今日は、精神科の日常的な活動のなかで出会い、考えさせられた出来事について書いてみたいと思う。

 

これは、けっして発達障害の専門的な話ではない。

ただ、発達障害と指し示される人々、ひいては人間全般についてこういう考え方のアングルもある、ということを示すには一例にはなっていると思う。

 

ASD(自閉スペクトラム症)の「生きづらさ」とは?

先日、ある精神医療関係のカンファレンスの席で、ベテランの人が4月に入ったばかりのルーキーに、こう問いかける場面があった。

 

「○○さん、あなたは、ASDの生きづらさとしてどんなものを連想しますか?」

 

ASDとは自閉スペクトラム症のことで、古典的な自閉症や、アスペルガー症候群とも呼ばれる高機能自閉症、広汎性発達障害などをひっくるめた疾患概念だ。

コミュニケーションの難しさがよく知られるが、感覚過敏や特別なこだわりなども徐々に知られるようになってきている。

他の精神疾患を合併する確率の高さ、育てるにあたっての難しさを云々されることも多い。

 

で、問いかけられたルーキーは迷いに迷っていた。

なにしろ、問われたのは「生きづらさ」、なのである。

 

ASDの診断基準の暗記暗唱なら、まだわかりやすい。しかし生きづらさとなると一筋縄ではない。

難問だ、と私は思ったし、ルーキーも答えあぐねていた。

 

このとき、ベテランの人がASDの生きづらさとして「ひとごとにまとめると宇宙人的なもの」と述べた。

人間集団のなかに一人だけ宇宙人がいて、メッセージを伝えることも、シンパシーを持つことも難しい、そのぽつねんとして心細いさまを宇宙人的とたとえたわけだ。

それはASDの生きづらさをある面ではよく言い表しているよう、私には思えた。

けれどもルーキーへのメッセージとして、私はそれだけでは良くないような気がして、挙手し、私の意見を差し挟んだ。

 

「ASDの生きづらさとして、宇宙人的、というのはよくわかる比喩ですが、そのわかりあえなさ、心細さは他の発達障害や精神疾患にもありそうですし、宇宙人、というたとえはあまりに遠い存在みたいにも聴こえてしまいます。わかりあえることだって、あるわけですし。」

 

この付け足しをベテランの人も喜んでくれ、両方のメッセージがカンファレンスで共有されることになった。

 

発達障害、遠いか? 近いか?

ASDに限らず、発達障害は、いや精神疾患全般もそうかもしれないが、正常や定型発達から違っているもの、といった見方をされることが多い。

 

違いを認識するのも大切ではある。なぜなら違いを認識することで診断が可能になり、ハンディキャップと証明し、支援や配慮が必要だと公に言えるようになるからだ。

また、違いをとおして、マジョリティのなかで埋もれている当人の生きづらさを発見できる……そういう部分もあるだろう。

 

しかし違いが全てかといったら、そうでもない。

第一に、ASDをはじめとする発達障害の人も、同じ人間だ。他の精神疾患にかかっている人々もそうである。

 

そして特に発達障害の場合は、スペクトラムという考え方が今日では重視されている──つまり、ASDにせよADHD(注意欠如多動症)にせよ、隅から隅まで診断基準に当てはまる完全典型例と、まったく診断基準に当てはまらない完全定型発達とでもいうべき人を両極端として、実際にはグラデーション状のものと理解されているし、当然ながら、中途半端に診断基準に当てはまっている人、ASD未満とか、いくらかADHD的とかいった表現が似合うような人だって存在している。

 

この考え方に基づくなら、完全に診断基準に当てはまる人より、ぎりぎり診断基準に当てはまる人のほうが多く、中途半端に診断基準に当てはまるぐらいで診断していいのか迷うような人はもっと多いことになるし、実際、臨床場面と世の中をみるにそのようになっている。

 

でもって、発達障害の人の生きづらさのある面は、宇宙人的というより、やはり人間的だ。

承認欲求や所属欲求、ナルシシズムといった社会的欲求は、たとえばASDの人にもしばしば認められる。

 

もちろん、ASDの人のなかにはそうした社会的欲求の発露を見出すのが難しいか、ひょっとしたらほとんどみられない人もいるにはいる。

けれどもそれよりずっと多くの人が、認められたいとか、友達や知己を持ちたいとか、プライドや自尊心を形作れる場所やチャンスを持ちたいと願っている──その気持ちのあらわれ方が若干変わっているとしてもだ。

そしてASDの人だって、冷遇されたりいじめられたりしていると気づけば傷つくし、虐待されれば心には爪痕が残る。

 

ASDの人のコミュニケーションの方法や特性が違っているのはそうだとしても、そのコミュニケーションの難しさの向こう側にいるのは、同じく心を持った人間なのだ。

ASDを宇宙人的と比喩する、少なくとも比喩するだけでは、その当たり前のことが過小評価されてしまうよう、私には思えてならない。

 

私にとって発達障害の人は、少なくとも宇宙人ではなく、症例やクライアントでもなく、しばしば隣人だったり友人だったりするものでもある。

私が思春期に出会い、過ごした仲間のなかには、ASDやADHDに相当する人がたくさんいる。先輩や後輩にも相当する人がいたかもしれない。でもって、私自身もある程度まではADHD的である。

そんな同輩たちを宇宙人と呼ぶことも可能だが、その際の宇宙人とは、コミュニケーションの断絶した孤独な存在としての宇宙人ではなく、『スターウォーズ』の宇宙港の酒場で時間を共有する宇宙人や、共和国議会を共有する宇宙人だ。そうであって欲しい。

 

今でも私の交友関係には、発達障害の人、さまざまな偽装や擬態を駆使して社会に溶け込んでいるけれども胸襟を開けば発達障害的エピソードがどしどし出てくる同輩がたくさんいる。

みんな癖があり、コミュニケーションに失敗することも、仲違いしてしまうこともある。

それでも彼らは絶対的に遠い存在ではなく、興味や利害やエモーションを共有できる限りにおいて、時間や空間を共有できる程度には近しい人々だった。

 

もちろん、そうした共有がもっと困難な発達障害の人だっていることは知っているし、そういう人ほど精神医療の現場に析出しやすい、という問題はあるだろう。

けれども精神医療の現場に析出する発達障害の人のうちにも、定型発達の人とさして変わらない感情や喜びや苛立ちをみる場面はたくさんある。

 

そういう、発達障害とそうでない人の共通性をみる視線も、私は発達障害理解には不可欠のパーツだと思っている。

確かにコミュニケーションの様式は違っていて、わかりにくいとしても、彼らの多くもエモーションを共有できれば嬉しいし、邪険にされたと感じれば嫌な気持ちになる。

 

だから、案外少なくない部分で、生きづらさは共通していたりもする。

違いを認識しつつも、共通点は共通点として認識し、それを生かせる余地はあるはずだ。

 

わかりあえないのは、発達障害と定型発達の間だけなのか

それともうひとつ。

私は、わかりあえない・わかりあいにくいから発達障害……という見方にはあんまり与したくない。

 

もちろん、発達障害、とりわけASDの人がコミュニケーションに独特の障害を持ちがちなのは承知しているし、それゆえわかりあいにくく、理解しあいにくく、繋がりにくい、といったことはあるだろう。

そうした難しさはASDの人とそうでない人を繋ぎにくいだけでなく、ASDの人同士の連帯さえ難しくしているかもしれない。

 

じゃあ、定型発達といわれる人同士なら理解しあえていますか、コミュニケーションできていますかといった時、どうだろう。

定型発達に該当しそうな皆さーん、ねえ、どうなんですかー?

 

私のみたところ、定型発達といわれる人々だって、たいがい、わかりあっていないし、近づきあっていないし、ときにはお得意のコミュニケーションをもって互いに威嚇しあい、遠ざけ合ってさえいる。

それはSNSを見ていても明らかだし、派閥争いや手の込んだいじめなどを見ていても明らかだ。

 

そしてもっと根源的な話をするなら、同じ言葉、同じ時間を共有する者同士でさえ、どこまでわかりあっていて、どこまで思考や感情を共有しているのか、逆に、どこまでが誤解や呉越同舟で成り立っているのか、本当のところは誰にもわからないのだ。

 

わかりあいたいのに、わかりあえない。

わかりあいたくないから、わかりあわない。

 

こうしたことは発達障害の該当する人に特徴的なわけでなく、言葉やジェスチャーでわかりあおうとし、あるいはお互いを退けあおうとする人間全般にみられるものでもある。

発達障害においてコミュニケーションの困難が目立つのはそうだとしても、世の中全般にそうしたコミュニケーションの困難があり、すれ違いがあり、確執がある。

 

コミュニケーションの問題は、そういう意味では発達障害の人も定型発達の人も双方が抱えるものだ。

そして私たちは人間同士である。人間同士だから、社会的欲求も含めて多くのものを共有してもいる。

 

発達障害は、どこまで遠く、どこまで近いだろうか?

その遠近は、文脈や論じる方向性によってさまざまだろうが、私は、遠さだけでなく、近さもちゃんと感じておきたい。

 

そして発達障害かどうかにかかわらず、人と人がときにわかりあえず、わかりあおうとすらしない性質についても視野の片隅に入れておきたい。

そうしなければ、人間理解を(そして発達障害理解をも)大きく見誤ってしまうように思えるからだ。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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Photo by Katie Rainbow