コンサート、演劇、トークイベント。
そういったライブには、ライブならではの良さがある。
プロのライブともなると、演者の情熱だけでなく、技能の卓越を見ずにいられない。
演奏や身のこなし、トークに感動させられるだけでなく、「鍛えられた人間の技能」の可能性について考えさせられる。
録画やDVDで観るより、目の前でリアルタイムに演っているのを見たほうがインパクトが強い。
で、最近私は、「鍛えられた人間の技能」をライブで楽しめる新しいチャンスを発見した。
それは「政治家のお祝いの言葉のライブ」である。
たとえばNHKの国会中継を見ていても、答弁する国会議員や官僚に凄さや面白みを感じない。
言葉尻を捕らえられないよう、役人言葉を使いこなしてみせる様子には技能の卓越を感じなくはないけれども、TV越しに見ているせいか、ピンと来るものがない。
ところが市議や県議のお祝いの言葉をライブで見ると、話が違ってくる。
ああ、政治家って政治のプロフェッショナルなんだという実感が沸く。
地域でめでたいイベントがあると、会場にはしばしば市議や県議がやって来る。
そしてお祝いの言葉を述べるわけだが、これが凄い。
しっかりとした姿勢。
訓練された頭の下げ方。
にこやかな表情。
抑揚のしっかりした、よくとおる温かな声。
言葉の選び方も見事で、誤解のされにくい、反感を買いにくいボキャブラリーを徹底させながら、主宰者、会場に集まった人々に祝辞を伝えると同時に、さりげなく市政や県政にも言及している。
こういった卓越を一身に集めた政治家が、NHKの国会中継のような遠い世界ではなく、目の前で、私たちに向かって語りかけているのだ!
どこをどう見ても良い人、市民や県民の代表にふさわしい人にしか見えないのである。
新聞や雑誌ではしばしば「政治家の失言」がスキャンダルとして報じられ、インターネットの床屋談義では「政治家は失言ばかり」と耳にする。
政治家でも失言することはあるし、それが政治生命を左右することがあるのは事実ではあろう。
ところがライブで見る政治家は、いつも失言からは最も遠い、スキルフルなプロフェッショナルにみえてならない。
「まさかこの人が失言するなんて」と思わせるような、圧倒的なコミュニケーション能力を感じずにいられない。
政治家の失言がスキャンダルたり得るのは、それが常態ではなく、例外だからではないだろうか。
細かな言葉遣い、身振り手振りの巧さに神は宿る
こうした政治の卓越、コミュニケーションの卓越を感じさせてくれるのは、もちろん政治家だけではない。
マイクを持っているときのアナウンサーの喋りは、キー局のアナウンサーはもちろん、地方局のアナウンサーでも素晴らしい。
抑揚。活舌。表情。言葉遣い。そういったものに隙が無く、不審感を与えない滑らかなコミュニケーションをやってのけている。
芸能人は怪物じみている。
内容としてはたいしたことを言っていない時でも、トークのテンポやスピード感で大勢をアトラクトするだけの何かがある。
あれは訓練の賜物なのか、それとも野生の本能によるのか。
大学教授のスピーチなどもいけている。
話題の順序やボキャブラリーの選択が淀みないだけでなく、聴衆の理解力にあわせて論旨をわかりやすく要約してみせる。
彼らの話しぶりは、なんとなく真似できそうにみえる。
ところが実際にやってみようとすると、うまくいかない。
アナウンサーや芸能人は、そこらのおじさんやおばさんでも言えそうな内容しか話していないことも多い。
ところがその内容を、アナウンサーや芸能人のように私たちが話せるかといったら、そうはいかないのである。
政治家やアナウンサーや芸能人の凄みは、彼らが語る文章の内容にあるのでない。
彼らの話しぶり、彼らの話の伝え方のなかにある。
だから私は思わずにいられない。
政治力の神は、コミュニケーションの細部に宿っているのだ、と。
たとえば、クラスメートから「これから高田馬場まで飲みに出ないか」と連絡が入った時に、LINEに「じゃあ7時半に行きます」と書くのと「7時半からなら、自分も行けます」と書くのでは、相手が受ける意味も印象も違ってくる。
前者の答えかたでは、相手は時間を指定されていると感じる可能性が高く、後者の答えかたでは、選択肢を提示されていると感じる可能性が高いだろう。
あるいは付き合い始めたばかりの異性とレストランで食事をして、「すごくおいしいお店だった」と表現するのと「すごくおいしい晩飯だった」と表現するのでも、相手が受け取る印象は変わり得る。
どちらが必ず正解、ということはないけれども、相手や状況や雰囲気によってはどちらかのほうが正解に近く、どちらかのほうが拙い。
気の利いた男性や女性ほど、こういう細かなボキャブラリーの違いに気を回すのが上手い。
コミュニケーションの細部が上手い人がいるということは、下手な人がいるということでもある。
ほとんど同じ内容のことを言っても、どうしても棘のある言い方になってしまう人、反感や誤解を招きやすい表現になってしまう人というのはいる。
言い回しのほんの僅かな違い、選んだ形容詞のちょっとした違いなどによって、相手が受ける印象やプレッシャー、解釈可能性がかなり変わることを、彼らは知らないか、知っていても気を回せないのだろう。
政治家、アナウンサー、芸能人、大学教授といった人々は、まさにこの、コミュニケーションの細部のレギュレーションがズバ抜けている、と私は感じる。
ボキャブラリーのチョイス、話題の順序、滑舌・表情・身振り手振りといったものの総体として、彼らは誤解を与えにくく、伝えるべきメッセージを正確に伝えるコミュニケーションをやってのけている。
敵をつくりにくく、味方をつくりやすく、誤解を与えにくく、心に響きやすいコミュニケーションをやってのけていれば、そりゃあ人望も集まるだろう。
あのアナウンサー、あの芸能人、あの大学教授のコミュニケーションの細部には、コミュニケーションの神が宿っておられる。
容姿だって「コミュニケーションの細部」
少し前に某若手政治家の「何か言っているようで何も言っていない話法」が話題になっていて、嘲笑の対象となっていたけど、仕事してるとああいう話法や文法がものすごく役立つ場面がたくさんあるし、一部の技術職を除く多くの職域では、とりあえず身につけておかないとけっこう苦労するものだと思う。
— たられば (@tarareba722) 2019年11月22日
このツイートに記されているように、ときには「何か言っているようで何も言っていないコミュニケーション」が必要になる場合もある。
そのとき、空っぽのコミュニケーションの脇を固めるのは、ここまで述べてきたコミュニケーションの細部だ。
ここで挙げられている某若手政治家のコメントも、まさにそうしたコミュニケーションの細部によって脇が固められていた。
で、某若手政治家の場合、顔がとてもいい。
「ただしイケメンに限る」というネットスラングもあるけれども、実際、容姿もまたコミュニケーションの細部をかたちづくる要素のひとつだ。
容姿に優れていれば、それだけで良い心証を得やすくなる。
哲学者のショーペンハウエルも「美は事前に人の歓心を買う公開の推薦状である」と言ったではないか。
某若手政治家は、だから公開の推薦状をぶら下げて政治活動していると言っても過言ではないし、彼の容姿は、政治家としての資質の一部である。
彼ほど顔がいいわけではない市議や県議にしても、人前で話す時には身なりを整え、良い心証を得やすい外見づくりに余念がない。
女性政治家の身に付けているものも興味深い。よくよく選んで外見をつくっているのがみてとれる。
「コミュニケーションは内容こそが肝心だ」という人もいるかもしれない。
だが良きにつけ悪しきにつけ、他人の心証、とりわけ不特定多数の心証は、内容以上に形式・外観・レトリックによって左右される。
いまどきは、”「何を言っているか」よりも「誰が言っているか」が重要”とよく言われるが、その延長線上として、「どう言っているか」も同じぐらい重要だ。
そして某若手政治家が環境問題についてコメントした時のジェスチャーから想定するに、たぶん「誰が言っているのか」「どう言っているのか」さえ整っていれば「何を言っているのか」についてはあまり考えない人が、世の中には結構いたりするみたいなのだ。
もちろん「何を言っているのか」が問われる場面もあるから、コミュニケーションの内容を考える力が要らないわけではない。
けれどもコミュニケーションの内容だけで勝負していても政治力はなかなか獲得できないし、どんなに良い内容を用意した志の高い人でも、コミュニケーションの細部に宿った神に背を向けていては、渡世はおぼつかない。
たかが形式、たかが外見、たかがレトリックと馬鹿にするのでなく、そういった部分にしっかりと注意を払っている人に、コミュニケーションの神は微笑むのだと思う。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。
twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』
(Photo:Jonas Bengtsson)