かつて大学生だった頃、僕はドトールやスターバックスコーヒーといった所で読書、あるいは試験勉強をするのが好きだった。
自宅で勉強していると、つい手が漫画などに伸びてしまったり眠たくなってしまったりと全然集中できなかったりするものだけど、不思議なことに喫茶店で適度に周りに人がいる環境下だと人は俄然集中できるもので、自宅で勉強するよりも数倍効率が良いことを知り、以降好んでいくつかのお店を使わせてもらっていた。
もちろんというか、勉強が第一の目的で喫茶店におもむくわけだけど、ときおり非常に興味深い話題が隣でされる事もあり、そういう時は勉強に集中はしつつも隣の会話に耳がダンボになってしまう事もしばしばあった。
むき出しの人の社会は実に多様性に溢れている。というか、自分の所属する社会が狭かったのだろう。
僕は喫茶店で、老人の井戸端会議や新興宗教の勧誘や怪しい投資商品の勧誘、意識の高い学生の起業話、女子会、といった様々な会話を耳にする事ができた。
コミュニケーションには情報共有型と感情共有型の2つがある
そうしていくつかの会話を聞くうちに、コミュニケーションというものは暗に2つの型が含まれており、実は自分を含めて多くの人は、それをキチンと認識して使い分けていなかったな、と思うようになった。
それぞれ、情報共有型と感情共有型とここでは定義しよう。
情報共有型コミュニケーションとは、「コミュニケーションの目的が情報である」ものである。上司から部下への指示といった、仕事場におけるコミュニケーションの多くはこれに該当するだろう。
コミュニケーションが情報の伝達のみに使われるのだとしたら、この機能だけで十分そうに思えるが、意外と重要な役割をするのが後者である感情共有型のコミュニケーションだ。
例えば、好きな人が言ってる事ならば何でも肯定する人がいる一方で、嫌いな人間が言ってる事はどんなによいことでも全く耳に入ってこなかったりする。
共感は、情報以前の段階で、実は強く情報の伝達に強く作用する。
更にいえば、感情共感型コミュニケーションはもっと大きな所で人を動かしていたりもするのである。
それについて、感情共有型コミュニケーションの代表例である女子会を例に、具体的な話をしよう。
男女におけるコミュニケーションの違い
生まれて初めてミスタードーナツで女子会がどういうものであるかを目の当たりにした僕は心底驚いた。
女子会の構成要素の9割ぐらいは人の噂話と100%の同意で構成されており、毎回毎回
「ねえねえ!聞いて聞いて!」
「なになに?」
「(具体的な話)」
「えーなにそれひどーい!」
「でしょ、でしょ?」
みたいな流れの繰り返しなのである。ほとんどの場合において話題にヤマもなければオチもなく、「えっ?そこで終わるの?」みたいな、なんの脈絡もないタイミングで突然会話が終わったりもする。
問題の掘り下げや分析なんていうのは全く無く、ただただ事実が流れて過ぎ去っていくのみなのである。
男のコミュニケーション社会にいた自分にとって最も衝撃的だったのが、基本的には女子の会話はかなり均等に会話の機会が割り振られることだった。
例えば、Aさんがある程度会話で発散したら、ちゃんと次にBさんが会話を発散する機会が与えられるのである。
男のコミュニケーションだと、話せない奴は永遠に話す機会をもらえない。基本的には話す権利は、面白い話ができる奴がほとんど全部持っていってしまう。
また、基本的には同意などする奴はほぼ皆無で、誰かが何か悩みでも言おうものなら、全員が問題解決の方向で問題を分析し始める。
「大変だったね」などと共感を示す例はまず皆無であり、100%「こうしたらいいんじゃないかな?」という傍から見ればお節介にもほどがある「俺の話を聞け」モードに全員が没入するのである。
同じ会話でも、男と女でここまで違うものなのかと、かなりのカルチャーショックを僕は受けたのだけど、つい最近まで、僕は女子会の感情共有型コミュニケーションは一体何の役に立っているのかがよくわからなかった。
情報ならまだわかる。報告・連絡・相談を徹底すれば会社で重宝されるのと同様、情報のネットワークは私達を個から群れへと見事に練り上げる。
では、100%の、おまけに参加者全員の共感を増幅させる女子会は、一体何の機能を果たしているのだろうか?
僕はあれは一種の魔女のサバト(集会)の機能を果たしているんじゃないかなと思う。
女子会は、人の群れをうごめかしているのかもしれない
前にも書いたけど、感情とは私達の本能に他ならない。
ファクトはそこにあるものだけど、感情とはそれに何らかの方向性とかを付随させる、私達を導く謎の何かだ。
<参考 多くの人が「ファクト」でなく「感情」で動いているからこそ、世の中は良くなっているのではないだろうか。 https://blog.tinect.jp/?p=59004>
そこから逆算するに、女子が好んでよくやってる感情共有型コミュニケーションというのは、男子がやるような情報交換型コミュニケーションであるファクトの対極に位置するものだ。
恐らくなのだけど、女子会で行われている共感型コミュニケーションは、集団のコミュニティ内で、個の感情を増幅する役割を果たしており、それが巡り巡って私達全体を何らかの方向的に突き動かしているのではないだろうか?
もっといえば、あのミスドで行われてるキャッキャウフフのカワイイお茶会は、その実で、群れの中における「好き・嫌い」の方向性を壮大に動かしているのである。
いくら男子がスカした顔をしてロジカルに情報共有をやろうが、所詮それは単なるファクトの交換でしか無い。
そこにエモによる方向性が組み合わさって、初めて何らかの具体的な方向性が決定づけられる。
多くの人は、好きな人が言ってる事ならば何でも肯定する一方で、嫌いな人間が言ってる事はどんなによいことでも全く耳に入ってこない。
ならば、女子会で、集団内の「好き・嫌い」の方向性が大きく作用されるとしたら、それはある意味では強烈な人民裁判にも等しい効果を発揮するであろう事は想像に難くない。
女子会は、群れとしての私達を裏から動かす、悪の秘密結社も真っ青な機能を果たしているのだ。
会話も性も、等しく我々に深い快楽をもたらす
コミュニケーションの効用に情報共有と感情共有の2つの効用があることは、これでおわかり頂けたと思う。
しかしそれ以上に、なぜ私達がコミュニケーションにここまで熱中するかと言えば、それが快楽であるからに他ならない。
なぜか。
これにヒントとなるような話をしよう。かつて僕が大学で授業を受けていた時に、フランス語の教授が実に興味深い事を言っていた。
彼いわく
「喋って気持ちいいのは喉の粘膜が発声により刺激されるからである」
「性の喜びも同じ粘膜の刺激を通してもたらされる」
「だから人間は、粘膜を刺激することで快を感じるように生きているんだ」
との事であり、それをもって「フランス語を勉強して、日本語にはない発音で喉を震わせる事ができるようになれば、語学を通じてより深い快を得ることが君たちはできるようになるのだから、必死でフランス語を勉強しなさい」との事であった。
この話が面白いのは、「会話」と「性」の快楽が、粘膜という同一の部分から生じているというのを指摘している点だ。
私達は口の粘膜を通じて「会話」という快楽に身を投じているのである。
孤独がどれだけ私達の心を負の方向に蝕むかを考えると、この快感がどれだけ私達の心の平穏に役立っているかが実によくわかる。
ということはだ。下半身の粘膜刺激だって、同じぐらい私達の心の平穏に貢献しているはずだ。
それが取り上げられた時、人はどれほどの苦しみを感じるのかについて貴重な証言をしてくれた方がいる。
それは、乙武さんである。
乙武氏「地獄の苦しみだった」 タブー視されてきた“障害者の性”、当事者が抱える苦悩と課題とは
一時期は議員候補になるとも噂された乙武さん。
性的なスキャンダルにより失脚した彼だけど、その彼は当事者の立場からこう話す。
「性欲は、食欲、睡眠欲と合わせて3大欲求と言われるが、食事や睡眠と違って生死に関わるものではないということで後回しにされたのだと思う」
「ただし、ここが封じられると周りが思っている以上にしんどいんだということは理解してほしい」
言われてみれば確かに性が抑圧されるのは、食事や睡眠と違って生死に関わるものではない。
にもかかわらず、下手したらそれ以上に苦しい何かを時に私達に押し付けてくる。
現代社会において、性はある意味では勝ち組のシンボルであり、そしてそれは何故か美しいものである事が理想化されている。
美男美女の恋愛は良いコンテンツになるのに、おじさんとおばさんの恋愛は嘲笑されがちな事を考えてもらえばわかるだろう。
どうも世の中には「性愛は勝ち組が手にするものであり、キモい性愛はみたくない。かつ、食事や睡眠と異なり、なくても生きていけるという点から、あれは贅沢品である。手に入らないからといってつべこべ言うな」という風潮がある。
しかしここまで読んでくださった皆様なら、乙武さんの苦しみがどれほどのものか類推する事ができるのではないだろうか?
たぶんあの苦しさの本質は、人と喋れないタイプの苦しみと同じであり、孤独で人が鬱になるのと同程度、下半身の粘膜刺激を奪われる事は、すっごくすっごくシンドイ事なのだ。
どこにも繋がれないのは、ひどく苦しい
一体、この苦しみの正体はなんなのだろうか?長い間ずっとそれについて考えていたのだけど、そのヒントがある本に書いてある事を思い出した。セックスボランティアである。
この本の中で、障害者の性という、一般的にはタブーとされる事項が扱われていたのだが、その中である障害者の方が
「射精すると、男としての自信が取り戻せて安心できる」
といったような事を述べていた。
この「自信」という言葉の意味を最近まで延々と考え続けていたのだけど、これは「男性として機能できている」という事を自認できるという事の象徴なんじゃないかと思う。
性とは男女の生殖器が働くことにより産まれる「これまで、そしてこれからの時代」の遺伝子のクロニクル的な縦の繋がりだ。
その営みは、基本的には下半身の粘膜刺激を通じて行われ、人はそれに快を感じるようプログラムされている。
そういうインセンティブが働くからこそ、私達は下半身に突き動かされて性愛という困難に”あえて”挑戦するよう動かされる。
その結果、うまく行けば凄く凄く幸せになれるのは、いうまでもないだろう。
そう考えると、性欲を押さえつけられた時に感じるシンドさというのは、この遺伝子のクロニクル的な縦の繋がりが「ここで行き止まりだよ」と言われる事に近いのではないだろうか。
そう考えると、僕はすごくシックリ来る。
「射精すると、男としての自信が取り戻せて安心できる」というのは、もっと突き詰めていえば「先に進めてるよ」というDNAが本能で感じる「共感」なのだろう。
例えば、セックスボランティアに登場した方は、実際にいわゆる生殖活動を通じて、子供を成したわけではない。
じゃあそれをもって、障害者の性的快楽を無駄だとか贅沢品だと言えるかといえば、そんな事は全然ないだろう。
射精という性のコミュニケーションが「自信」として個人の心の健康に強く寄与しているという圧倒的現実を鑑みると、性の快楽とは恐らく一種の遺伝子の「共感」みたいなもので、私達が友人とバカバカしい話をしてスッキリするのと、恐らく似たようなものなのだ。
性を下半身の粘膜を通じたコミュニケーションと考えれば、情報共有と感情共有の2つの作用があると考えるのが当然だ。
子供のような成果物が情報共有型の性のコミュニケーションだとすれば、射精などの生の喜びは感情共有型の性のコミュニケーションであり、それを通じて過去と今との繋がりに個体レベルで「共感」できることで、人は想像以上に「生物として安牌な行動をしている」という安堵感を実感できる。
だから逆に下半身の粘膜刺激を奪われると、人は遺伝子レベルでつながりを否定されたかのような感覚に陥り、「性の反共感対象」に置かれたと本能レベルで実感してしまう。
だから、性の快楽を奪われると、人は思った以上に「シンドイ」のだ。
コミュニケーションなくして、人は豊かに生きられない。
会話の快楽も、性の快楽も、奪われたからといって直接的には生死に関わるものではない。
だが、それらが日常生活から消失すると人間は酷く心を病む。何故か?それは、過去から未来にいたるまで、私達が常につながる事で生きてきたからだろう。
陳腐な言葉だが、人は1人では生きていけない。良い友人に囲まれる事は、とても豊かな人生を私達に与えてくれる。
会話は、偉大なるヨコのつながりを私達にリアルに実感させてくれるし、それを奪ういじめは酷く私達の心を蝕む。
あれば、もう犯罪にしてもいいんじゃないだろうか?
そして同じく、私達の命は過去から今へと連綿と繋がっている。そこの流れから落とされるのをDNAレベルで直面させられる事は、今までの自分を組み上げてきた過去からの怨念ならびに、未来のありえた可能性からへの恨みも相まって、酷くおどろおどろしいものとなっている。
このタテ方向からのつながりの苦しさを見て見ぬふりをするのは、ひどく残酷なことだ。
キモいからって、性愛からパージされるのは、僕は大真面目に人権問題だと思う。
コミュニケーションなくして、人は豊かに生きられないのだ。
人のセックスを笑うなという言葉の意味は、思った以上に深いのである。
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趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。
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(Photo:Andy Rogers)