「コミュニケーション能力が足りない」。
もう、何年も前から耳にする言葉である。
コミュニケーション能力、という言葉に含まれるニュアンスは人によってさまざまだが、多くの人は「空気が読めない」「服装や清潔感に気を配ることができない」といった性質を思い浮かべるのではないかと思う。
発達障害という言葉が流行になった今なら、コミュニケーション能力の不足を発達障害と関連づけて考える人もいることだろう。
だが、そういったたぐいの「コミュニケーション能力が足りない」以外にも、見落としてはいけない問題がある。
それが、これから紹介する「対立しながら協調もできる」ができないタイプの問題だ。
他人を敵/味方でとらえ、そのとおりに動いてしまう人たち
確かに、空気が読めないのも服装や清潔感に気を配れないのもコミュニケーションの差し障りにはなろう。
たとえば不特定多数の人と知り合っていく際などは、相手とその周囲にどのような言外の文脈が存在するのか、なるべく読み取れるに越したことはない。
また、不信感や不潔感を与えないような服装や立ち振る舞いに気を付けたほうが悪印象も避けやすかろう。
しかし、そういったコミュニケーションの基礎をこなせていても、やはりコミュニケーションがなかなかうまくいかない人もいる。
初対面ではそれなりに空気も読めるし服装や清潔感にも問題は無いけれども、いざ付き合いが始まってみると、やがて相手のことが気に入らなくなってりストレスを感じはじめ、コミュニケーションがどんどん苦しくなってしまうような人だ。
この手の人にありがちなパターンは、初対面の段階ではシンパシーが感じられて気持ち良く活動できるのだけど、長く一緒にいるうちに、どこかしら自分とは意見が異なる点や対立している点に気づいてしまい、そうなると不安になったり気持ちが落ち着かなくなったりして、やがてストレスを溜め始めて不適応に向かっていく……というものだ。
いわば、彼らは意見が異なる点や対立点をもって、「この人は私の敵ではないか」と勘ぐり過ぎてしまうタイプである。
人間関係のなかでストレスが溜まってくると、それが言動の端々にあらわれるようになり、人間関係に悪影響が出やすくなる。
ましてや、相手を敵のように嫌っているようではだいたいロクな人間関係にならない。
こういったことが積み重なれば、ほうぼうでコミュニケーションに失敗して、やがてはコミュニケーションや人間関係に苦手意識を持つようになるだろう。これもこれで、コミュ障の誕生である。
複雑な人間の利害がさばききれない
こういうタイプの人に「空気を読みなさい」「服装や清潔感に気を配りなさい」とアドバイスしても、ほとんど意味はない。
彼らに必要なのは、「対立点は対立しつつも協調する」という精神的課題を解決する能力、または作法だ。
つまり、人間関係のなかで自分とは異なる点や対立点を見つけたとしても、それで即座に相手のことを敵判定してしまわないこと。
異なる点や対立点があっても人間関係を続けていけるような、そういう経験蓄積をしていくこと。
そういったことが、このタイプのコミュ障には必要だろう。
本当にコミュニケーションの上手な人は、他人に対して簡単には「敵判定」を下さない。
そもそも人間同士の利害というのは複雑だ。
ある場面ではベストパートナーでも、別の場面では利害が対立し、ライバルとならざるを得ないこともある。
たとえば、職場で進めている新規プロジェクトでは積極的に協力しあっている者同士でも、新人教育については意見が対立していたり、喫煙ルームの使用方法については快く思っていなかったり……といったことは珍しくない。
そういった利害の錯綜した状況でも、本当にコミュニケーションの上手な人は、相手を敵認定することはなく、状況や場面ごとに意見交換することにもあまり抵抗を感じない。
対立している部分があるのを承知したうえで、それでも重要なパートナー同士であり続けることができるし、それで深刻なストレスを抱えるわけでもない。
しかし、すべての人がこんな風に「対立点はあっても協調もできる」をやってのけられるわけではない。
ひとつかふたつの対立点、あるいは快く思えない点があることをもって、相手を敵認定してしまう人も少なくない。
そうやって敵認定してしまうからなかなか上手く付き合えず、職務のうえで重要なパートナーシップを築かなければならない時にはストレスに苛まれてしまう。
それなら、敵認定してしまった相手が自分の思ったとおりに変わるよう期待するか、さもなくば相手と最小限の接触で済ませてストレスをやり過ごすか?
しかしこれらのメソッドもそれはそれで難易度が高いし、険が立ちやすく、職場の居心地は悪くなってしまう。
また、こうした「敵判定」が、私生活の場面で起こってしまう人もいる
職場のような、距離が比較的離れている人間関係では「対立点はあっても協調もできる」人でも、配偶者や恋人同士のような親密な人間関係ではそれができなくなってしまう人はいる。
配偶者や恋人とのひとつかふたつの対立点がどうしても我慢ならなくて敵対してしまい、そこからストレスを募らせ、連鎖的にもっとこじれて、針の筵のような家庭生活をおくる人達。
繰り返しになるが、人間関係の利害は複雑なものだ。
あらゆる点で対立せざるを得ない相手が滅多にいないのと同じく、あらゆる点で協調・同調できる相手もまずいない。
そのことを思えば「対立しながら協調もできる」精神性のほうが、空気を読む精度や服装の清潔さよりもクリティカルな課題なのではないか。
「対立点があっても協調もできる」がうまくできると、同僚やパートナーとの付き合いも円滑になり、ストレスを感じにくくなるだけでなく、ときには敵対者やライバルと目される人物とも協調関係を築けるかもしれない。
なにしろ「対立点があっても協調もできる」わけだから、ふだんは対立している間柄でも、利害の一致点では手を結び、そこを起点として人間関係を発展させていく可能性すらある。
「対立しながら協調もできる」精神性がある人のほうが、敵対的人間関係を緩めやすく、友好的人間関係を築きやすい。
コネクションを作りやすくもあるだろう。
反対に、「対立点があっても協調もできる」が苦手な人ほど、敵対的人間関係を増やしやすく、友好的人間関係を減らしやすい。単純に「敵を作りやすい」とも言える。
敵ばかりつくってしまう人のコネクションづくりは大変で、いくらか空気が読めて清潔感があるぐらいでは、このディスアドバンテージを覆すのは難しい。
ひとつの対立、ひとつの気に喰わなさで即座に相手を敵認定し、それでも世の中を渡っている人は、よほどのアドバンテージにスポイルされている人だろう。
あるいは、もっと素晴らしい社会適応を成し遂げるチャンスを幾つも潰しながら現況に甘んじているか。
「対立点があっても協調もできる」を身に付けるには
では、これを身に付けるには何をすべきだろうか。
幼少期まで遡って考えるなら、親子関係のなかで「ときには思い通りにならないことがあっても、親子関係は安定的に続いていく」ことを繰り返し実体験することが有効かもしれない。
子どもに「対立点があっても協調もできる」を身に付けさせたい人は、“対象恒常性“というキーワードでgoogle検索してみると良いと思う。
しかし、成人している人の場合はそうはいかないので、それに近いことを積み重ねていくのが次善の策となる。
それは、拙著『認められたい』でも触れた、“雨降って地固まる“を含むような人間関係、つまり、ときには対立することがあってもちゃんと続いていけるような人間関係を、少しでも多く、少しでも長く続けていくことだ。
そういう人間関係が苦手で、つい、敵認定して関係を切ってしまう人の場合は、夫婦や恋人といった距離の近すぎる人間関係ではなく、友人や飲み屋の知り合いといった、ちょっと距離の遠い人間関係でそれをやってみたほうが実現性があるかもしれない。
淡い間柄では人格者でも、親密な間柄では自己中心的になってしまう人というのは珍しくない。
どうやら人間は、人間関係の距離が近ければ近いほど敵か味方かに拘ってしまいやすいようなので、たとえばこの課題を「理想の恋人をつくって解決」しようとするのは巧くないと思う。
少し距離のある、少し淡い付き合いで、長く続けていくほうが難易度は低い。
人によっては、認知行動療法か、それに近い手法が役に立つかもしれない。
ひとつかふたつの対立点があるからといって、その人を即座に敵認定してしまうのは、認知行動療法のレトリックでいうなら、ひとつの「自動思考」であり、「認知のクセ」のようなものだ。
たとえばの話、A新聞を愛読している人が、社内のS新聞の愛読家と政治の話題でぶつかりやすいとして、そのことだけをもって「あいつは敵だ」と認定し、ストレスを募らせるようになっているとしたら、そこには思考に飛躍があり、独特の認知の手癖がある。
新聞や政治の話題で対立しているからといって、相手全体を敵や悪魔のように感じてしまう必要なんて本当はないはずである。
少なくとも、「対立点があっても協調もできる」人はそのようにやっているはずである。
ひとつかふたつの対立点を相手全体の印象として拡大解釈し、協力のチャンスを逃しているのは、自分自身の認知の手癖のせいかもしれない──そういう洞察と軌道修正を必要としている人は、オンラインの世界にもオフラインの世界にもいると思う。
発達障害的な方面ばかりに目を奪われてはいけない
というわけで、コミュニケーション能力の構成要素のひとつとして「対立点があっても協調もできる」性質について紹介してみた。
政治家の世界はもちろん、ほとんどの職種においても、ひとつやふたつの対立点があっても協調できるところは協調し、うまくやっている人はたくさんいる。
穏当に出世していくのも多くはこのタイプだろう。
「対立点があっても協調もできる」ほうがチャンスが増えるし、ストレスに悩まされることも少なくなるからだ。
たぶんそういう人のほうが、傍目にもコミュニケーション能力が高い人物とみなされやすかろう。
いわゆるコミュ障といわれる人達について考える際には、発達障害的な方面にばかり目を向けるのでなく、こういう側面も見落としてはいけない。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。
twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』
(Photo:Samuel Yoo)