おれの宿痾
おれは精神の病を患っている。
精神障害者として手帳も持っている。
べつに隠す必要もないし、隠してきたわけでもない。
行政的な病名は「双極性感情障害」ということになる。わかりやすくいえば「躁鬱病」だ。
躁と鬱を繰り返す。これには二種類あって、おれは躁と鬱の落差がそれほど激しくないほうのII型である。
いきなり全財産使ってしまうようなI型とは違い、あまり躁状態(軽躁状態)を感じることもなく、だいたい毎日鬱々と生きている。
と、おれがこのような自身の病気を認識するには、ちゃんとした医師にかからなければならない。
自己診断では話にならない。
以下、いくらか病気や医療の話題をするが、診療を受けている人も、そうでない人も、なによりまず医師の診断、判断を尊重するようにお願いしたい。
おれの初診
では、おれが最初に精神科にかかったときはどうだったのか。
思い出してみる。
そのころおれは、ダイエットにのめり込んでいた。
あまり接することのない会社のビルの住人に「急に痩せれられたので重病かと思っていました」と言われるくらい痩せていた。
おれはカロリーを徹底的に制限し、そして走った。
食わずに、走って、ハイになっていた。
苦しかったのではない、ハイになっていたのだ。
幸せの中にあったといってもいい。
が、ある朝それは訪れた。
おれは身体が動かなくなった。
涙が止まらなかった。
そして、凄まじい希死念慮に押しつぶされた。
おれは限界だった。
そしておれが取った行動は、自死の実行ではなく、精神科、メンタルクリニックへの電話だった。
なぜそちらを選んだのか、おれにはわからない。
現実は厳しかった。
初診の予約となると、「一ヶ月先になります」という回答を数カ所の病院で返された。
今、考えてみればわかる。
初診には時間がかかる。
これまでの人生を振り返り、現在の症状を伝え、それがなんであるか、とりあえずの処置をする。
これは時間のかかることなのだ。
が、そのときのおれにはそんなことはわからなかった。
わからないので、今日診てもらえる医者を探して電話を続けた。
一軒のクリニックに、自分の状況を伝えると、「少々お待ち下さい」と言われた。
医師の確認を取っているらしい。
そして、その日の午後に起こしくださいということになった。
そしておれは、午後にそのクリニックを訪れた。
これまた今になって思うことだが、おれの初診は長かった。
長く時間をとってくれた。
おれはおれの希死念慮、あるいは自殺願望について語り、急激なダイエットについて語った。
医師はダイエットについて「その体重減は摂食障害のレベルにある」といった。
そして、「強迫性障害」の病名を与えられた。
詳しく説明してくれた。それはほんとうに丁寧なものだった。
その初回の診察は長かったと思う。今思えば、だ。
おれは必死だった。文字通りの必死だった。
その死を医師は真剣に取り合った、だから長かった。
たぶん、通常予約の患者さんたちを長く待たせることになったと思う。
しかし、おれはそれに救われた。それは間違いない。
おれの逼迫した状況を電話で見抜いてくれた看護師さん、必要性を見抜いてくれた医師。
なんらかの偶然の産物にすぎなかったのかもしれないが(たまたまその日、そのクリニックが休診日だということもあり得たわけだ)、ともかくおれはそれに救われた。
おれの通院
それから、一ヶ月に一回の通院が始まった。
はじめに処方されていた主な薬はトラゾドン(商品名:レスリン)という薬だった。それに、睡眠薬と抗不安薬。
診療の時間も短くなった。
おれはレスリンというSSRIでもSNRIでもない(それぞれなんであるかはお調べください)によって、心の安定を得られた。
抗不安薬も効いたのだろう。
おれは無理な(無理と思っていなかったのだが)をやめて、通常の体重に戻っていった。
ダイエット・ハイもなくなった。
おれは次第に回復していった。
おれはレスリンを愛していた。これはいい具合に効く薬だと思っていた。
が、ちょうど一年経ったころだろうか、突然、医師に「たぶんあなたは双極性障害だと思う」と告げられた。
「この診断を否定したり、拒否したりする人もいるのだけれど」。
おれはべつに否定も拒否もしなかった。
おれという人間がより正しく認識され、より正しい薬剤が処方されるのに、なにを否定することがあるだろうか。
おれはそのように言った。
そしておれは、オランザピン(商品名:ジプレキサ)を処方されるようになった。
一度、オランザピンをやめてべつの薬にしてみたが、あまりにもひどいお状況に陥ったため、処方を戻してもらった。
あの一ヶ月は本当に辛かったし、おれがいかにオランザピンに合った病気を抱えているのか痛感した。
そうだ、病名なんてものはあとからついてくる。
どんな薬が効くかによって、おれという人間の病気がついてくる。
べつに病名なんていらないのかもしれない。おれはそう思う。
抗不安剤と、睡眠薬も薬の種類を何度か変えながら、今はちょうどいいやつに固定されている。
おれの5分診療
というわけで、いったん病名が確定し、処方薬も固定されてから、おれの診療は、いわゆる「5分診療」になった。
「どうですか?」、「こんな具合です」、「じゃあ処方は今まで通りでいいですね」。
とはいえ、さすがにそれじゃあ5分も持たない。
医者はおれの精神疾患の源の大きなところは経済的状況にあることを知っているので、「仕事はどうですか?」と聞いてきたりする。
おれは会社の状況、収入の状況をあけすけに話す。なんでも、あけすけに話す。
男女関係的な話から、家族の抱える問題まで、あけすけに話す。なにも隠さない。
おれは医師に隠し事をしないことにしている。
これを、おれと医師の間に「ラポール」というやつが生まれたと言っていいのかもしれない。5分のラポールだ。
そして、おれはそれにずいぶん助けられている、と思っている。
このように話し合う医療行為にはカウンセリングというものもあるが、おれはそれを勧められたこともないので、したことはない。
おれ自身は、ともかく処方薬によってあるていどの安定を得ているので、あえてそれを希望したりもしない。
いずれにせよ、家族にも、職場の人間にも話せないことを、医者には明かすことが、話すことができるのだ。
それは一ヶ月の話、それは5分の話。それでも十分だ。
なんか待合室の患者さんが少ないときは、世間話になったりもするけれど。
話す、話さないは別として、なにか苦しいことがあたったとき、ちょっと悩んだことがあるとき、「今度の受診でこのことを話してみよう」と思えるだけで、ずいぶん楽な気持ちになれるのだ。
すべてを話せる人がいるということ
して、おれは思うのである。
薬剤の量の調整も重要なことだが、本当の本当になにもかも話せてしまう人がいるというのは、かなり生きる助けになるのではないか、ということだ。
おれは独身で、なおかつ親友といえる人間もいない。
家族、親戚関係も、父親を除いてべつに良くもなければ悪くもない。不干渉だ。
が、婚姻関係のようなパートナーがいたとして、あるいは親友といえる人間がいたとして、親密な家族がいたとして、「なにもかも」語れるだろうかという疑問が残る。
本当の「なにもかも」だ。
おれの想像では、そいつはちょっと難しいんじゃないのかな、というところだ。
当人に不満や不安を述べることはいろいろの危険をはらむし、こっちの不満をべつに話すのも自らの良心のようなものに悪影響を与えるかもしれないし、全面的な関係の悪化をひきおこすかもしれない。
というか、「家族だからこそ」話せないことってあるんじゃないのか。
で、おれはというと、最初は薬なりカウンセリングなり、なんらかの精神疾患に対する何らかの治療を求めてクリニックに行ったわけだし、自分に合う薬を見つけることもできた。
が、それ以上に、たった5分であれ、「なんでも話せる」人を得たことが、今となっては大きいな、と思う次第である。
よほどの変調がなければ、薬は今のものを多少増減するくらいでいい。
それはもうAI、機械にもできることだろう。
でも、ほかに話せないことまで告白できる人がいるということは、本当に大きい。おれはそう思う。
宗教なき世の懺悔、告解
おれは今、告白と書いた。
そこでイメージされるものは、キリスト教系の教会での懺悔だか告解というものである。
どんな罪を話そうとも、それは守秘義務によって守られる。
おれはキリスト教者ではないので実際のところは知らないが、そういうイメージをする。
おれはこういういの、かなり人間の人生に影響を、よい効果を与えてくれるものなんじゃないかと思う。
おれ自身が信頼できそうな医師というものと月に一度会話を交わすようになって、そう思うようになった。
それが、かつては神父さんだか牧師さんだかお坊さんだかだったのかもしれない。
だが、少なくともいまの日本でどれだけの人が日常的な信仰を持っているのかというと、そう多くはないだろう。
だれもが何らかの宗教の信者じゃないのだ。
キリスト教を信奉するわけじゃないのだ。
そして、同じくだれもが精神科にかかる病人でもない。
そういう人には、「すべて」を話せる人がいなくて大丈夫なのだろうか。いた方がいいんじゃないか。
と、ここで疑問が湧き上がらないでもない。
べつに信仰心というものがなくてもへいちゃらで、心を病むこととも無縁な人間だっているだろう。
が、しかし、「王様の耳はロバの耳」と打ち込める穴を必要する人もいるんじゃないかな、と。
現代医療において病人のカテゴリーに入らないとしても、より楽に生きるためのツールとして。
ツールとしての聞き手
ツール、という言い方は少し医師にとって失礼かもしれない。
とはいえ、そのくらいの距離感がいい。そのようにも思う。
感情的なつながりとかそんなものより、「診察料を払っている」という関係性が、かえって「なんでも言える」という安心感に繋がっているような気もするのだ。
ロールプレイング、というわけではないのだろうが、患者は患者、医者は医者という立場が固定されていてこそ、逆に自由が生まれるということだ。
精神医療上、それがよいことなのかどうか、一介の患者にすぎない自分にはよくわからない。
よくわからないが、患者と医師、あるいは患者とカウンセラーとか、いずれにせよ、お金による立場、関係というところに、自由な告白というものがあり得るのではないか。おれはそんなふうに考える。
そのドライな関係が、逆になんでも言える関係になる。
むろん、これはおれが社会保険に加入し、さらに自立支援医療の制度を使ったりしつつ、いくらかお金を払える立場にあるという前提ではある。
たとえば、自分がなにもかも失い、無一文でなんらかの福祉制度を受けて、医師なり行政の人間の前に立ったとき成り立つものではないだろう。
が、いずれにせよ、それほど病んでいない人にとっても、ある程度の距離感がある、それでもなんでも告白しちゃって安心な人間がいるというのは、捨てたもんじゃないかと思うのだ。
近すぎてはいけない。かといって遠くてもいけない。顔なじみ、くらいでいいのだ。
おれは最近、「最初に来たときはすぐに死ぬんじゃないかと思ってたよ」と言われた。
そう言っても平気なくらいの状況におれがある、と見てのことだろう。
先に述べた通り、それは宗教が負っていた領域かもしれない。
今でも、宗教が担っていることもあるだろう。
が、しかし、現代日本で都市生活を送る人間にとって、それはちょっと距離のある話かもしれない。
一方で、精神科、心療内科、メンタルクリニック、なんでもいいが、そういった医療にかかるにも、ちょっとしたハードルがあるだろう。
じゃあ、なにがいいんだ。どんな人に頼ればいいんだ。
はっきり言えば、おれにはわからない。
宗教というと告白、懺悔以外にもいろいろついてきてしまうから、お金の関係と割り切って医者に行った方がいいとも思うのだが、「いや、べつに心が病んでいるほどでもないしな」という人にまで勧められるかというと、そうでもないような感じもする。
それでも聞き手を探しておいて損はない
そもそも、おれが病んでいるところに、たまたまなんでも話せる医師との出会いがあっただけで、世の中の大勢の人はべつにそんな存在を必要としていないのかもしれない。それならそれでもいい。
が、まあ、なんかちょっと心に抱えてしまっている人、やはりちょっとそれは脳の病の前兆かもしれないし、そうでなくとも、なんというか、普通の人にとっても、なにもかも洗いざらい話せる人がいるというのは、いいことなんじゃねえかな、と思う。
で、その相手が、まあ自分の好きなところに行けよというところもあるが、宗教なら宗教で変なカルトに引っかかる危険性もあるし、占い師とかそういうのもいい感じになるかもしれないけど、ちょっと怖いところもあるし……となる。
となると、やはり精神科医か、資格のあるカウンセラーがいいような気もするが、「王様の耳は……」を聞く余裕なんてないし、病気でもないだろと言われるかもしれない。
でも、なんか聞いてくれる人、そういう人がいていいと思うんだよな。
それこそ、「レンタルなんにもしない人」みたいな人でもいいかもしれないが、それもどこまで信頼できるか不明だ。
もっと気軽なカウンセラーのようなもの、安全と安心のある、そんな聞き手が普通に得られること、そんなんあってもいいように思うのだが、まあちょっと具体的には見えてこない。
ただ、ちょっと重めになんか抱えている人は、とりあえず病院をあたってみてもいいかもしれないと思う。
もし、「あなたにはなんの問題もありませんよ」と言われたなら、それはそれでいいじゃないか。
おれは今月もまた医者に行くだろう。
前から思っているのだが、おれの行くクリニックは診察室のドアが薄いのか、けっこう診察の声が聞こえてくることがある。
このごろ、待合室に流れるヒーリング・ミュージックの音量が上がった。
たぶん、コロナ対策で、マスクをする医師とマスクをする患者の物理的な距離も広がり、お互い大声になっているからだろう。
小さな診療所だが、コロナ対策はちゃんとしている。
この医師にいなくなられては困る人が、きっとおれ以外にもたくさんいる。
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【著者プロフィール】
著者名:黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
Twitter:黄金頭
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