楽しい記事、書きますよ
おれはこちらに鬱々とした自虐記事ばかり書いていている。
医師でもなければ優秀なビジネスパーソンでもないので、手帳持ちの精神障害者、赤字零細企業勤めというところで差をつけるしかない。
人間精神の根幹であるとか、ビジネスのサクセスをリードする記事など書けるわけがない。
しかしながら、そんな鬱々とした記事ばかり書いていては、内容はマンネリになるし、なによりおれ自身へのダメージが溜まっていく。
自虐、自らを虐げる、虐げられたらあまりいい気持ちはしない。たまにはいい気持ちになりたい。いい気持ち……。
というわけで、「今度は楽しい記事を書きますよ」みたいなことを言った。
楽しい記事だって書けるだろう。なにか、面白くて、笑えるような話を。だって、おれはブログで十年も二十年もそんなことを書いてきたはずだ。うん、楽な話だ。
……が、これが楽ではなかった。
いや、過去形ではない、楽ではない。というか、書けない。楽しいってなんだ? 面白いってなんだ? (以下、楽しいと面白いが混交します)
これが、わからない。おれは、自分のブログで、たしか書いてきたはずだ。少し人を楽しませる、笑わせることのできる文章を。
面白いテキストを書くライターなんて高尚なもんじゃあない。
ただ、ちょっとは人を楽しませてきたはずだ。笑わせてきたはずだ。なにかこう、ちょっとひねって、混ぜっ返して、適当なリズムに乗せて……。
これが、わからん。
気づいたら失われているもの
ああ、これはもう、おれの精神や好奇心が摩耗して、失われているのだな、と思った。
今のおれにはどうも、楽しいこと、面白いことを書く能力がなくなってしまったのだ。
「え、昔は書く能力があったと思っているの?」とか言われるときつい。きついけれど、あくまでおれのなかでのおれのジャッジだ。
昔は、もっと融通無碍に、自由自在に、言葉の海を泳いで、突飛のない言葉を配して、それなりに、なんとなくうまいことやれていたはずなんだ。
それがどうだろうか。「なんか楽しいこと」が書けない。面白い文章が書けるようには思えない。あ、失われてる。ロストした。そういう思いがある。
これってなに? 端的に言えば、老い? たぶん、そうなのだろう。
感受性も日に日に衰えていくし、表現力も日に日に衰えていく。衰えの先にあるのは消失だ。
失ってみて、初めて気づく「かつて自分が持っていたかもしれない可能性」。つらいよな。
とはいえ、三十五歳くらいのおれは三十歳くらいのおれが書いていた文章を読み返して「あのころは文章がうまかった」と思っていたし、三十歳のおれは二十五歳くらいの自分の文章を読んで「みずみずしく、勢いがあった」と思っていた。
それは事実だ。
さよならだけが人生だ。花に嵐なんて風雅な話はなく、たんに能力が減っていく。
それが人間の能力というものだ。
人間の能力の減衰
して、これは、「楽しい文章が書ける」とかいう曖昧でどうにも評価しがたい分野だけの話だろうか。
多分、違うだろうな。もっと実益に結びつくクリエイティブな才能とか、即断即決が求められる実業家としての瞬発力とかもそうじゃないのかな。
……すみません、知らないことについて語ろうとしていました。そんな高等な分野、おれには想像もつかない。
だから、おれにはわからない。ただ、肉体が衰えていくのと同じく(ジムに通って筋力と体力を維持しているという意識の高い人もいるだろうが)、脳が関わるある分野についても、老いというものがつきまとってくるには違いない。
……うーん、すみません、やはり知らないことについて語ろうとしていました。
ジムに通って筋力を維持するように、感受性だとか、感性だとか、表現力をガチガチに維持できている人たちもたくさんいるように思える。というか、天才というものは、ジムなどに通わなくても、生涯ある分野についての才能が老いることないに違いない。そういうものを天賦の才能というのだろう。
おれという生まれつきの浅学菲才なものについていえば、年齢の衰え、身体の衰えに従って、面白いものが書けなくなったな、という実感を味わったという話、それだけだ。
以前は面白いものを書いていたかどうかというのは問いつめないでほしい。
おれも面白いことを言える人生だった
しかしなんだろうな、面白いことを話す、人を楽しませる、そういう質(たち)の人間であったとは思う。
小さいころからそうで、親から「あなたは口から生まれてきた」、「将来はヨシモトだ」とか言われていた。
その当時は、「ヨシモト」が今ほど一般的な言葉ではなく(少なくとも関東圏では)、おれは父親が本棚二つぶん集めている「吉本隆明」と関係あるのかな? とか思っていた。
べつに、おれが陽キャであったというつもりではない。だが、できれば面白いことを言いたい、人を笑わせたいという意識はあった。
これはなにか根源的なもので、なにがきっかけでとかいう話はない。もとからそうだったとしか言いようがない。
それがどうして鬱々としたことを陰惨に書き連ねる怨念の塊になってしまったのか?
人生がそう流れたからだとしか言いようがない。それでも、二十年前(適当です)にブログを書き始めたころは、やはり人を笑わせたいと思ったし、面白いことを書こうと思っていたと思う。そして、そのようにしてきたような気がする。たぶん。
とはいえ、今でもおれは楽しく、面白いことを話したいと思う。そして、話している。
好きな人と通話しているときなど、とにかく笑ってほしくてしかたない。
もう、面白いことが言えないと無言になってしまうくらいだ。
が、その笑わせ方というのも、最近はかなり衰えていると感じる。
なんというか、下ネタばかり言ってるな、と思うこともある。ここではとてもじゃないが書けないような、自分のブログにも書かないようなことを、話す。そしておれはエッチな下ネタが大好きなのだけれど、まあそれはあまり関係がない。
いずれにせよ、気心知れた人間(この世に三人いるかいないかだが)との会話ですらその調子だ。
かつておれのブログを好んで読んでくれた人も、すっかりあきれてしまっているに違いない。
突然ショートコント
「わたしマニーマウス。大好きよ、マッキー」
アパートの玄関に立つマニーマウスはそういった。ヤニのにおいが染み込んだ薄汚い茶髪、金色のラインが入ったドンキのジャージ、底のすり減ったクロックスのパチもん。そしてなぜか右手にトカレフ。
「まあ、ゆっくり話そうじゃないか……、落ち着いてマニー。まずはその銃を置こう、ね?」
おれはできるだけ落ち着いた声でそういった。
「うそ、マッキーはそんな声で喋らない」
マニーマウスはトカレフの銃口をおれの眉間に向ける。落ち着け、おれ。マッキーはどんな声で喋るんだ? そもそもネズミは喋るのか? くそったれネズミ! ネズミが人間の言葉を喋るんじゃあない!
「ぼ、ぼくはマッキーだよ! ぼくは、銃は、こわいから、きらいだよ! ピギィ! マギィ! ハハッ」
甲高い奇声をあげるおれ。マニーマウスの目はじっとりとおれを見ている。おれは冷や汗を流す。ながい一瞬が過ぎる。
ミニーマウスはゆっくりと銃を足元に置く。
「あなた、やっぱりマッキー。マッキーなのね。入っていい?」
とマニー。
「ようこそマニー! 大歓迎さ、ハハッ」
また奇声をあげるおれ。
部屋に入ってきたマニーマウスはテレビを勝手につけると、千鳥の深夜番組を見た。それが終わると「じゃあ帰る」といってドアから出ていった。ずったらずったらクロックスもどきを引きずって歩いて去った。外からは明け方の気配がした。
おれはずいぶん疲れた。座り込んで玄関には一丁のトカレフ。おれはおれの頭を撃ち抜こうかと思う。朝刊を配達するスーパーカブのエンジン音が聞こえた。
おれに小説は書けるのか
おれは今年のはじめ、「今年は小説を書く」と宣言した。
何人かの人には期待の言葉をかけられた。対面で言ってくれた人もいた。
おれはのりのりだった。のりのりで宣言して、のりのりで書くつもりでいた。
ところが、書けやしねえ。
「まずは地元の新聞の文芸賞に応募だ」とか思っていた。が、「とりあえず忙しい年度末は無理だな」となって、さて少し仕事の余裕が出てきても、脳みそからはなんにも出てこない。あれ、おれ、人から読まれて、ど下手くそで話にならなくても、とりあえず小説というものを書けるような気がしていた。それすら勘違いだったのか。
小説家になるんじゃないのか。そんなことは、インターネットができる前から言われていた。家族に、親族に、友人に。できた後も、そう書いてくれる人がいた。
おれも、その気になっていた。気づいたら、中年もいいところだ。ピギィ。
かつてのおれならば書けたのだろうか。よくわからない。よくわからないが、書いていない時点で、書けないということなのだ。それはわかる。
書こうと心の中で思ったなら、その時点で書き終わってなきゃあいけない。「小説を書きます」ではなく、「小説を書きました」でなくてはならない。その時点で、おれは資格を失っていたんだ、兄貴。いや、資格なんてものはない。ただ、その才能も意欲もなかったんだ。それだけだ。
いや、それでも、それはやってくるものかもしれない。それを信じつづけるのも、惨めな人生の少しのなぐさみにはなるだろう。
それをしなかったことについての苦い後悔も、本当に勝負して負かされた大きな挫折に比べたらいくらかマシなことかもしれない。甘いぶどうに越したことはないが、酸っぱいぶどうも悪くはない。
とはいえ、これから見つけるかもしれないのだ
と、ここまでおれの悲惨について書いてきた。またもや明るくない話になってしまった。……が、おれはこれを書いている途中に井上尚弥対ノニト・ドネアのリマッチを見た。
ボクシングを見て、井上尚弥の圧勝を見て、おれのテンションは跳ね上がった。双極性障害の人間にはそういうところがある、といえばそれまでだが。
というわけで、おれはまだ「小説をつかまえる」ときが来るんじゃないかと思うことにする。
「小説をつかまえる」とは、現代最高の小説家の一人である高橋源一郎が『一億三千万人のための小説教室』で書いていた表現だ。
もう日本の人口は一億二千万人台だから、ちょっと古い本だ。それでも、おれはちょっと古い本に書かれていたことをしつこく覚えている。ジュール・ルナールが『にんじん』をテーブルの下で見つけて、つかまえたことを。
おれにも、おれなりに小説をつかまえられるときが来るかもしれない。来ないかもしれない。いずれにせよ、できなかったと判断するよりは、見苦しくもいくらかの前向きさがある。
おれにはおれだけの見方でこの世界を見て、おれの言葉でそれを書きあらわすことができるかもしれない。そう思うだけで、いくらかこの世はましに見えてくるところがある。
これは小説や文章に限った話でもないだろう。
もうロストしたと思ったことに、人生の経験を得てあらたに注ぎ込まれることがあるかもしれない。あるいはぜんぜん別の器に注ぎ込まれるかもしれない。人生の経験とは老いというものかもしれない。べつにそれでも、いいじゃないか。たぶん。
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【著者プロフィール】
著者名:黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
Twitter:黄金頭
Photo by Alejandro Escamilla