テレビ局のやらせ、ジャーナリストによる捏造などが発覚するたびに、「情報の質を見極めなければ!」と思う人は多い。

「フェイクニュース」という言葉が浸透したことも、その危機感に拍車をかけただろう。

 

でも、いちいち情報の精査をするほどみんな暇じゃない。

そもそも、「その情報が正しいかどうかを見極める」手段すら、わたしたち多くの人は知らずに生きてきたのだ。

それなのにいきなり「見極めろ」なんて言われても、正直「えぇ……」って感じじゃないだろうか。

 

身近に潜む「特殊加工された情報」たち

わたしはライターの端くれだから、メディアの報道に対し、「書き手側」としての違和感をもつことがある。

 

たとえば、ネット記事で「〜〜と報じられている」と書かれているのに、記事リンクがなくどこで報じられているのかがわからないとき。

「海外メディア」となぜかメディア名をボカしていたり、「〜〜という話だ」と書いておきながらだれの発言かの明示がないとき。

「関係者」というどこのだれかもわからない人間の勝手な憶測が、まるで事実かのように書かれているとき。

そういうのを見るたびに、「なんかうさんくさいなぁ」と思う。

 

ちなみにわたしはいままで何度か「ドイツ在住者としての意見を聞かせてほしい」とテレビ局から連絡をいただいたが、「匿名での放送」「放送するかの確約はなし」だったので断っている。

実際にオファーのあったテレビ番組を見てみれば、「ドイツ在住邦人」として番組の趣旨に沿うコメントのみが匿名でいくつか紹介されていた。

ほかの人にも取材したのだろうが、取り上げられるのは当然、都合のいいものだけだ。

 

残念なことだが、多くの人の目に触れるメディアでだからといって、必ずしも信頼できるわけではない。

 

約6割の人がネットニュースの出所を「気にしない」現実

とはいえこういうのが「気になってしょうがない!」とソワソワするのは、わたしが書き手だからだろう。

書く側にまわらない人からすれば、出典だの情報源だのというのは、そこまで重要じゃないのかもしれない。

 

実際、新聞通信調査会の調査では、「フェイクニュースであるかもしれないと意識するか」という質問に、「意識している」と答えたのは半数以下の41.4%。「意識していない」が34.6%だ。

「インターネットニュースを見る時に、ニュースの出所を気にするか」という質問では、「気にする」が42.5%、「気にしない」が57.1%と気にしないほうが多数派である。

 

「フェイクニュースかもしれないと意識」しつつ「ニュースの出所も気にする」人、いわゆるリテラシー高めの層だって、いっていちいち真剣に「この情報は正しいのか」と向き合うことは少ないだろう。

「こうだ」と言われれば、たいていの人は「そうなのか」と納得する。そういうものだ。

 

「その情報は加工されたものなんですよ!」と言いたい一方で、読者が疑わないのはメディアへの信頼のあかしでもあるから、なんだかもどかしい。

 

反証の余地を残すべきジャーナリズム

そんなことを考えていたとき、『日本ノンフィクション史』というおもしろい本を見つけた。

報道は可謬主義(fallibilism)的であるべきであり、そうである以上、反証に開かれているべきでもあろう。

[……]取材源秘匿はひとつのモラルだったが、その一方で出典明記の原則をもジャーナリズムは自らに課す、一種の矛盾した構図があった。

秘匿せずには被害が発生する取材源以外は明示というケース・バイ・ケースの使い分けで、ダブルスタンダードを回避してきたのがジャーナリズムの現状だろう。

そして秘匿しなければならない場合も、記事の信頼を失わないために可能な限り情報の出自を示す。「政府高官筋によれば」等々の常套句は、そういった事情の中で採用されている。

それは事後的な反証に向けて道を開く努力だとも考えられ、そうしてジャーナリズムは(社会)科学であろうとしているのだ。

要は「情報提供者の秘密を守るのが報道する側のモラルだけど、情報源をオープンにしないとほかの人は事実確認や反証がしづらいよね。場合によっては秘密にするけど、情報源はできるだけ公開することで、できるかぎりジャーナリズムの社会科学性を高めているんだよ」

ということだ。

 

これに関しては、多くの人が納得すると思う。

そう、やっぱり情報源の開示はマナーでありモラルであり、大事なことなのだ。情報源をちゃんと書かないメディアは、警戒したほうがいい。

 

情報源を隠しても成り立つ表現方法だってある

一方この本は、「ニュージャーナリズム」という手法にも触れている。

ニュージャーナリズムとは、たくさんの人に取材して、それもとに事実を物語として再構築し、三人称で書いていくことらしい。

 

ニュージャーナリズムは膨大な取材の賜物だ。

書き手たちは獲得した情報を精査・総合して「その時に何がどのように起きていたか」を正確に描き出せるまでに持ってゆく。そうした作業が背景にあってこそ、小説のような三人称の物語として出来事を書ける。

 

たとえば、αという人が凶悪事件を起こしたとする。

書き手は、両親や元クラスメートであるAさん、Bさん、Cさんなど多く関係者に取材をして、αを中心とした物語を三人称で書いていく。

「αはAと仲がよく、αとAは家族ぐるみの付き合いをしていた。しかしクラスメートのBが、緊張したら頭を掻くαの癖をからかったことでケンカになり、AがBをかばったことで、αとAの仲はしだいに悪くなっていった」

こんな感じだ。

 

上の例文はAが語ったのかもしれないし、Bが語ったのかもしれない。

読者がそれを知ることはできないが、そのぶん、こう書けば情報源のプライバシーを守ることができる。

 

「情報源は開示すべきだ!」と思っていたわたしだけど、こういった表現方法が存在する以上、「情報源が開示されているかどうか」を常に情報の信憑性のモノサシにすることはできないんだなぁなんて思う。

 

「情報を疑うべき!」だけど、じゃあその方法は?

情報源がいっさい書かれていなくとも、事実に即した質の高いジャーナリズムは存在する。

逆に、著名人のインタビュー記事であっても、インタビューを受けた人本人がSNSで「俺はそんなこと言っていない」と言うことだってある。

 

もっと身近な例でいえば、匿名の個人ブログで丁寧に仮想通貨の仕組みを解説している人もいれば、実名&写真を公開していながら、事実とはちがう情報をバラまいている人もいる。

大手新聞社の記者が捏造することもあれば、名もなきフリージャーナリストが政治スキャンダルをスッパ抜くこともある。

多くの人は情報を知らないから情報を求めるわけで、無知な人間がその情報の正誤を判断するのはむずかしい。

 

じゃあ、なにを基準に「情報の信頼度」を測ればいいんだろう?

 

わたしはライターだから、ここで

「こういう基準で情報の正誤を判断しましょう」

「こういう条件を満たしている情報は信頼できるでしょう」

なんて道筋を示すべきなんだろうけど、残念ながらいまのところ、汎用的な基準や条件を見つけ出せていない。

いろいろ考えてはみたけど、結局のところ「書き手のモラル」という結論に落ち着いてしまうのだ。

 

だからあえて、解決策が見出せないまま、記事を書いてみた。そしてみなさんに問いかけてみたい。

「あなたはなにを基準に、情報の正誤や質を判断しますか?」

 

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(2024/4/21更新)

 

 

【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

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