映画「ジョーカー」が大ヒットしている。
この物語はダークナイトで悪役として描かれたジョーカーが何故うまれたのかを、昨今の政治情勢と絡めて描いたものだ。
劇中では、上級国民/下級国民とも揶揄される先進国での2つの民が対称的に描出されており、実に上質なダークファンタジーとして完成している。
まだの方はぜひとも映画館であの独特の空気を身にまといながらみて欲しい。あんな空間はなかなか体験できるものではない。
豊かな民と貧しき民のような対立構造を絡めた映画評に関してはもうかなり書きつくされている感があるので、今回はそれとは別の視点からこの映画を眺めていこう(以下ネタバレが嫌いな人は注意)
<参考 映画『ジョーカー』が描いた「下級国民の反乱」(橘玲)|NEWSポストセブン>
おそらく、この映画は10年前に出ても誰も理解できなかっただろう。
この映画の主人公であるアーサーはいわゆる先進国におけるプア・ホワイトと言われるタイプの人種を象徴している。
欧州や米国では、いわゆる知的社会から脱落した白人が結構いる。
以前なら街の工場で尊厳を持って働いていたこれらの人たちが憎むのは、ウォール街やシリコンバレーで働いているリベラルを気取った金持ちである。
「あいつらが俺達から仕事を奪った」
ラストベルトと呼ばれる古きアメリカに住むプア・ホワイト達の憎しみは、トランプ大統領就任以前までは単なる僻みや自己責任として片付けられ、日の目を見る事はなかった。
映画ジョーカーが仮に10年前に放映されていたとしたら、おそらく視聴者のほとんどはこう評したはずだ。
「こんなん、ただの逆恨みだろ。先進国に住んでるんだから、努力すればいくらでも這い上がれる。頑張らなかったのが悪いのに、なにヒーローなんて気取ってるの?」
しかし今この映画をみて、そういう風に読み解く人はあまり多くないだろう。
こうしてみるとわかるが、たった10年間で世間の考え方というのは、ここまで様変わりするのである。
同じ内容であっても観るタイミングによって受け取られ方はこうも変わる。
トランプ大統領就任以前なら単なる自己責任として世間から一蹴されていたであろうストーリーが、現代では一定数の同情が集まるのだから本当に人間の認知というのは面白い。
これぞタイミングの妙といえよう。世の中が変わると、こんなにも物事の見え方は変わるのだ。
ジョーカーを単なる狂人と評したある聡明な女性の話
映画を見終わると他人の感想が気になるものだが、とりわけ感心した評が一つあるので紹介しよう。
「ジョーカー単なる狂人説」である。
映画ジョーカーでは貧しい母子家庭で育ったアーサーが、誰からも受け入れられず、仕事も奪われ、社会保障からすら切り捨てられ、おまけにテレビで笑いものとして晒し上げられるという、これでもかというほどの痛めつけられエピソードが乱発する。
その結果、アーサーはジョーカーとして闇の王に生まれ変わる。そしてジョーカーに影響された下級国民による反逆が起こり、ゴッサム・シティは火の海に沈むわけである。
僕はこの映画をみて
「自己責任とかで負け組を徹底して追い詰めれば、そりゃ暴力革命も起きるわなぁ」
と自分が男である事もあるからか随分と共感してしまったのだけど、ある聡明な女性が
「こんな因果関係は絶対にありえない」
と声高に主張するのを聞いて、かなりの衝撃を受けた。
彼女の主張を要約するとこんな感じである。
「弱い男であるアーサーは追い詰められたからジョーカーになったのではない。アーサーは単なる狂人であり、狂人を追い詰めたら暴走したってだけの話でしょ?」
「なんでみんな、そんな都合よく弱い男が可哀想だという風に解釈するの?全く共感ができない」
「あの映画で唯一評価できるのは、最後の美しいダンスのみ。それ以外は全部ウソ!」
僕はこの評を聞いて、本当に腰が砕けるほどのインパクトを受けた。
もちろん作品というのはどのような解釈がされてもよいものだし、自分の見方がかなり特定の方向に偏っていたのは事実だろう。
だが、あの映画をみて、ここまで厳しい評を下せるだなんて、どういう神経してるんだ?と思ったのもまた事実である。
いったいなんでこんなキツい言葉が選ばれてしまうのか?
しばらくの間、原因を探っていったところ、僕はある一つのキーワードに思い至った。それは「共感」である。
共感できないものは理解から拒絶される。高すぎる共感能力は時としてパージに向かう
まず大一原則として、自分が最も共感できる対象というのは自分である。
小説を読んで登場人物に「共感した」なんてのは、小説の中の登場人物を自分に投影したからに他ならない。
エヴァンゲリオン世代の人にはシンクロ率というと理解が進むだろう。
私達はみな一人のエヴァンゲリオンのパイロットであり、共感力とはまさしくシンクロ率に他ならない。
そして共感能力が高いのは、一般的に女性だ。
接客業や医療現場のような場所で働いていると、それを嫌というほどに実感できる。
こう書くと、いかにも男性が劣っているかのようにみえてしまうかもだが、高すぎる能力がもたらすものは何もメリットだけではない。
有り余る大金が時にアクシデントをもたらすのと同様、共感も実は負の側面がある。
「自分が共感できないもの」が理解できなくなるのだ。
実際、共感能力が高いから幅広い対象に共感できるという訳では無い。
共感能力が高すぎると、逆に共感できないものの理解を脳が拒絶し、現実を歪めて理解するようにすらなる。
エヴァンゲリオン視聴者ならエヴァが暴走する様を覚えているだろう。
エモーショナルが高まりまくった女性が過激なフェミニストとなり、共感できない対象を攻撃する有様は、まさに暴走だ。
献血のポスターが炎上させられたのは、快・不快と善・悪を混同しているから
この事は昨日起きた献血のポスター問題にも通じている。
つい先日、フェミニスト達が日本赤十字社のとある献血のポスターを過度に性的であり、公共の場にそぐわないと大炎上させた。
<参考 日赤「宇崎ちゃん」献血PRポスターは”過度に性的”か 騒動に火をつけた米国人男性に聞いてみた | 文春オンライン>
I admire the work the Red Cross does, which is why I’m disappointed that @JRCS_PR in Japan would run a campaign using the over-sexualized Uzaki-chan. There’s a time & a place for this stuff. This isn’t it. #women #metoo #kutoo pic.twitter.com/bhds7IPPTq
— Unseen Japan (@UnseenJapanSite) 2019年10月14日
フェミニスト達の問題は、表現における「快・不快」と「善・悪」を混同させてしまっているところにある。
フェミニスト達はこの絵をみて、「自分たちが不快に思う表現」≒「悪」として湧き上がっているのだが、そもそも個人が不快に思う事と物事の悪は根本から異なる概念だ。
それを認めてしまうと、フェミニストが不快に思う表現が全て悪として処罰されてしまう。
そんな事が認められるはずがない事はいうまでもないのだが、シンクロ率が高まりすぎて暴走した共感脳の女性は、それを”悪というファクト”以外のものとは理解ができなくなっている。
この快・不快と善・悪の混同を理解すると、ジョーカー単なる狂人説がなぜ生まれたのかがようやく理解できる。
あの評を下した女性は、おそらくアーサーにあまりにも共感ができなさすぎて、自分が共感できるギリギリの形で妥協点を”狂人”という形で導いたのだろう。
狂人をぶっ叩いたら暴走したというストーリーなら、彼女の快・善/共感センサー圏内にギリギリ入ったのだ。
共感できない≒悪ではない
共感できる小説は一晩で読めるのに、共感できない話はいつまでたっても読み進められない。
共感はこんな感じで一種のスパイスとして作用する。
共感できる対象物は、理解を促進させ、気分をアゲてくれる。それは自分と世界を混同させて、トリップした結果の産物ともいえよう。
しかし、世の中は常に自分を中心には回るものではない。映画ジョーカーをみて、僕のように共感できる人ばかりだけではないだろう。
きっとこの評で書いた女性のように、一ミリも共感できないと思う人だっているはずだ。
そういう人こそ、この言葉を忘れないで欲しい。
「共感できない」≒「悪」ではない、と。
きっとこの映画が一番伝えたかった事は、そういう事なんじゃないだろうか。
<参考文献 反共感論 ポールブル―ム>
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