医者として働きだして最初の頃の話である。
新米医師である自分は、とある地方の中核病院で夜間の救急外来を担当していた。
その病院は大きいがどの駅からも遠く、たどり着くのは容易ではない。
それにもかかわらず……夜間だろうが、本当にひっきりなしに患者がやってきた。
病はいつ何時たりとも人を襲う。
それは夜中といえども例外ではない。
夜中にやってくる人の中には、大変な病でやってくる人もいた。
が、しかし「こんな時間に、わざわざ病院になんてやってこないで、朝まで寝てりゃいいのに」という人もたくさんいた。
当時の自分は若く、正しい科学知識で地域住民を教育することも自分に課せられた使命だと思っていた。
だから夜中に訪れた患者さんに、懇切丁寧に”科学的に正しい”知識を説明し、家で寝てれば治ると帰宅を促していた。
あるとき、そんな僕の姿をみた先輩医師が僕を捕まえてこんな話をした。
「高須賀先生、夜中も日中と変わらず熱心に診療するねぇ」
「あ、はい。ありがとうございます」
僕は褒められるのかと思ったが、ここから話は予想外の方向へと転がり始めた。
「ねぇ先生。こんな夜間に、わざわざ、駅から遠いこの病院に、なんで軽症の患者さんがやってくるんだと思う?」
僕は間髪いれずにこう答えた
「正しい知識がないからじゃないですか?」
彼は頷きつつも、僕をこう諭した。
「それもあるかもしれない。けど、もっと本質的な事をいうとね……彼らは”普通じゃない”んだよ」
「はぁ……」
「もちろん、ここでいう”普通じゃない”ってのは、頭がおかしいとか、そういう意味じゃない
人間の不安には、”根拠のある”不安と、”根拠がない”不安の2種類がある。
日中の外来にやってくる人は、どっちかというと比較的頭は落ち着いている人が多い。
こういう人なら、先生のような”科学的に正しい”知識でもって、不安がある程度は和らぐかもしれない。
けどね……朝まで待たないで、夜中に、わざわざタクシーを飛ばしてこんな大病院にやってくる人は、”根拠がない”不安にとらわれちゃってるんだよ」
「……」
「そういう人が1番必要としているのは正しい知識じゃない。”根拠がない”安心なんだ。
だからね、昼の人と同じ対応をしちゃ駄目だよ。相手の顔をじっとみて、”大丈夫ですよ、安心してください”って言って”根拠がない”安心を補ってあげなくちゃ。
それが補われれば、もう診察なんて9割終わったようなものなんだからさ」
”根拠がない”漠然とした不安は人を酷く不安定にする
医学の世界にはこんな格言がある。
病をみて人をみず。
いま思い返すと、働きはじめの頃の僕は病気”しか”みてなかった。
「病気に対して正しい対処をすれば、みんなが満足する」
これが最適な対応だと思いこんでいた。
しかし、働き始めて半年もしないうちに”根拠がない”漠然とした不安というものへの対処が、思っている以上に大切なのだという事に嫌というほど気が付かされた。
病は気からというが、気は本当に馬鹿にできない。この事は今回のコロナウイルス騒動からもよくわかる。
根拠のない不安は、時に爆発的に拡散する
熊代先生が、コロナウイルス騒動でほとほと疲れてしまったというブログを書かれていた。
体力も気力もなくなった。
疲れて、いる。原因の見当はついている。
だいたい新型コロナウイルス(COVID-19)騒動のせいだ。
この騒動によって私は消耗し、体力も気力も出なくなってしまっているのだと思う。
文中でも書かれているとおり、熊代先生はコロナウイルス自体にはそこまで危機感を持っていないという。
だが、それでもツイッターのタイムラインを流れる今回の一連の騒動を通じて、ほとほと精神が疲れて果ててしまうという。
なんでこんなに疲れてしまうのかといえば、それはコロナウイルスの情報に乗じて、人々の”根拠がない”不安を言外に感じ取ってしまうからだろう。
多くの識者が指摘しているとおり、いまの日本の雰囲気は、なんとなく東日本大震災の時の感じと似ている。
あのときも、日本社会全体を”根拠がない”不安が覆い尽くしていた。
そうしてソワソワすると、人々は”根拠がない”安心を求めて生活必需品を確保し始めたり、”自分も役に立ちたい”という思いから、一見すると正しそうだが科学的には誤っているキャッチーなデマを拡散しはじめる。
ぶっちゃけマスクなんてつけたって、一ミリもコロナウイルスの予防には役立たないし、残念ながら26度のお湯ではコロナウイルスは不活化しない。
しかしそれでも人々は、マスクを求めて駅前のドラッグストアに早朝から並んでしまうし、LINEグループで26度のお湯情報を共有してしまう。
何故か?それぐらいしか”根拠がない”安心を手軽に得る方法がないからである。
残念ながら、”科学的に正しい”知識は普通の人々には”根拠がない”安心を与えてくれない。
今回の騒動を和らげるためには、マスクはめちゃくちゃ増産しないといけないだろうし、様々な観光施設にも営業を自粛してもらうほかない。
そこに根拠に基づいた”正しさ”はない。
けれど根拠を超越した”安心”はある。
安心神話ともいえるような寓話が、いま1番求められているのである。
よくわからないものは怖い
僕が中学生の頃の話だ。
教室のドアの近くに座っていたのだが、そこを人影のようなものが不定期にチラチラうろついていた。
その当時、大阪教育大学附属池田小学校で小学生無差別殺傷事件が発生していた事もあって、僕は
「ひょっとして、ここにも殺人鬼がうろついているのかもしれない」
と強い恐怖心にかられる事となった。
初めの頃は「いやいや、気のせいだろ」とごまかしていたのだが、一週間ほど経過した後、あまりにも恐怖心がふくれあがったので僕は授業中に鉛筆をわざと落として、ドアを少しあけて外をみた。
そこには……何もなかった。
いま思うと、太陽の光がときどき何かに遮られて、影がつくられていたのだろう。
念の為、その後も何度か確認したのだが、やっぱり何もなかった。
そうしたら”根拠”ができたからなのか、そのあと僕はその影を全く気にする事がなくなった。
安心を手に入れ、僕は落ち着いたのである。
たぶん、いまの日本は、あのドアにできた影のようなものが全国民にチラついているような状態なのだ。
みんながみんな”まんじゅうこわい”みたいな状況に陥っているのである。
中学生の僕はドアを開けて確認する事で”根拠ある”安心を手に入れられた。
けど、残念ながらコロナウイルスは目に見えない。
多くの人は結果がでるまで”根拠のない”不安に駆られ続けることだろう。
あなたの周りにも、冷静そうにみえつつも”根拠のない”不安でおかしくなる一歩手前の人がいるかもしれない。
そういう人が”根拠のない”不安にとらわれない為にも、大切な人の目をみてこう言ってあげよう。
”大丈夫ですよ、安心してください”
バカバカしいと思う人もいるかもしれないだろうが、こういうのが意外と本当に大切なのである。
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(Photo:Giulio Gigante)