

 

それは、自らもそのフィンガーボウルの水を飲むことだった。まるでこの水の使い方はそれで正解だと思わせ、来客に恥をかかせることなく和やかな雰囲気で食事会を終えることができたのだ。

 

女王のとった行動は大きなマナー違反であるが、これは形式的なマナーとは一線を画して考えるべきだという主張が出てくる。

そもそも「マナー」とはWikipediaによると、「他者を気遣う気持ち」を所作として形式化したもの、とある。

つまり、女王の行動は形式的にはマナー違反であるが、他者を気遣うという意味ではマナー違反ではない、称賛されるべきだ、という論調だ。

 

でも、果たしてそうだろうか?

実はこのエピソードは「それぞれの立場に立って本質を考える」という道徳教育によく合っている題材なのだ。

 

はじめに、招かれた貴族の立場に立って考えてみよう。

貴族は本当にフィンガーボウルの使い方を知らなかった。女王の行動によって恥をかくことは免れた。

しかし、これは単純に良い話だ、とはならない。

その後、彼が同様の事象で恥をかかないという保証はどこにもないのだ。むしろ、かなり高い確率でまた恥をかくことになるという予想がたてられる。

(Charles Haynes)

次の日にも同じように他の貴族の食事会に招かれて同じ失敗をするかもしれない。そこでも指摘されず、延々とフィンガーボウルの水を飲み続ける可能性だってあるのだ。恥が2倍にも3倍にもなって蓄積していく可能性すらある。

 

次に女王の立場になって考えてみよう。

女王が間違いを指摘せず、水を飲み干したのは優しさからの行動だったのだろうか。

その心中は女王にしか分からないだろうが、僕には少しわかる気がする。

間違いを指摘するという行為は意外に精神的障壁が高いのだ。精神的なコストが高いと言い換えてもいい。早い話、敵になりたくない、それ故の行動だった可能性があるのだ。

 

行動や意見を否定されることを敵対行動ととる人もいる。行動や意見を人格から切り離せず、自分自身を攻撃されたと思い込むことがあるのだ。

これは、僕にも少なからずそういった部分がある。つまり、僕の行動や意見を咎められた際に、自分自身を否定されたと感じることがあるのだ。誰だって爽やかな精神構造というわけではないのだ。

 

それは他者も同じかもしれないと考えると、わざわざ敵対行為と受け取られかねない指摘をするのべきなのだろうか、そう考えてもおかしくないのだ。あえて敵になりに行こうとする人はそうそういないというわけである。

 

もっとわかりやすく言うと、初めて会ったあまり親しくない人がずっと、「延々と」を「永遠と」と言い間違えていて、それを「いやそれは延々とだから」と指摘できるのかということだ。

つまり、敵対行動、空気の読めない人ととられるくらいなら、こいつが永遠と間違えて恥を振りまいてもいいや、といった思いやりとは対極の感情が働いている可能性もあるのだ。言うなれば保身に近い感情だ。

 

つまり、女王の行動は優しさからなのか保身からなのかは分からない、ということなのだ。

一見すると思いやりのある美談のように思えるが、それは表層部分に過ぎない。

じゃあ、友達が同じように間違った行動をしたとき、君ならどうするか、指摘できるか、それによって仲が悪くなったらどうするか、そう問いかけて考えさせる、そうすることで道徳教育を進めていくのだ。

思いやりとも取れる行動が、見る立場や角度、その先の時系列まで考えたときに本当に思いやりであるのか、このエピソードはそう問いかけてくる。

(Ramona Patel)

ところで、こういった「思いやりの本質」的なことを考えると必ず思い出す一つエピソードがある。

それは僕の心の一番奥深い部分にあるものだ。今日はちょっとその話をしてみようと思う。

 

僕が大学生だった頃に、吉岡君という真面目な男の子がいた。

吉岡君はいつも最前列でノートを取っていて、しかもそのノートをテスト前になるとコピーしてくれるというこの世に現出した神のような存在だった。

夕方4時台の講義ですら寝坊しまくって単位を落とした経験がある不良大学生の僕にとって吉岡君は本当に比喩抜きで神だったのだ。

 

吉岡君のノートはよくまとまっていた。教授の板書を写すだけでなく彼なりに分かりやすくまとめた注意書きなどが書き込まれていたし、「ここは教科書の45ページに分かりやすく書かれています」という誘導まで記載されていた。

とても価値あるノートだったのだけど、一つだけ心に引っかかる部分があった。

 

それが「吉岡君の落書きまでコピーされている」という点であった。

吉岡君が講義中に書いたと思われる落書きがすべてコピーされてついてくるのである。

それが普通のちょっとしたイラストなどだったら微笑ましくて良かったのだけど、そこには「僕の考えた最強の勇者」みたいなイラストがダイナミックなタッチで描かれていたのである。

 

ちょっとこっちが赤面してしまうレベルの青臭いイラストが随所に散りばめられており、おまけにストーリー性を持っていた。

魔族の血をひく勇者(本人は知らない)が機械生命体を倒していくストーリーで、勇者は感情を持たない機械生命体に悪夢を見せることができる唯一の存在だった。

 

悪夢を見た機械生命体は自我を持ち、自爆するようになる。決め台詞は「機械(マシーン)だって悪夢(ナイトメア)を見る。安らかに……」それでボワンと敵が爆発する。そんなイラストが何枚も描かれていた。

(Nick Olejniczak)

このイラストは講義の内容が難しくなればなるほど増える傾向にあり、彼のストレスのはけ口として描かれていることがわかってきた。受講者の8割は落単するという伝説の難講義のノートなどは途方もない大作が描かれていた。

 

最初は、なんか見ているこっちが恥ずかしくなってくるな、指摘してあげた方がいいんだろうか、と思ったが、ノートをコピーさせてもらっている手前、ちょっと指摘にくかった。

それと同時に、いつの間にか吉岡君の描く「機械悪夢(メカニカルナイトメア)」のファンになっている自分がいたのだ。

 

指摘なんてとんでもない。僕はもう「機械悪夢」なしでは生きられなくなっていた。

試験の対策なんてどうでもいい。落書きが読みたいんだ、そこまで追い込まれていた。前回の中間テストでは、敵側に悪夢が通用しない強力な機械生命体が登場した落書きで終わっていた。

 

今回の期末テストではついに続きを読むことができる。

ノートなんてどうでもいい。

落書きだけを集めて寄こしてほしい。

僕は機械悪夢を渇望した。そしてついに吉岡君から新作が手渡されたのである。講義の内容なぞどうでもいい、機械悪夢を見せろ! そんな勢いでコピーを覗き込むと、ちょっとした異変が起きていた。

 

女勇者が登場していた。

実はこの中間試験と期末試験の間に吉岡君にはちょっとした変化があった。

誘われるままに地元の女子短大との合コンに参加し、おっぱいがでかい女の子と付き合うようになったらしいのだ。そういった彼女ができたなりの変化が彼の機械悪夢にも表れ始めた。

 

新登場の女勇者、最初は何もできなくて主人公の足を引っ張るだけの存在だったが、ある機械生命体との戦いの中で覚醒する。

このシーンは流体力学におけるベルヌーイの定理の横に描かれていたのでよく覚えている。

 

感情のない機械に悪夢を見せる「機械悪夢(メカニカルナイトメア)」を持つ勇者に対して、女勇者が持つ能力はなにか。端的に言ってしまうと、機械生命体に淫らな夢を見させる能力だった。

エロい夢を見させることによって機械を興奮させ、オーバーヒートさせるというものだった。たしか「機械桃夢」とかいう能力だったと思う。

(Andy Orozco)

もしかして吉岡君は彼女ができてそういうエロいことに興味が出てきたのでは? そう感じた。

その予感は的中し、いうよいよ落書きが進展していくと、完全にエロ漫画になりはてていた。いつの間にか「機械に夢を見せる」という設定は消え去り、女勇者は男勇者にエロい夢を見させてビンビンになるのである。

それどころか、男勇者は機械生命体と戦うという使命を捨て去り、ただのエロ小僧になりはてていた。

「あひい!」

「ビンビンだぜ」

深い業と使命をもって悲しみの中で機械生命体と戦っていた勇者の姿はそこにはなく、そんなセリフが続いた。

 

もちろんそれでもかまわない。物語は全て作者に委ねられるべきである。僕ら読者は話の展開にとやかく言ってはいけないのだ。ただ、それを踏まえても指摘せざるを得ない点が一つだけあった。

先生は完全にお吹っ切れになられたらしく、「応用物理」のノートの後半などは、男勇者と女勇者の性行為が何のためらいもなく描かれていた。

「俺のナイトメア、ぶちこんでやるぜ」などと先生のキレキレのセリフが印象的だ。

 

ただ、ぶち込む先がよろしくなかった。

どうみてもすべてのナイトメアが女勇者のアナルにぶち込まれているのである。

 

ここBooks&Appsというビジネスシーンを生き抜くための素晴らしいコラムが並ぶサイトにアナルと書くことを一瞬躊躇したが、もう書いてしまったので何度も書かせてもらう。

男勇者のナイトメアが女勇者のアナルにぶち込まれているのである。

その次の絵もアナルにナイトメアである。その次もアナルナイトメアである。まさにこれはナイトメアだ!

 

一瞬、吉岡先生が性癖にマッチした意欲作をお書きになった、と思ったのだけど、よくよく考えたら少し怖いことに気が付いた。

これが先生の性癖ならいい。存分にアナルにナイトメアをぶち込みなさって欲しいところだが、もし、これが吉岡先生の勘違いだったらどうだろうか。

 

お恥ずかしい話、僕も実はけっこう良い年齢になるまで、女性器という存在を知らず、ナイトメアはアナルにぶち込むものだと勘違いしていた少年時代があった。

その後、性教育の授業などでその勘違いを訂正することができたが、もし、吉岡君も同じ勘違いをしており、その後、性教育の授業などを欠席したとかそういった事情で勘違いしたままだったらどうだろうか。

(Emily Jones)

指摘した方が良いのだろうか?

そう考えた。

このままでは吉岡先生が合コンでできたおっぱいの大きい彼女のアナルにナイトメアとなる可能性すらある。

むしろその確率は高い。期末テストが終われば夏休みだ。そこで決めるつもりだ。既にマンガの展開がそうなっている。アナルにナイトメアというナイトメアが爆誕する可能性が非常に高いのだ。

 

ノートを貸してくれる吉岡君だ。死ぬほどの恩がある。できればナイトメアなど避けたいところで、指摘したいのだけど、どうやって指摘しろというのだろうか。

「ナイトメアを入れるのはアナルじゃないぜ!」

こんなことを言い出したらトチ狂ったと思われかねない。

それに、これが勘違いではなく先生の性癖だった場合、人の性癖にとやかく言うべきではない、という議論になってくる。とてもデリケートで難しい問題だ。

それで気分を悪くした吉岡先生が新作を書かなくなってしまっては本末転倒である。どうするべきか。いったい何が正解なのか。

 

悩みぬいた僕の最終結論は、もし吉岡先生が勘違いなさっているのなら、直接指摘しなくともなんとなくで気づいてもらうべきではないか、という道だった。つまり、テスト終了後などの時間を利用し、吉岡先生の近くで呟くのである。

「ああ、入れてえなあ。アナルじゃなくてその前の女性器にいれてえなあ」

完全に性犯罪者である。

上記のセリフを伸びをしながらアンニュイな感じで言うのである。

ついつい性的欲望が出てしまったという感じで言うのがポイントだ。アナルは違うんだ、気づいてくれ、と何度も何度も繰り返した。完全に性犯罪者である。

 

テストが終わり夏が来た。それぞれがそれぞれの夏を過ごし、キャンパスへと戻ってきた。

少し日焼けした吉岡先生は相変わらず一番前で抗議を受けていた。雑談などはするけど、どうしても怖くて「この夏、アナルにナイトメアした?」とは聞けなかった。

 

秋が来て中間テストがやってきた。そこでも貰った吉岡先生の作品は、相変わらず性に溢れた意欲作だったけど、大きな変化があった。女性器が描かれるようになったのである。

女性器にナイトメアなどの表現がふんだんに盛り込まれた作品になっていた。この夏、吉岡先生は大きな成長を遂げたのである。きっと最高の夏だったに違いない。

 

僕は安堵した。もしかしたら、僕の性犯罪者スレスレのあのボヤキが彼に気付きを与えたのかもしれない。

やはり、本当に相手のことを思うならばその場で指摘するのが世界であり、冒頭のフィンガーボウルにおける女王の行動は間違いなのである。

 

僕らは多くの勘違いを抱えて生きているそれを指摘されたとき、どう思うだろうか。

恥ずかしいという気持ちが生まれるかもしれないが、さらに恥をかかなくて助かったと指摘してくれた人に感謝する気持ちが大切なのである。

 

マナーとは、形式ではない。他者を気遣う気持ちである。それならば、間違いを指摘することがこそが立派なマナーなのである。

 

ちなみに、吉岡先生であるが、最高の夏でどんな経験をしたのか、描かれる性行為がよくわからなくなっていて、女性器は描かれるようになったが、男勇者が女勇者のアナルに指を入れる描写が散見され、さらにはその指をフィンガーボウルみたいなもので洗ったあとに「いいダシが出てるぜ!」と男勇者がその水を飲み干す描写が出てきた。

完全に頭おかしい。どんな経験をしたんだ。

 

驚愕するのだけど、もう僕は心配ない。

「フィンガーボウルの水は飲むべきではない。マナー違反である」

ときっちり指摘できるのである。

 

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(2024/3/13更新)

 

著者名:pato

テキストサイト管理人。WinMXで流行った「お礼は三行以上」という文化と稲村亜美さんが好きなオッサン。

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