ほんらい、「キモい」とは他人を貶める言葉、つまり加害の言葉であるはずなのに、現実には「キモい」は被害を受けた被害者の言葉として用いられている。

そして二つ目の引用ツイートにあるように、このような「キモい」の用法が皆の常識になってしまうと、「キモくない」身なりを整えることが皆の義務になってしまう。

 

私がみるところ、日本社会はまさにそうなっていると思う。

 

貴族社会のようなエクスクルーシブ(排他的)な場では、それでも構わないのかもしれない。

だが、日本社会全体がそうなってしまったら、「キモくない」身なりを整えられない人、頑張っても「キモい」と言われがちな人は永遠に加害者扱いされ、疎外されることになる。

 

不審な中年男性の発見

「キモい」という言葉を私が再認識するようになったのは、割と最近のことだ。

 

私は街並みを眺めるのが好きで、最近につくられたタワーマンション街も、昭和風の住宅街も、それぞれに魅力があって見応えがあると思っている。写真に撮って残しておきたくなる風景も多い。

そうやって全国各地の住宅街を歩き回っているうちに、私は気づいてしまった。

 

「俺は今、不審な中年男性とみられていないか?」

 

山村ならともかく、東京のような大都会は匿名性がしっかりしているから、他人の恰好なんて誰も気にしないだろう──そう思い、街並み探検に際しては「機能性重視」の恰好にしていた。

いや、それは半分ウソで、汗をかいたり汚れたりしても構わない恰好をしていた、というべきだろう。

まあその、お金のかかっていない恰好をしてうろつきまわっていたわけだ。

 

すると、どうも人々の見る目が険しい気がしてならない。

面と向かって「おまえはキモい」とか「おまえは不審だ」と言われることは無い。

けれども、チラッとこちらに投げかけられる一瞥が厳しい、ような気がする。

山の手の高級住宅街ではもちろん、下町といわれる墨田区や江東区でもそれは変わらない。

お金のかかっていない恰好をして街並み探検をしている中年男性に対する人々の視線は、厳しいものであるらしいことを私は肌で感じた。

もっとパリッとした格好をして、たとえば赤坂や表参道を歩いている時には、こんな視線を感じたことはないのだが。

 

ひょっとしたら、これは人々の視線が険しいだけでなく、私の自意識が、勝手に罪悪感や羞恥心を疼かせているのかもしれない。

もしそうだとしたら、私の心の中に「キモいのは良くない」「キモいのは不審」といったイメージが内面化されているのかもしれない。

 

十分あり得ることだ。

なぜなら小学校時代からこのかた、私たちは「不審者」のイメージを親・教師・世間から何重にも教え込まれていて、そのイメージとは、基本的に怪しげな中年男性のものだからだ。

 

街並み探検をしている最中にも「不審者注意!」という立て看板をあちこちで見かけるわけだが、そこに描かれている「不審者」の外観は、いかにも怪しげな男性だ。

丸の内のオフィス街で見かけるような外観の人物や、麻布のレストランで見かけるような外観の人物が「不審者」として描かれていることは無い。

 

そんな「不審者」のイメージを刷り込まれてきたのだから、中年男性になった私が、色褪せたパーカーを着てちょっと汗をかきながら住宅街を徘徊すれば、それはもう「不審者」のイメージどおりと言わざるを得ないのである。

 

“「不審者」が見たいか? よろしい、ならば鏡を見てみたまえ。そこの映っているおまえが不審者だ。”

 

コストをケチると、中年男性はたちまち「キモく」なってしまう

三十代の約十年間、私は自分が「不審者」たりえることを忘れていた。

ドラマ『電車男』がヒットする前後の頃の私は、オタクでも外観で差別されないよう、身なりを整えるために労力を割いていた。

 

脱オタクファッションをスタートしてだいたい数年で、街の人々からの視線がだいぶ和らいだように感じて、私は「キモい」という言葉に怯えなくて済むようになった。

服を選ぶ楽しさや合わせる楽しさも理解でき、はっきりとQuality of Lifeが向上したように思う。

 

しかし四十代になってから、私は身なりに対して手抜きをするようになった。

子育てが始まり、養育費がかかるようになってくると、お金をそちらに回さざるを得ない。

 

そのうえ私はワイン沼という、危ないホビーに魅了されてもいた。

「子育てを始めると、冴えない普通のおじさんになる」とはよく聞くが、少なくとも私は、三十代の頃ほど身なりに対してコストを支払わなくなってしまった。

 

当たり前のことだが、身なりを整えるにはコストがかかり、コストをケチれば身なりは悪くなる。

服装のクオリティだけでなく、服選びのセンスや意識も鈍くなる。

もし、入浴や洗髪、フレグランスにも気を遣わなくなったら、もっともっと身なりは悪くなるだろう。

 

逆に言うと、身なりの整っている世間の人々はそれだけ身なりに時間やお金を支払っている、ということでもある。

こぎれいな恰好をした人々は皆、身なりを整えるためのコストを支払っていて、小汚い恰好をした人々は皆、そのためのコストを支払っていないか、支払えないということだ。

 

かつて、オタクがキモいと言われたのも、オタクたちが身なりを整えるためのコストを支払わず、お金も時間も趣味にすべて使ってしまっていたからに他ならない。

いまではそのようなオタクは少数派になってしまったが。

 

中年男性やオタクに限った話ではないが、もし「キモい」と言われずに済むような身なりを保ち続けたいなら、ずっとコストをかけ続け、メンテナンスし続けなければならない。

ボヤボヤしていたら、あなたも私もたちまち不審者になってしまうだろう。

 

ということはだ。

この社会で疎外されないためには、老若男女を問わず、身なりを整えることに一定のコストを支払い続けることが、いわば義務になっているも同然ではないだろうか。

 

もちろんこれは、法的に課せられた義務ではない。

それでも、「キモい」と思った側が被害者のような顔をしていて、「キモい」と思わせた側が加害者のような気持ちになってしまう現代の習慣のなかで、その習慣に逆らって生きるのは簡単でも居心地の良いことでもないはずである。

 

人並みの社会生活を続けようと思うなら、私たちは身なりにコストをかけ続け、メンテナンスしていくしかない。

それができるのにやらないのは、怠慢と言われても仕方がないかもしれない。

だが、やろうとしてもできない人、それだけのコストをかけ続ける余裕のない人は?

 

社会から疎外されるしかないのだろうか?

 

カフェより吉野家

こういうことを考えるようになってから、ふと、魅力を感じるようになった場所がある。

それは駅前の繁華街だ。

 

閑静な住宅街では道行く人々がこちらにチラリと目を向け、身なりを確かめる。

儀礼的無関心を貫いているようで、彼らは視界の隅に私の姿をとらえ、決して気を許さない。

 

それとは反対に、駅前の繁華街のなかではお互いがお互いの身なりに注意を払わない。

よほど身なりが整わないか、よほど行儀が悪いかしない限り、繁華街の雑踏では「キモいか否か」を問われずに済む。

ここでは誰も私を見ていないし、私も誰も見ていない。

吉野家、日高屋、ちょっと油っぽい中華料理屋などもいい。

儀礼的無関心を装った、それでいて射るような検閲のまなざしはここには差し込んでこない。

お洒落なカフェなどと違って、若くてハキハキした店員のノリに付き合わされる心配もない。

パリッとした恰好で武装している必要がないどころか、むしろ武装解除しているほうが似つかわしいぐらいだ。

 

「カフェより吉野家のほうがホッとする」

 

これが、現在の私の気持ちの到達点だ。

この気持ち、果たしてわかってもらえるだろうか。

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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(Photo:Emiliano Vittoriosi