突然だが、昭和生まれの世代であればよく耳にした“道徳的な言葉”に、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」というものがあった。

慶應義塾の創設者であり、1万円札の肖像にもなっている福沢諭吉の言葉として紹介され、要旨「人類は皆平等であることを説いた偉い先生」という引用のされ方をされたが、記憶にある人も多いだろう。

 

だが言うまでもなく、この解釈はあらゆる意味で誤りだ。

ネット社会の普及でこのフェイクは広く知られるようになったが、念のためにおさらいしておきたい。

 

今、私の手元に、福沢諭吉の著した「学問のすゝめ」がある。

最初のページをめくると、明治13730日に福沢が記した巻頭書きがあり、それに続き本編が始まるが、その書き出しが、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。」だ。

 

福沢を、人類平等を説く思想家と解釈した人はこの下りを誤解したのかも知れないが、ここは「言えり」なので、他人の言葉の引用部分である。

「~って言っている人がいるよ」「~と言われているね」というニュアンスであり、福沢の言葉ではない。

もちろん福沢が喝破したわけでもない。

 

とは言え、もちろんこれだけでフェイク扱いをするつもりはない。

大事なのはここからであり、このセンテンスに続き福沢は何を述べているのか。

 

要約すると、

「にも関わらず、世の中には頭の良い者もいれば頭の悪い者もおり、金持ちもいれば貧乏人もいる。貴人もいれば下人もいるが、これはなぜなのだろうか。」だ。

つまり、一行でまとめると「天は人を平等に造っているはずなのに、実際は全然違うよね。」という書き出しなのである。

まさに、正反対の解釈だ。

 

さらに、福沢の辛辣な言葉は続く。

平等に生まれたはずの人間がなぜ平等でなくなるのか、という考察が始まるが、ストレートに書くことは憚られるので、ソフトに要約したい。

「学ぶことを諦め、誰でもできるような簡単な仕事を選んだ人間の身分は軽くなって当たり前。難しい仕事をする医者、学者、政府の役人は貴い身分であるのは当然だ。」という言葉がこれに続く。

 

なお一部だけでもそのまま引用させて頂くと、「無学なるものは貧人となり下人となるなり。」とまで書いている。

現代であれば、政治家が口にすればエライことになるフレーズだ。

 

とはいえ、だからこその「学問のすゝめ」なのだが、いずれにせよ福沢は、人類は皆平等であるなどという博愛は説いていない。

いや、もしかしたらどこかで説いているのかも知れないが、少なくともこの下りをそのように解釈し引用するのはかなり無理があり、言ってみれば完全にフェイクだ。

 

ちなみになぜ、私がこんな古い文庫本を持っているのかと言えば、私自身も福沢のこの言葉を長い間、人類平等を説く言葉だと信じていたからだ。

しかし、いつのことか記憶は定かではないが「その解釈は誤り」という解説を読み、それでも信じられずに自分で確認したいと思い、文庫本を買ったことを覚えている。

若い頃から繰り返し刷り込まれていた「常識」を自己否定するのは、これほどまでに受け入れがたい作業だった。

そして原文にあたった結果、ようやく事実を受け入れることができた。

 

怖い「なんとなくのイメージ」

このように、世間では「常識」と広く信じられているにも関わらず、実は全く正反対のことであるフェイクはとても多い。

そしてその中でも、私が昔から気になるフェイクの一つが、

“日本だけは、太平洋戦争の際、当時すでに空母と戦闘機の時代になっているのに、「世界一」だと言って戦艦大和の建造に走り、不沈艦だと言い張っていた”

という趣旨の論説だ。

 

この考え方は、「学問のすゝめ」と違い余り活発に議論されるようなネタでもないので、おそらくそのように信じている人が、相当数いるだろう。

イメージで思い込む怖さの好例として、引用していきたい。

 

まず、事実関係から整理したい。

日本は太平洋戦争の際、空母の導入が遅れていたのか、という事についてだ。

歴史コラムではないので乱暴に結論だけを書いていくが、世界で初めて正規空母を就役させたのは日本海軍だ。

時に1922年のことであり、太平洋戦争開戦の20年ほど前に、日本は世界で最初に空母を戦力化した。

なお、それ以前に世界では、商船改造の改修空母などの時代があり、突然変異のように日本が造ったわけではないのだが、あまりにもマニアックになるのでそれは割愛する。

 

要するに、世界で初めて空母という戦力に「頼った」のは日本であると言ってよいだろう。

そしてこの世界初となる正規空母「鳳翔」以降も日本海軍は、大型空母を含めて次々に、太平洋戦争開戦までに空母を建造し続け、開戦を迎えている。

 

なおここでも、解釈によっては多少のフェイクが存在する。

この際に日本は、「これからは航空機の時代だー!」と先見の明に溢れ、空母を造ったなどという解釈を言う者がいれば、それは間違いである。

時代背景を理解すれば明らかだが、日本が世界初となる正規空母「鳳翔」を就役させた1922年は、ワシントン海軍軍縮条約が締結された年だ。

歴史の授業で習ったことを覚えている人も多いかも知れないが、「日本は対米英で、戦艦の保有数を6割に制限された」という多国間の軍縮条約である。

詳細を話していけばキリがないので荒っぽく言うが、要するに、

「この戦艦の保有数では、とても米英に太刀打ちできない・・・。」→「そうだ!戦艦以外の艦種で勝負すればいいじゃないか!」→「空母をもっと、本格的に作ろうよ!」という流れだ。

 

当時は、戦争の勝敗は戦艦の数で決まるとされていた時代。

しかしその戦艦で、太刀打ちできるワケがない戦力に制限された日本は、やむを得ず戦艦を諦め、空母の本格的な導入に世界でいち早く取り組んだということだ。

先見の明があったというよりも、ある意味で日本のお家芸である、「制限がある中で、どうやって結果を出すか」を突き詰めた結果であった。

 

なお、世界が「これからは戦艦ではなく空母の時代」という可能性を明確に認識したのは、太平洋戦争開戦初期の、「マレー沖海戦」だったと言うのが通説だ。

このマレー沖海戦では世界で初めて、日本海軍が作戦行動中のイギリス海軍の戦艦を航空機だけで撃沈するという戦果を挙げて、世界を驚かせた。

それまでは、真珠湾の奇襲攻撃の結果を受けてもなお、「戦艦は、航空機攻撃では絶対に撃沈されない」と信じられていたからである。

当時のイギリス首相であったチャーチルはその著書で後年、太平洋戦争で一番衝撃を受けたのは、このマレー沖海戦であったとまで述懐しているが、それほどまでに常識が覆されたのだろう。

そして世界は初めて、「これからは戦艦ではない、航空機主力の時代だ」と認識し、急遽、様々な計画の見直しを進めることになった。

 

なお余談だが、このような中に在ってもアメリカはまだ戦艦の可能性を信じ、終戦間際の1944年まで戦艦の新造を続けている。

しかしこれもまた、アメリカだけが大艦巨砲主義に狂っていたわけではなく、まだ戦艦が活躍する場面があることを具体的に想定していたためだ。

要するに、お金にも資源にも余裕があるので、「これからは空母の時代だってことはわかったけど、余裕があるから戦艦も造り続けるね」という姿勢である。

 

これに対し、日本が最後の戦艦を進水させたのは太平洋戦争開戦前の1940年。

大和型戦艦の2番艦である武蔵で、そして開戦後、全ての戦艦の建造を直ちに中止している。

ちなみに戦艦大和も、その進水は同じく開戦前の1940年だ。

 

いかがだろうか、その上でもう一度、先の文章を引用してみたい。

“日本だけは、太平洋戦争の際、当時すでに空母と戦闘機の時代になっているのに、「世界一」だと言って戦艦大和の建造に走り、不沈艦だと言い張っていた”

 

実はこの文章、2018918日付けでダイヤモンド・オンラインに配信された、ある大学教授のコラムからそのままコピペで引用した一文だ。

アベノミクスがあと3年続けば日本の産業衰退が一気に露呈する

政府が新たな役割を担いながら世界が産業構造の転換を進めている時代に、日本だけは、太平洋戦争の際、当時すでに空母と戦闘機の時代になっているのに、「世界一」だと言って戦艦大和の建造に走り、不沈艦だと言い張っていたようなものだ。

(ダイヤモンド・オンライン)

コラムは軍事に関するものではなく、政府の経済政策を批判する際に用いられた比喩なので、おそらく経済学者であって軍事には余り明るくない教授なのだろう。

 

しかしだからこそ、危惧をしている。

知識人と世間で理解されている大学教授が、なんとなくのイメージでその真偽を確かめる事なく、署名記事に誤った内容を記す影響力は余りにも大きい。

ネット上に無数に存在する眉唾のニュースは、誰もがある程度、疑ってかかるが、大学教授が講義や署名記事で著した内容は相当な信憑性を持って、フェイクが無数に連鎖していく。

そしてこのように、第1級の明確な歴史資料が残っている史実さえも、多くの人々に「間違った知識」として常識となっていき、やがて史実すら変えかねない原動力となるだろう。

そうなれば、間違った学習から間違った教訓を引き出すという、致命的な学習エラーが発生する。

これでは、学習をする事そのものが有害にすらなりかねない。

 

しかしその上で、私も福沢諭吉は相当長い間、人類の平等を説いた思想家だとなんとなく信じていた。

おそらく知識を上書きしていなければ、今もそのように信じ、人にも伝えていただろう。

先の大学教授の話もそうだが、全く悪意がない分、なんとなくのイメージが持つ影響力は余りにも大きい。

 

仕事を進める上でも、私生活で趣味を楽しんでいる時間も同様だが、自分が正しいと信じている常識は、本当に真実であると信じるに足る根拠があるのか。

時には底本や一次資料にあたり、知見のクリーニングをする必要があるのではないか。

ダイヤモンド・オンラインの記事は、改めてその重要性に気が付かせてくれた。

 

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(文責-ティネクト株式会社 取締役 倉増京平)

 

【著者】

 

氏名:桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。

中堅メーカーなどでCFOを歴任し、独立。会社経営時々フリーライター。

複数のペンネームでメディアに寄稿し、経営者層を中心に10数万人の読者を持つ。