これから最近ハマっている瞑想について相当に深く突っ込んで書いていく。
スピリチュアルさや超越体験、宗教色はほぼ皆無なので、そういうのが嫌いな人こそむしろ楽しめるかと思う。
瞑想に興味を持ったのはランナー&僧侶の人が書いた本を読んだ事がキッカケだ。この本が良くも悪くも僕の瞑想に対するイメージをぶっ壊した。
その本「限界を乗り超える最強の心身 チベット高僧が教える瞑想とランニング」はランニングを瞑想的な観点で眺め、瞑想で得られる効用をランニングという視点から、より一般化させて紹介するというものだ。
走ると何故か妙にスッキリする
「ランニングに瞑想的な要素がある」というのは前々から思ってはいた。
肉体・精神的に疲弊しきっていても走ると身も心もスッキリし、辛くて仕方がなかった現実を何故か「まあ、なるようにしかならないな」と処理できた事が何度かあり
「たぶん瞑想で得られる効用ってこれなんだろうな。じゃあランニングをやれば瞑想はやんなくても大丈夫だろう。大は小を兼ねるっていうし」
だが、先の本の著者であるサキョン・ミパムは冒頭から僕のこの誤った思考を破壊する。
「ランニングと瞑想は全く別のものです」
この一文を読んで、僕はビックリした。続いて彼はこう説明する。
「よくランニングは瞑想だという人がいますが、これは間違いです。言葉を逆にして、瞑想はランニングだといえるかどうかを考えれば誰でもわかるでしょう」
「ランニングはランニングで、瞑想は瞑想です。ランニングは身を、瞑想は心を鍛えます。通じている部分があるのは事実ではありますが、両者はまったく別のものです」
というわけで瞑想をやってみた
瞑想はランニングだとは言えない。言われてみれば確かにその通りだ。
私事になるが去年、僕は人生でも相当な修羅場を経験した。
その修羅場をくぐり抜けるのにランニングが物凄く役立ったのだが「それならランニングに加えて瞑想もやれば…身も心もタフになれて、人間として物凄く強くなれるのではないか?」とふと思いついた。
というわけで数ヶ月ほど真面目に取り組んでみたのだが、結論からいうと瞑想は物凄く面白く役立つアクティビティであり、この厳しい社会を生き抜くために強くならなくてはならない人にたいへん役立つツールであると確信を持っていえるようになった。
前置きが長くなったが、ここから実際の瞑想について実践的に書いていこう。
ここまでわかりやすく・踏み込んで書いた情報はそうないと思う。
瞑想といっても色々ある
一口に瞑想と言っても、実はいろいろな流儀がある。
例えば国産のものなら禅(座禅)がそれにあたる。
もうちょっと俗世化したものだと昨今流行りのマインドフルネスもその一部である。
ユルいものから激しいものまで、瞑想は本当に色々ある。
故に瞑想を語るにあたっては、どの瞑想について語るのかが大切だ。
その中から僕が選んだのは、ヴィパッサナー瞑想というものだ。
これを選んだのは先のランニング瞑想本に出てきたからというのに加えて、サピエンス全史を書いたハラリが行っている瞑想でもあるからだ。
<参考 21Lesson>
スピリチュアルと瞑想は全然別のもの
「ハラリがやってるモノなら、本を読んだ感じだと変にスピリチュアルに傾倒しているわけでもなさそうだし、ひとまずは安心だろう」
そう考え実際にやってみたのだが、少なくともヴィパッサナー瞑想とスピリチュアルは完全に真逆といっても過言でない性質ものだった。
スピリチュアルは僕のイメージではあるが、第六感やこの世の真理に目覚めるというような脳をドライブさせてこの世を超越する事を目的としたものだ。
もうちょっと踏み込んでいえば、脱現実を主眼としたものであり、どちらかというと現実に対する否定のニュアンスを僕は感じる。
それにに対し、ヴィパッサナー瞑想は徹底して現実だけを取り扱う。むしろ現実以外を徹底して否定する。
デカルトは知能でもってこの世の全てを否定して否定して…「けどそう考える自分だけは存在を否定できない」という結論に至り「我思う故に我あり」という真理にたどり着いたが、ヴィパッサナー瞑想はそれを頭脳レベルではなく肉体レベルでやる。
これが瞑想における最重要ポイントだ。
人間は自分自身の心を全くコントロールできてはいない
具体的に書こう。ヴィパッサナー瞑想では、安楽座という身体があまり傷まない座り方をして、目を閉じて徹底して一時間ほど自分を観察する。
初段階であるサマタ瞑想という段階では、とにかく鼻呼吸だけを徹底して観察する。淡々と鼻の周りを空気が通り抜ける様に着目し続け、そこに心を集中させる。
「余計な事を一切せずに、ただ呼吸が行われるのを観察する」
「すると落ち着いていたはずの心が、雑念となってどこかに漂い始める事を感じる」
「その事に気がついたら、心が雑念に囚われていたなという事実を淡々と認め、また鼻の周りに意識を落ち着ける」
サマタ瞑想では、ただひたすらにこれだけを徹底する。
この事を通じて何が学べるのかというと、実は私達は思っている以上に自分自身の心をコントロールできてはいないという事実である。
21Lessonの中でハラリは「私は自分で自分を完璧に制御下に置けているつもりでいたが、あまりにも心がフラフラとそこいらを彷徨いだす様を何度も見させられて、実は自分は自分を全くコントロールできていないのだと知り、愕然させられた」と書いている。
実際にサマタ瞑想をやると、心というものが実に不安定でうわついたものだというのがわかる。
やりはじめの頃はマジで1分も集中できない。「うわっ。こんなにも自分ってうわっついているんだ」と驚くこと間違いなしである。
「こんなにも心を付き従えて扱えていないのだから、そりゃ精神が不安定になったり、突然辛くなって涙が溢れてきて止まらなくなったりする人がいてもおかしくはないわ…」
そうして自分の心がいかに弱いものなのかをサマタ瞑想を通じて知り、自分自身の弱さを正しく向き合ってキチンと受け入れる。
瞑想を始めるにあたって、まずこの弱さをキチンと受け入れる事が極めて肝心だ。
未熟で足りない自分自身の姿を真正面から捉えられるからこそ、人は己の足りない部分をキチンと捉えて、強くなれるのである。
サマタ瞑想がある程度できるようになったら、ヴィパッサナー瞑想をやる
こうしてサマタ瞑想の訓練をある程度やり、自分自身の弱さを知り、心をある程度落ち着ける事ができるようになったら、次に第二段階であるヴィパッサナー瞑想に進んでいく。
サマタ瞑想がとにかく呼吸だけに集中し、心を一つの場所に置き続ける事を目的としたものなのに対し、ヴィパッサナー瞑想は「自分の心がどのように生まれるのか」を徹底して観察するものだ。
私たちは自分自身が魂というものによって構成されているという幻想を持っているが、ヴィパッサナー瞑想はそれを徹底した観察を通じて脱構築する。
なぜそんな事をするかというと、それによりブッダがたどり着いた無常・無我・苦という究極の真理を誰もが身をもって知る事が可能となるからだが、これについては長くなるので後でキチンと書くとして、まずは具体的にヴィパッサナー瞑想のやり方を書いていこう。
ヴィパッサナー瞑想ではまずサマタ瞑想の時に鼻と上唇の間に置いていた意識を、頭の上や首、肩と全身をスキャンするように次々と移してゆき、全身に自分の意識を通せるようにする。
部位によっては意識が通しにくく感じる場所もあるが、それでもめげずに試行錯誤を続けていくと、全身を感じられるようになる。
こうして全身に意識を通せるようになったら、今度は全ての部位に意識を通して、同時進行でもって全身で全ての感覚を感じ続けてゆく。
自分自身に生じる感覚を、ただひたすら徹底して観察し続ける。これがヴィパッサナー瞑想だ。
雑念のようなフワッとした感覚ではなく、己という存在が五感を通じてゼロからコンコンと生まれる瞬間を、ただ徹底して静かに静かに観察する。
無からビッグバンを経て宇宙が産まれたように、己という存在も無から感覚を通じてヒュンと産まれる。
こうして何となく勝手に産まれてきて、そこそこ自由に取り扱える自分という意識が、いったいどのように誕生するのかをキチンと”理解”する事で、私たちはようやく自分自身の本当の姿を知る事ができるようになる。
ヴィパッサナー瞑想の目的は真理にたどり着くこと
「なんでこんなつまらなそうな事すんの?」
瞑想に対する最も率直な意見はこれだろう。
自分自身も「座ってただ呼吸し続けるだけとか、瞑想って退屈そうだし、やってるやつ頭おかしいんじゃね?」とずっと思っていた。
上の考えは完全に誤解なのだが、それが誤解である事を説明する前に瞑想の目的をまずは明確化させる必要がある。
実は瞑想の目的は物凄くソリッドだ。ヴィパッサナー瞑想は元々はブッダが得た悟りの道に至るためのメソッドだと言われているのだが、このブッダの悟りというのは本当に徹底して全くブレない。解釈の違いも絶対に認めないし、別の真理の存在すら認めない。
世の中には絶対的な正解はないというのが大体のモノに適応されるルールだと自分は思うのだけど、ことヴィパッサナー瞑想に限っていえば瞑想の目的も正解も一切ブレない。
つまり瞑想には唯一無二の正解があるのだ。そこにたどり着く為に、実践者は座るのである。
さて、そのような解釈の余地すら産まないハチャメチャにソリッドな行いである瞑想の目的を端的に言ってしまおう。
瞑想の目的…それは真理にたどり着くことだ。そしてその真理というのはブッダが見出したと言われている3つの真理に集約される。無常、無我、苦だ。
そもそも、なんでブッダは悟ろうと思ったのか
そもそもブッダが王宮を抜け出して修行の道にとびこんだのは、ブッダが苦しくて苦しくて仕方がなくて、その苦しみからどうにかして抜け出したかったからだ。
「なんでこんなにも満たされた生活をおくっているはずなのに、自分の心はこんなにも辛くて苦しいのだろう?」
これは私達においても全く同じであろう。胸に手を当てて思い返して欲しいのだが、私達は特段理由もなく辛くなったり苦しくなったりする。
もちろん快適で気分がよい事もあるが、そういう時があるという事はそうじゃない時もあるという事だ。
気分が悪いのも、気分がいいのも、理由を説明できる時もあれば全く説明できない時もある。
ブッダはそもそも何で人間の心がこんな性質を持っているのかを徹底して脱構築し、そして一つの真理にたどり着く。
それが心は4つのプロセスによって生じるというものだ。その4つのプロセスを意識・知覚・認識・反応という。
徹底して反応を観察し続ける
私達は様々な感覚器を通じて、色々な情報を意識・無意識でもってキャッチする。そうしてキャッチした情報が認識され、最終的には快・不快といったフォルダに放り込まれ、心の動きとして反応が生じる。
意識・知覚・認識までのプロセスは全ての人に共通したものだが、実は最後の反応は”その人の意見”のようなものだ。
例えばタコをみて美味しそうだと思う人がいる一方で「デビルフィッシュだ。気持ち悪い」と思う人もいる。
つまりひろゆき氏がいう所の「それって、あなたの意見ですよね?」というのが、快・不快の原因なのである。
このように、実は自分自身の心の動きというのは、どう反応するのかに強く影響を受けている。
村人Aをみて無関心に「ああ、人がいる」と通り過ぎる人がいる一方、実はその村人Aの正体が親の仇で「あの野郎!ついに見つけたぞ」と怒り心頭になる人もこの世にはいる。
つまりこの世の快楽も不快も、全ては情報の受け取り手である己の反応の問題なのである。
そしてこれは人間がなぜ苦しむのかという問いに対する答えに通じる事になる。
真理に目覚めたブッダはこう言ったのだという。
「なぜ生きるのが苦しいのか。それは人間が無知だからだ」
「何に自分自身が”反応”しているのかを、みんな何一つわかっちゃいない」
「だから徹底して座禅を組んで、自分自身の意識・知覚・感覚を観察し続けなくてはいけない」
「そうして、自分自身の快や不快が何によって生まれる反応なのかを徹底して知り、無知を脱する。そうする事でしか、この苦しみからは逃れられない」
瞑想の技法は実生活にも応用ができる
こうして、ヴィパッサナー瞑想を通じて、徹底して自分という人間が何に反応しているのかを観察し続けるのが瞑想の目的だ。
この行いを通じて無知の状態を脱して、自分自身の事をもっともっとよく知ろうとするのが、瞑想という行いである。
そうして無知の状態を脱する事を通じて反応を徹底して解剖する事で、自分自身の意見でしかない反応と客観的な事実の差を徹底して煮詰めていく。
これをやりまくれば、少なくとも自分の心が何によって痛めつけられているのかのかなどを、無意識から意識へとかなり引きずり出す事ができるようになる。
このロジックだが、実は瞑想だけではなく実生活においても応用が可能だ。
わけもわからず涙をあふれさせる心が不安定な状態から「ああ、自分はあいつの朝の言動にイラつかされているから、こんなにも悲しくて仕方がないのか」という事を認識できるような状態にまでたどり着ければ、後はもうやるべき事は簡単だ。
「確かにあいつはこっちを苛つかせるような事を言ってはきたが、それをどう受け取るかは徹底して自分に裁量がある」
「あいつの言った言葉を、ただ意識・知覚・感覚に分類し、反応とは分けて考える」
「相手にしなけりゃいいんだ。だって自分の心がどう感じたいかは、自分自身が決めればいいんだから」
感情に基づいて安易な行動をすべきではないが、強く出るべき時はキチンと強く出ろ
このような感じで実生活にも応用が可能な瞑想の技法だが、先のエピソードをみてこう思った人も多いのではないだろうか?
「確かに、気にしなければ全部解決するかもしれないけどさ…」
「それはそれとして、相手がムカつくというこの心はどうすればいいってのよ…」
「痛みや怒りを無視しろっていうの?そんなの単なる殴られ損じゃん…」
これに対するブッダの答えは極めてシンプルだ。
「感情に基づいて安易な行動をすべきではないが、強く出るべき時はキチンと強く出ろ」である。
実は反応は簡単に連鎖する。
例えば先程の失礼な言動なら、それで怒り心頭になって相手を殴りつけたり、自分自身の家族やパートナーといった人間に当たり散らしたりすると、反応に反応が連鎖して、シンプルな問題がシッチャカメッチャカとなる。
ブッダはこの現象を業と名付けた。
先程の例ならば、業が蓄積した結果として「あいつは情緒不安定な人間だから」というレッテルが貼られるという事になったり、更に加速すれば「あなたみたいな気分で動く人にはもうついて行けない」という風になってしまうかもしれない。
反応に反応でもって答え続けていくと、業がどんどんと蓄積してゆく。
そういう業が深い状態に陥ってしまうと、人間は容易に「あれが悪い。これが悪い。私は全く悪くない。悪いのは他人であり、世の中だ」というように他責的な思考に結びついてしまう。
しかし元々の大本を辿っていけば…結局のところ業というのは自分自身の反応によって生じたものに他ならない。
だから業から逃れたいのなら、反応をできる限りなくしていき、徹底して世の中をシンプルにしていくしかない。
先の失礼な言動を言う人間に対してなら、感情はひとまず脇にどけて、ただシンプルに「そういうモノの言い方は不快だからやめて下さい」と事実だけを淡々と尽き付けるのが良いだろう。
それで相手がゴチャゴチャ言ってくるのなら「事実として自分自身の行いに足りない部分があったのなら修正するが、それに人格攻撃は混ぜないで下さい」と徹底して感情的な振る舞いを排除して、世の中において”正しい”と判定されるであろう立ち振舞いに徹すればよい。
相手は激昂して「そういう態度がよくないのだ」という風に難癖をつけてくるかもしれないが、貴方がそのクソリプに対して感情的に対応せず、淡々と”事実”だけを突きつけ続け、かつやるべき事は淡々と処理すれば、相手もそのうち態度を変更せずにはいられなくなる。
言うべきことは言う。しかし、そこに感情は介入させない。
淡々と正しい事だけをする。
そうすれば、物事は収まるべきところにシッカリと収まる。
何故なら痴情のもつれのようなものが発生する余地を産まなければ、そこに業は蓄積しようがないからである。
ブッダはこの生き方を八正道と名付けて正しい事だけをしなさいと説いたが、そのロジックは極めて明確だ。
正しい行いだけが業を蓄積せずに、邪なものを寄せ付けない生き方につながるのである。
その正しさの外にあるものはみな執着の元になる余計なものであり、その執着が巡り巡って人生に苦しみをもたらすのである。
心穏やかに過ごしたいのなら、人として正しい事を行いなさい。何故なら、正しくない行いというものは全て何らかの私情や怨念が介入し、それが巡り巡って執着となり業として顕在化してしまうのだから。
まったく実に、仏教というのは極めてロジカルで解釈の余地すら無いほどに、絶対の真理しか述べられていないのである。
この世は無常であり、同じであり続けるものなど何一つとして存在しない
こうして己の身に起きる反応を瞑想を通じて徹底して観察し続けると、究極の真理である無常と無我にたどり着く。
無常とは、この世には同じような形で継続するものなど一つとして存在しないという事だ。
例えば、座禅を組んでいると脚がしびれてくるが、その痛みですら一秒・一分たつと同じではない。強くなったり、弱くなったりする事はあれど、同じままであるという事は絶対にない。
これが無常である。これはこの世の全てに適応される圧倒的真理である。どんなに辛く苦しい現実でも、永遠に同じ苦しみが続くという事はありえない。その苦しみは良くも悪くも無常である。
この世の全ては移ろい、そして変わってしまう。そしてそれはこの世の法則に必ず従って、変わる。
実は自分というのは数々の反応が生み出したファンタジーでしかない
そしてその法則は己にも適応される。
私たちは私達自身を唯一無二だと勝手に信じ込んでいるが、10年前の自分と今の自分は全然異なる存在だ。前日と当日の自分ですら全然違う。
そうして、自分自身という存在ですら無常であるという事を、淡々と瞑想を通じて実感し続けていった先にたどり着くのが、無我だ。
私達は自分自身の事を絶対的な自己として認識しているが、実は自分というのは数々の反応が生み出したファンタジーでしかない。
例え話をしよう。川を思い浮かべて欲しい。
この川という存在は、実際には人が生み出した幻だ。川を脱構築すれば、そこにあるのは水が流れる通り道と水滴の集まりでしか無い。
改めて川を構成する要素だけを抜き出すと、そこにあるのは石や土、水だけだ。しかし石と土、水はそれ単体では単なる物質でしかない。
ある場所に、ある組み合わせでもって、石や土、水を置けば川という現象が生じる。
しかし川というものには確かなる実態というものはない。それはあくまで、物質が特定の条件下で置かれたら生じる現象の一つでしか無いのである。
実は私というものも、川と全く同じ存在だ。
肉体を通じて、意識・知覚・感覚・反応という一連の動作が連綿無く続く。川を水が流れるがごとく、人間の身体の中を情報が流れて生じるのが自我というものの正体だ。
しかしその自我というものの実態は実は存在しない。川という存在に確かなる絶対の形が存在しないのと同じく、自分というものにも絶対はない。
そしてその自分という存在は無常であり、簡単に移ろいゆく存在でしか無い。
こうして私という存在は幻なのだという事を、西洋哲学のように頭の中で思考をこねくり回して納得するのではなく、瞑想という実際の行動を通じて肉体でもって確信する事で、人間はやっと苦しみから抜け出して、心健やかに行動できるようになる。
瞑想の目的とは、無常・無我・苦という3つの真理を頭だけではなく、肉体を通じて徹底してわかる為である。
そこにスピリチュアルや超常現象は無い。そういう状況に入る事が無いわけではないが、そういう状況に入ったときも冷静に自分自身に何がおきたのかを淡々と観察し続ける事が求められる。
そうして、己の肉体にどんな事が起きていて、それがどういう気持ちに繋がっているのかという無知を瞑想という行いを通じて徹底して無くしていく。
そうして無知を無くしてゆき、己の身体に生じてくる反応に反応で答える事を辞め、己の身体に絡みついた業を徹底して排していく。
そうする事で、人間は苦からようやく開放される。苦から開放される事によって初めて、人間は成すべき事を惑わされずに淡々と成す事ができるようになる。
瞑想の目的は苦しみから開放される事だが、それは修行僧になるという事ではない
「瞑想を通じて解脱して、この世の全ての苦から開放されて、涅槃の境地に至った」
「悟りの境地に至った」
「…この後どうすればいいの?」
僕を含めて、多くの人が瞑想をどうも自分の生活に取り入れる事に躊躇する事の一つが、この「悟ったからといって、どうにでもならなくない?だって修行僧になって出家したいわけじゃないし…」という問題だと思う。
「出家できない現代人が、それでもあえて何故瞑想なんてしなくちゃアカンのか」
この問いに対する答えも実は極めてシンプルだ。
それは「苦しむ事無く、現実世界に影響を及ぼす活動ができた方が、苦しみにまみれながら行動するよりも絶対にいいから」である。
実は現実社会にキチンと影響を及ぼすという点においては、瞑想は全くといっていいほどには力にはならない。
家で座っていたら、勝手に預金口座に大金が投げ込まれて、美人な嫁さんがあがりこんできて、全ての生活を一切合切なんでもやってくれるという事は絶対にない。
もし世の中で何か成し遂げたい事があるのなら、それを実現する為には徹底して行動するしかない。
ただひたすらに、淡々と行動し続ける事でしか、物事は動かない。
しかし…この行動し続けるという事が、実に苦痛に満ち溢れている。
人間関係の軋轢、努力の為の気合など、世の中の全ての行いには大変さがもれなくセットで付きまとってくる。
人生というのは、本質的に苦しみで満ち溢れている。この世はまったくもって修羅であり、現実社会に立ち入るという事は苦痛抜きに行える事ではない。
しかし…じゃあその苦痛が嫌だからといって、現実社会に全く立ち入らないとどうなるか。
「ロジカルに考えれば苦痛がないんだから、楽なんじゃない?」と思われるかもしれないが、残念ながらそこにあるのもまた苦である。
非モテ・満たされない承認欲求・寂しさなどなど…現実世界から切り取られた個人を襲うのは、それはそれで苦だ。
現実は確かに大変だ。しかし…大変だからといって現実世界とのコミットメントを否定しても、残念ながら安寧は得られない。
現実は苦だが、現実に立ち入らなくても苦しか無い。この難問を解決する為には、2つの方法がある。
一つは世の中が辛く苦しいものであると覚悟を決めて、自分自身をボロボロにしてでも欲しい物を世の中からぶんどってくる方法だ。
あなたの周りにも、そういうボロ雑巾のようになりながらも世の中とのコミットメントがやめられないタイプの破滅型人種が一人ぐらいいるだろう。
この破滅型人種の特徴を一言でいうと、物凄くいい人か物凄く嫌な奴である。
仏のような性格でもって、全ての物事を請け負いまくった結果、ある程度のモノを得つつも身体をボロボロに壊して資本主義社会を退場する。
あるいはハチャメチャに最悪な性格でもって周囲を徹底して破壊しつつも、鋼の信念でもって自分のやりたい事は絶対に曲げずに貫き通す。
世の中を見渡してみると、実は大体において有能なサラリーマンはこのどちらかに分類される。
はっきり言って、これらはハチャメチャに身体に悪い生き方であり、ストレスフルで身も心も色々な意味でズタボロになる。
世の中はしんどい所なのだと言われればそれまでではあるのだが、それでもできれば…苦しくない生き方を選べるのなら、そっちを選びたいというのが人間というものだろう。
そういう人に用意されたのが、第三の道…瞑想を通じて、己を苦から遠ざけつつも、現実世界と適切にコミットメントをとって、欲しいものはちゃんと取るという生き方だ。
なぜ世の中はこんなにも苦しい事で満ち溢れていて、自分自身の人生にはこんなにも困難ばかりがたちこめているのか
実は瞑想をちゃんと学ぶ過程を通じて初めて知ったのだが、サピエンス全史を書いたハラリは同性愛者なのだという。
彼はその他にもユダヤ人だという色々と悩み深い種族に生まれた事もあり、若い頃から「なぜ世の中はこんなにも苦しい事で満ち溢れていて、自分自身の人生にはこんなにも困難ばかりがたちこめているのか」という事で悩まない日々は無かったぐらいなのだそうだ。
そんな中、彼は友人の勧めもあってヴィパッサナー瞑想と出会い、実は自分は色々な物事をたくさん知っていると思っていたが、肝心の自分自身については全く何一つ知らなかったという衝撃の事実に圧倒される。
怒りとは何か。実は怒りとは単なる肉体の反応だ。
怒っている自分を冷静に観察すれば、それは頭が沸騰し、胸がカーっとなるというような、身体の反応が集約されて顕在化したものでしかないという事が極めてロジカルにわかる。
それまで1万回は怒ったであろうハラリだが、この経験を通じて自分自身が怒りについて何一つ知らなかったという事を知り、心底驚かされたのだという。
そうして、徹底して己の肉体を観察し、悩み多き人生の悩みというものが、ほとんど自分自身の肉体の反応パターンによって生み出されている事を体得し、彼は現実世界に惑わされずに淡々と自分のやりたい事・成し遂げるべき事に集中できたからこそ、サピエンス全史やホモデウスといった大作を書き上げられたのだと、21Lessonの中で彼は回想している。
なぜ出家もしないくせに瞑想するのか。この問いに極めてエレガントに答えているのが、このハラリの回答だと僕は思う。
世の中の多くの事は、自分自身が選んでいない事で決められてしまう。
誰を好きになるのかや、どういった職業につくのか、どういう人間と交友関係を結べるのか、どこの国に生まれるのかというような、自分自身の力では決して十全にコントロールできない事例の多くが、自分の心の幸福度を強く左右してしまう。
この不条理な世の中において「世の中そんなもんだ。仕方がない」と諦めて、ある程度の苦痛を生の代償と捉えて頑張るのも一つの手だ。というか、普通の人はそういう人生をやっていっている。現実世界は厳しい。
じゃあ…人間は苦しむ為に生まれてきたのか?
その問いに対する答えは否である。人間というのは、幸せになる為に生まれてきた。
現実は苦痛で満ち溢れている。けど人生の目的は幸福。
この相反する2つのテーゼを弁証法でもって解決する手法の一つが、瞑想なのだ。
瞑想を日常生活に取り入れて、心をどんどん強くして楽になろう。
そして現実世界でキチンと成すべき事を成し遂げて、欲しい物もキチンと手に入れよう。
私達に求められているのは、そういうことだし、瞑想が私達に与えてくれるのは、そういう事なのだ。
参考文献
最後に僕が瞑想を学ぶのに用いたものや、これから瞑想を始める人の参考になりそうなものをコメントを添えつつ解説を加えていく。
・21LESSON
本記事の中でも何度も引用した、サピエンス全史を書いたハラリが瞑想について語っている本。瞑想については最後の最後の章が当てられている。彼の瞑想に対する考え方を一読しただけで理解するのは難しく、僕は瞑想を行いつつ何度も何度も参照した。
読み返せば読み返すほどに読み解ける箇所が増え「ああ、自分はこんなにも文章の意味をキチンと読めていなかったんだなぁ」という事がわかる。
彼の瞑想に対する考え方はyoutube上でもいくつかピックアップされているので、興味を持った人は除いてみてもいいだろう。
【字幕】ハラリ、ヴィパッサナー瞑想とアーナーパーナ瞑想を語る ユヴァル・ノア・ハラリ – YouTube
実はこの本を捧げる相手としてあげられているゴエンカ氏こそが、ヴィパッサナー瞑想を世の中に広く伝え、ハラリにまで届けた存在である。
・なぜ僕は瞑想するのか ヴィパッサナー瞑想体験記 想田 和弘
実はハラリが体験したヴィパッサナー瞑想の合宿を、日本で私達も受講する事が可能だ。費用はなんと無料である。道場は千葉と京都にあり、事前申込みが必要となっている。
10日間ただひたすらに座禅を組み続けるという、かなりストイックなものなのだが、得るものは多いという。僕も参加したいのだけど、日程が…難しいなぁ…
「10日間も人里離れた場所で過ごすとか、ヤベー宗教なんじゃないの?」
そういう疑問を持つのは当然だと思う。そういう人の誤解を解く為、また、実際にヴィパッサナー瞑想はどういうもので、どういう御利益が得られるのかを学ぶのに、この本は非常に参考になった。
この本は映画監督である想田 和弘さんが、実際に千葉の施設でヴィパッサナー瞑想を行った際の体験を語ってくれたものだ。
読みやすく、要旨が端的にまとまっており、かつ記述に無駄がなく簡潔に終わる。
実に優れた本であり、こちらも何度も何度も読み返した。
読む度に得るものがあったが、最も面白かったのが最後の最後に飲酒欲求を迫られる場面だろうか。
飲酒欲求ですら、肉体の反応にすぎず、かつそれも観察し続けていけば消える性質のものでしか無いというのは、言われるまで全く気が付かなかった。言われてみれば当たり前なのだけど。一読をオススメする。
・限界を乗り超える最強の心身 チベット高僧が教える瞑想とランニング
冒頭で紹介した本。瞑想は若干フワフワしていて理解しにくいという人は、ランニングのような具体的なアクティビティを通じて理解するのも一つの手だと思う。自分もそれでかなり理解が進んだし。
この本で最も印象に残っているエピソードは、マラソンの最中に足に豆ができた際のものだ。
いうまでもなく筆者は強い痛みに襲われたそうだが、その痛みに自分の意識の主眼を置くのではなく、「自分自身が走る事ができるという喜びと感謝」に意識の主軸を置く事で、彼はマラソンを走り抜くことに成功した。
これを汎用化すると「過去にとらわれることなく今という瞬間に着目し続けていけば、辛く厳しい現実にいようが目標はキチンと達成できるのだ」という風に読み解ける。
痛みに自分自身の人生の主軸を置かず、別のものに主軸を置いて目標まで走り抜けば、痛みなどに自分の人生を奪われる事もないのである。
被害者意識を過度に拗らせて、当たり屋っぽくなりつつある過敏な現代人に、学びの多いエピソードであると思う。
・ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門: 豊かな人生の技法
ハラリの瞑想の師であるゴエンカ氏の御高説がたっぷりと詰まった一冊。
瞑想における全ての理屈が書ききってあるのだが、読み手にそれを読む知識が無いと、この本の良さはわかりにくい。
僕はたぶん10回ぐらい読み返したけど、最初の頃は何が書いてあるのかあまり理解できていなかったように思う。
・マインドフルネス
・マインドフルネスを越えて
バンテ・H・グナラタナ
ゴエンカ本は本当に必要十分に瞑想のロジックについて徹底して書かれているのだけど、密度が高すぎてそこに書かれている内容を完全に理解する事が逆に難しい。
その点、バンテ・H・グナラタナの本は「なぜブッダのロジックが大切なのか」を口語調で非常にわかりやすく丁寧に書いてくれてあり、ゴエンカ本に書かれていた内容を「ああ、そういう事だったのね」とやっとこさ理解する事ができるようになる。
出版元であるサンガが破産した関係で絶版本になってしまっているのだけが本当に残念。買えるうちに入手しておくのがいいと思う。なおグナラタナ氏の本は4冊あるが、この2冊で必要十分である。
・現代坐禅講義 只管打坐への道
・ブッダが教える愉快な生き方
藤田一照
ヴィパッサナーの観点だけから瞑想を読みすぎると逆に何が良くて何がいいのかがわかりにくい部分もあり、そういう意味では藤田一照氏のこの2冊は面白かった。
特に現代坐禅講義 只管打坐への道で座禅におけるより深く集中するための座り方を、高説ではなく徹底して技術的に分析しているのが面白い。
ヴィパッサナー瞑想の本ではどちらかというと座り方はそこまでこだわっておらず「楽に座ればいい」とだけ書かれているのだが、そうはいってもやはり座り方は肝心だ。
瞑想に集中でき方がハチャメチャに変わる。藤田氏はその辺「よい坐蒲(座禅用のクッション)をちゃんと使うのも座禅の一環だ」と書いており、とても好感が持てる。
自分は安楽座というスタイルでもって、普通のヨガマットの上に低反発クッションを2つに折り曲げて尻の上に敷いて座るスタイルに最終的には落ち着いたが、座禅の組み方や座る道具も色々と試行錯誤するのがよいと思う。
座り方はこのyoutubeが参考になる。
【瞑想の座り方】教えます!快適に長く座るためのポイント♪|講師:MAY – YouTube
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【著者プロフィール】
都内で勤務医としてまったり生活中。
趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。
twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように
noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます
Photo by Fabrizio Chiagano