世の中には、「期待に応えて大きな成果を出す、大きく成長する」という物語があります。
「君には即戦力になることを期待している」だとか、「この仕事は君にしか出来ないと思っている」だとか。
そういった「相手に対する期待値の明示」という儀式があり、それにやる気を出して、それに答えて。期待通り、あるいは期待以上の成果を出そうとして全力を尽くす。
そして、ハードルを越えることによって大きく成長する。
それは確かに美しい物語です。
実際、こういう過程を経て成長した人、経験を積んで実力をつけていった人はたくさんいるのでしょう。
期待のやり取りというものは、精神的通貨のやり取りのようなものでもあります。
相手に「期待」を支払う。それは相手にとっては一種の承認、あるいは承認の予約として動作する。
期待を「支払った」側には、その期待の充足という形で報酬が返ってくる。期待交易経済です。
そういう意味では、うまく期待を「支払える」人は、それだけで人間関係を上手いこと運営出来る資質を一つ持っているということにもなります。
期待の支払い、期待の受け取りが上手く回ると、職場は良好に動作します。これは「期待経済」のプラスの側面です。
ただ、なんというか、このサイクルが定着し過ぎていることによって発生する弊害というか、「期待経済」を回し過ぎることによるデメリットみたいなものが複数あって、それが色んなところで悪影響を及ぼしてしまうケースもあるように思っているんですよ。
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まず一つは、期待を受ける側についての話です。
「期待」というものは、される側にとっては承認であるのと同時に、目の前に提示されたハードルでもあります。
クリアすることが出来ればより多くの承認が得られるけれど、クリア出来なければ「期待を裏切った」という形でダメージを受けます。
この時、受けるダメージの度合は人によって違います。
会社で働いていると、「自分に対する期待」を過大に受け取ってしまい、それに対して何とか答えようと無理に無理を重ねて潰れてしまいそうになる人を観測する機会が頻繁にあります。
勿論、手が届く範囲であればフォローもするんですが、残念ながら自分の手が届かない範囲で、実際に潰れてしまった人を見たこともあります。
勿論、「期待に応えられなかった為に評価を下げられるかも」という認識は、ビジネスパーソンにとっては大きなリスクです。
ただ、評価を多少下げられたからって死ぬ訳ではないし、それで潰れるくらいなら期待など適当にやり過ごした方が遥かにいいと、少なくとも私は思うんですが、どうも「期待を裏切る」ということ自体に対する恐怖感が、人によっては物凄く強いように思うんですよ。
以前、こんな記事を書きました。手前味噌で申し訳ないですが、ちょっと引用します。
電通と同じことが眼前で起こるかも知れなかった世界で思うこと。
彼は、おそらく「即戦力」という言葉を自分で真に受け過ぎてしまったんだろう、と今では思います。
実際のところ、どんなベテランの人であっても、職場が変われば相応のキャッチアップの時間が必要です。
マネージャーであれば部下のスキルを見極める時間が必要ですし、プログラマーであればコード規約や環境、既存のアーキテクチャについてあれこれ調べる時間が必要でしょう。
どんな部署、どんな人材でもそうである筈だ、と私は思います。
「即戦力の人材」なんて本来存在しない筈なのです。
ところが彼は、入社直後からどんどん仕事を抱え込んで、やがてイージーミスを連発するようになりました。
彼は多分、「無理です」と言えなかった。
「その期日ではとてもできません」と言えなかった。
ただ、抱えきれない仕事を抱えて、周囲には「大丈夫です、なんとかします」と言い続けて、どんどん口数を減らしていきました。
今から考えると、彼は頭から「期待経済」の罠にからめとられていたんだろうなあ、と思うのです。
結局のところ、彼は上司による「即戦力」という期待によって潰されてしまいました。
「期待を裏切る」という結果それ自体を恐れて、誰かに助けを求めることも出来ずに、本来抱えきれない荷物を抱え込んでしまいました。
「期待通りに出来ない」ということで、必要以上の精神的ダメージを受けてしまう人、必要以上に「期待通りに出来ない」ことを恐れる人が、世の中には恐らく結構な数存在する、という話なんです。
これは、一面、「期待経済」が定着し過ぎてしまったことによる負の側面だと私は思います。
悪いことに、世の中には「勝手に期待をして、その通りにならないと勝手に怒り出す人」というものまで存在します。
SNSなんかでも結構いますよね。
そういう人たちは、相手が自分の期待通りに動いてくれないと、「期待外れだ」「がっかりだ」などという心無い言葉を投げつけます。
それによって、期待される側はなすすべもなく「期待を裏切ってしまった」というダメージを受け続けてズタボロになります。
「期待」が「攻撃」になってしまうのです。厄介な話ですよね。
「期待をかける」ということは、同時に「相手に対して期待というプレッシャーをおしつける」ことでもあるんだ、ということを、我々はちょっと強めに認識しておいた方がいいんじゃないかなあ、と思います。
期待を受ける側にしても、「この期待を受け取るべきか、それともスルーするべきか」というのは、一つ判断基準として持っておいた方が無難だ、とも思うのです。
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もう一つ、期待を「する側」についても、また違った側面のデメリットがあります。
上記で「勝手に期待をして、その通りにならないと勝手に怒る人」という話をしました。
「受け取ってもいない期待を相手に押し付ける」というのはそもそも身勝手な話であって、それ自体論外なんですが、一面「期待通りにならなかった時の失望、ストレス」というものが案外バカにならない、という話でもあると思います。
日常生活に当てはめて考えると分かりやすいです。例えば家事の不均衡によるストレスというものは、その多くが「相手が期待通りに動いてくれない」ことから発生します。
洗い物をしたらお皿を拭いて欲しいのに、そうしてくれない。
洗濯が終わったら物干しを手伝って欲しいのに、そうしてくれない。
「期待が外れる」ことによるストレスは、容易に苛立ちや怒りに直結します。
そこに「言葉が足りない」とか「コミュニケーション不足」といった要素が加われば、そりゃもう家庭の平和は簡単に乱れます。
相手に無理やり期待を押し付けない、ということも重要ではありますが、自分の中の期待値コントロールというのも結構重要なのではないかなーと。
例えばの話、システム開発の工数管理では、その人の本来出せるパフォーマンスが1であったとしても、マージンをとって1日当たりの目標を0.8にしたり0.7にしたりします。
全ての人がフルで動けるというのは大抵間違いであって、無理のない範囲で続けた方が長くパフォーマンスを維持することが出来る。
当然、それ以上の成果を出してくれればそれを評価すればいい訳であって、皆に「きっと100%の力を出してくれるだろう」と期待するのは、相手も自分も疲弊させてしまうだけではないかと思うんですよ。
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「人に期待しない」っていうと、なんか冷たいような印象を受けてしまいますよね?
けど、「人にプレッシャーを押し付けない」という見方をすれば、それは一つのスタンスとして選択し得るんじゃないかと。
私自身は、自他に対する期待値がかなり低空飛行気味な人間でして、自分にもそれ程期待していませんが人にもそれ程期待していません。
7,8割の力が出せれば上出来だろうと思っていますし、何かの計画を立てる時にも、可能な限り「7割のパフォーマンス」で消化出来るタスク割を考えます。
ハードルはなるべく低くしておいた方が越えやすいし、大きく越えられればそれはそれで嬉しい。そういう考え方でやっています。
そして、この考え方で損をした記憶があまりありません。
「大きな期待をかけて、その期待に応えてもらう」という物語を書くことは出来ませんが、「皆でそこそこの目標を越えて皆で喜ぶ」という程度の図面を描くことは出来ます。
時には、「期待されて、その期待に応える」という図式とは違う物語について考えてみてもいいんじゃないかなあ、と。
そんな風に思った次第です。
今日書きたいことはそれくらいです。
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【プロフィール】
著者名:しんざき
SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。
レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。
ブログ:不倒城
(Photo:Thomas Hawk)