『音楽が聴けなくなる日』(宮台真司、永田夏来、かがりはるき著/集英社新書)で、永田夏来さんが、電気グルーヴの石野卓球さんのtweetを紹介していました。

このtweetは、けっこう話題になったので、目にしたことがある人も多いのではないでしょうか?

 

僕は「友達」が極めて少ない人間なので、石野卓球さんとピエール瀧さんの「友情」は、すごく羨ましいのです。

いや、「石野基準」でいえば、僕には「友達なんていない」のかもしれません。

 

「友達」について考えるとき、僕の頭にいつも浮かんでくる記憶があるのです。

小学校5年で、人口30万人くらいの中国地方の街から九州の地方都市に引っ越した僕は、九州でけっこう酷い目にあっていました。

「言葉が違う」と同級生からは白眼視され、それに対して「こんな田舎なんて……」と、たいした都会ではないのに、前に住んでいた街と比較して、バカにするような言葉ばかり吐いていたのです。

 

そんなの、嫌われて当然だ。

でも、当時の僕は、そこでとってつけたように方言を喋り出すのは屈辱だと思っていたし、ここはずっと自分が居る場所ではないはずだ、と信じていたのです。

 

そんなある日、僕が4年生まで住んでいた街に、久しぶりに家族で行ってみることになりました。

僕はその日を心待ちにしていたのです。

小学校でずっと仲が良かった友達に会える、転校していった僕が連絡したら、みんな喜んで迎えてくれるだろう。

 

ところが、その街について、以前の友達に電話をしてみて、僕は現実を思い知らされました。

「帰ってきてくれたんだ!」と喜んでくれるはずの「親友」たちは、軒並み、めんどくさそうな声で、「用事があって、会う時間がない」と僕に告げたのです。

 

僕は、あまりに自分の期待とは違う反応に、打ちのめされて、ひどく落ち込みました。

ああ、僕にはもう、帰る場所なんて無い。

 

とはいえ、せっかく帰ってきたのだから……と、僕はいろんな人に電話をかけ続けました。

会いたい友達から順番にかけていって、そのリストの最後に近いところくらいにいたのがO君だったのです。

 

O君は、突然の僕からの電話に「えっ、帰ってきたの?会う!うちに遊びにおいでよ!」と屈託なく誘ってくれました。

僕はそれまで、O君の家に遊びに行ったことは一度もなかったのだけれど、彼の実家の中くらいのホテルの横をときどき通ってはいたので、場所は知っていたのです。

 

O君は、嬉しそうに僕を迎え、お母さんも「いらっしゃい!」と歓迎してくれて、紅茶にケーキまで出てきました。

ノストラダムスの大予言とかの当時流行りのオカルトの話をしたり、ボードゲームで遊んだり、これまで2人きりで遊んだことなどなかったはずなのに、なんだかとても楽しい時間だったのを覚えています。

 

O君は、クラスのなかでは「いじめっ子」に属している、と僕は思っていて、どちらかというと敬遠していたのに。

借りた本を引っ越し先まで持っていってしまったことを謝ったら

「あの本、けっこう面白かったけど、そんなものはどうでもいいんだよ。また会えて嬉しいよ」

と、言ってくれたのが忘れられません。

 

不思議なものですね。

自分にとって「親友」だったはずの人たちは僕のことを忘れかけていたのに、僕の「友達ランキング」では下位だったO君だけが、僕のために時間をつくって、故郷だったはずの場所で打ちのめされていた僕を歓迎してくれたのです。

 

僕はあの時以来、「友達」というものがよくわからない。

いや、わからないということがわかった、というべきか。

 

人間というのは、他人に何かしてあげたら、その分、相手からも何かをしてもらいたい、してくれるはずだ、と期待しがちです。

でも、人と人との関係というのは、そんなにシンプルな「ギブアンドテイク」で、成り立っているわけではない。

 

僕は病院で、介護が必要な患者さんと、その家族との関係をたくさんみてきた。

世の中の多くの人は

「優しい親、あるいは、立派な親であれば、子どもも献身的に介護することが多いはず」

だと思っているのではないでしょうか。

 

しかしながら、僕は、そんなことはない、と感じています。

 

正直なところ、介護に熱心な子どもというのは「親に恩を感じている」よりも「もともと、他者に献身的に尽くすキャラクターだった」ようにみえるのです。

極論すれば「親を介護しなければ、という責任感とマメさ、持続力がある人は、多少親との関係が悪くても献身的に介護をしたり、面倒をみることが多い」し、もともと他人と関わるのが得意ではない、好きではない人は、どんなに「良い親」であっても、距離を置きがちなのです。

 

要するに「介護をするかどうかは、お互いの関係性よりも、子どもの性格の影響が大きい(あとは、時間とか金銭の問題も、もちろん介在する)」ということです。

 

「親友」とか「友達」に関しては、多くの人が「いままで、ずっと一緒にいた」ことや「共につらい時期を乗り越えてきた」ことを理由に、「だから、自分は相手のためにできることをやるし、相手もそうしてくれるはず」だと思い込んでいます。

若い人ほど、そう思っているのではなかろうか。

 

けれど歳を重ねるにつれて、困っているときに助けてくれるか、あるいは、いざというときに突き放されないか、というのは

「もともと、その人がどんな人か」

に尽きるのではないか、と僕は考えるようになりました。

 

薄情(と言うべきなのかどうかはわからないけれど)な相手と、どんなに濃密な時間を積み上げても「本当の友達」にはなれない。

逆に、日頃はほとんど付き合いがなくても、困っているときにサポートしてくれる人がいることも、多くの人が実感しているはずです。

 

「友達は選ぶべきだ」という言葉に対して、僕は長年「友達は、こちらから選ぶようなものじゃないだろう」と反発していたのだけれど、世の中には「友達向きの人」と、そうではない人が、たぶんいるのです。

 

あの日のO君のことを、40年くらい経った今でも、僕はときどき思い出します。

今はすっかり疎遠になってしまったけれど、思い出すたびに、彼が幸せであってくれればいいな、と、願っています。

 

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

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