研究者と聞いて一般的にイメージするのはバック・トゥ・ザ・フューチャーに出てくる博士のような存在だろう。

社会性がなく、1人の天才が世間を気にせずに黙々と自分の研究に没頭し、世の中には存在しないウルトラ・メカを生み出す。

 

このような生き方に憧れる人は多いだろうし、こういう生活がやりたくて研究者を目指している人もいるかもしれない。

しかし残念ながら…この研究者像は幻である。というか実際の研究者はこれの真逆だといってもいいかもしれない。

 

研究者は社会性の塊のような生き方ができないと生き残れない

上に書いた事は僕の穿った意見ではない。

”研究者としてうまくやっていくには 組織の力を研究に活かす”という本を読めば、研究職をやっていくには社会性が無ければ駄目だという事がよくわかる。

 

この本の筆者である長谷川修司さんは東大の教授だが、この本に書かれている事を一言で要約すれば「研究者って…社会性が無いとやってけないよね」である。

 

「他人の目を気にせず好きなことに熱中しろ」だとか「己の才能を極限まで磨き上げろ」というような熱い展開はこの本にはほぼ出てこない。むしろ

「研究は様々な人達とホウ・レン・ソウを徹底し、一丸となって推し進よう」

という…社会の一員として組織の中でどう動けばうまくやっていけるのかという事が延々と繰り返されている。

 

この本は本当に社会性の話ばかりが延々と続く。

「研究者に求められている社会性って、そんじょそこらの会社員なんかよりよっぽど高度なのでは?」と思わさる事必死である。

残念だが…マッド・サイエンティストのような存在はフィクションなのだ。

 

研究職はある意味では高度な伝統芸能である

この本を「マッド・サイエンティスト教本」的な物を求めて読んだ人は失望の渦に包まれるだろう。

「面倒くさい人間関係に煩わされるのが嫌で、学問に熱中できる研究職というものに憧れていたのに…」という人は、研究者がジメジメとした閉鎖空間内における濃密な人間関係の上に成立する職種であるという現実はかなりショッキングだ。

 

実は僕は昨年から研究業に従事しているのだが、研究の世界はとんでもなくウエットだと日々実感する。

普通の社会人以上に師弟関係が濃密で、一言でいうと職人の世界である。

 

最初の頃、僕はこの文化が全く肌に合わず、また合理性が見いだせずにとても苦しかった。

だが、そうこうしているうちにこのドメドメした人間関係にもある種の意味があるという事に気がついてきた。

端的に言うと研究職が社会性を妙に内包しているのは、学術機関に求められる機能がそれだからだ。

 

知性にある種の立場が求められるのならば、大学や研究機関も自然とそれに従う

現代の教育・研究機関に求められているのは成果というよりも立ち振舞い方である。

 

例えば、あなたの子供が高校や大学に通ったとして、そこで頭が良くなったとしよう。

それでもって家庭に何らかの破滅的な影響が及ぶのだとしたら…誰も教育機関になど通わせようとなどしないに違いない。

 

多くの人は教育機関に対し、社会性とか大人らしさのようなものを得て欲しいと願っている。

少なくとも知性を得た結果、反社会性や家族内革命のようなものがもたらされる事を願っている人はいまい。

 

学校で友達を作ってワイワイ楽しんだりだとか、知る事を通じて世の中に敬意をはらうだとか、そういう社会性に対する需要の方がイノベーションなんかよりもよっぽど高い。

利用者がそれを求めているのなら…当たり前だけどその手の機関も自然とそういうものへと収まる。

 

研究者が大学や企業、あるいは研究所に所属して僕が伝統芸能ともいえるような社会性を徹底して守っているのは、世の中が知性持つものに対してある種の”おとなしさ”のようなものを求め続けているからだ。

そこに属するものが社会性を徹底して規範とする限りにおいて、そこで学ぶものもまた社会性が間接的にインストールされてゆく。

 

現代の大企業はある意味では大学の地続きをやっている

そしてこの”おとなしさ”は教育機関にとどまらず、そこから連続する行き先にもそのまま波及していく。

大企業や研究機関は、その最たるものだろう。

「なぜ大企業ではイノベーションが産まれないのか?」という議題が定期的にあがるが、僕から言わせれば”おとなしさ”の源である社会性をそこまで浸透させておいてイノベーションを望むだなんて、まるでアクセルを踏みながらブレーキを踏むようなものだ。

 

例え話をしよう。もし中学校や高校に通い知恵を身に着けた子供が、そこで学んだ事を使って家族を「イノベーション」したとしよう。

仮にそれでもって家族の生産性が大きく向上し、結果として子供の発言権が大きく向上したとしたら…果たして家長である父や母はわが子を元のように可愛がれるだろうか?

 

こうしてみれば分かる通り、いわゆる成果のようなものは統治との相性が極めて悪い。

この家族をイノベーションした子供がとてつもない人たらしだったとしたら、家族関係を良好に保ちつつ家庭を上手に向上させる事もできるかもしれないが、まあまず無理であろう。

 

大企業でイノベーションが産まれないのはそれが必要とされていないからだ。

家族関係にイノベーションなどいらず淡々とした安定が求められているのと同じく、大企業に求められている事も規範の保たれた社会である。

こう書くといかにも会社が息苦しく思えるかもしれないが、大企業というハコは革新性のようなものは生み出さない代わりに数多の役割や立場を生み出す事に成功している。

 

父親や母親という役割が子供という存在により生み出されるのと同じく、大企業は存在し社会性を発揮しつづ限りにおいて、ヒトに何らかの役職を与える。

それが社会に与える利潤は決して馬鹿にできるようなものではない。

単に小賢しいだけの子供に家族が運営できないのと同じく、半端な生産性の向上やイノベーションよりかは明らかに功利性はある。

 

このように世の中には革新やイノベーションというものが基本的にはあまり必要ない、いやむしろ取り入れたら面倒くさい事になるという領域が確かにあるのである。

 

芸とは生きにくさがなければ産まれないもの

なんだか随分と生きにくそうな話が続いてしまった。これを読んでドンヨリとしてしまった人には申し訳なく思う。

では最後にこれらが生み出す社会性という言いようのない苦しさをなぜ人がわざわざ生み出すのかについて書いて文を〆よう。

 

「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」

 

これは有名な夏目漱石の草枕の一節だが、この後に続く文をご存知だろうか?

 

「住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生れて、絵ができる」

 

改めてこう言われるとハッとさせられるものがないだろうか?

どこにいっても人の世の窮屈さから逃れられないと悟った時、芸術が産まれるのだと夏目漱石は看過しているのである。

逆にいうとだ。人は心地よくなってしまったら満たされてしまい芸術など決して生み出せないのである。

 

家の閉塞感が嫌だから…人は家族から自立する。

大企業の硬直化した環境に辟易して…人はベンチャー企業を立ち上げる。

そして大学での社会性の乱に気が狂いそうになって…人は論文を書くのである。

 

居心地の悪さというものも、ある種の成功の母的な何かなのだろう。

そしてそれらが止まずに生み出され続けるのは、たぶんそれが無いと人は駆り立てられないからである。

 

実のところ自由は人を駄目にする。

子供にしろ大人にしろ、暇など与えられただけでは多くの人はただただノンビリとして無益に時間を使い潰すだけである。

 

それに対して、窮屈さ人を苦しめる。

その息苦しさは大きく人を傷つける。

だがその代わりに…人を何かへと追い立てる効用もある。

 

社会性の生み出す窮屈さとは、人を焚き付けて何かへと駆り立てる為の原動力なのであろう。

 

 

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【著者プロフィール】

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高須賀

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noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

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