精神科病院への入院には、昔は「一度入院したら出て来れない」などの怖いイメージがついてまわりましたが、最近はそうでもなくなりました。

 

とりわけ、新しい制度にもとづいて運営されている精神科病院では、3か月以内の退院を目指さなければならない制約があるため、長期入院はよほど難しい症例に限られています。

そうしたなか、ホテルのようなアメニティを兼ね備えた精神科病院、ストレスのたまった人が短期療養することに特化した病棟・病室を用意した精神科病院も見かけるようになりました。

 

入院する患者さんの病状も、ここ数十年で変わりました。

メンタルヘルスについての啓蒙が行き届いたおかげか、重症になる前に入院し、数週間の治療で症状が改善する患者さんが増えたのです。

精神疾患ですから数日で退院……というわけにはいきませんが、それでも入院期間は短くなったと言えるでしょう。

 

とはいえ、ときには重症度の高い患者さんも入院してきます。

そのなかには「自傷他害のおそれあり」とみなされ、措置入院に至った患者さんも混じっていて、そうした患者さんのなかには、症状のせいで日常生活がほとんど成り立たない状態のかたも珍しくありません。

 

病状の重い患者さんで最初に「改善する」のは?

ところで、ものすごく重症の患者さんが入院してきた時、最初に「改善する」のはどんなところか想像できますか?

 

気分の落ち込みや自殺したい気持ち?

いえいえ、これらが改善するには時間がかかることが多いものです。

今でも、食事も睡眠も満足にとれない患者さんの場合などは、数週間から数か月かかることも珍しくありません。

 

幻覚や妄想?

幻覚や妄想は、人によっては非常に早く改善します。

「幻覚や妄想が出現したのが今回が初めてで」「症状出現から治療開始までのインターバルが短い患者さん」の場合、数日以内に症状が消えてなくなることもあります。

また、たとえば低血糖が誘因となって幻覚や妄想が出現した患者さんの場合などは、血糖値を改善させると数分単位で症状が消えることもあります。

 

とはいえ、低血糖がもとで起こる幻覚や妄想は全体のごく一部ですし、上掲の条件を満たさない患者さんの場合、もっと長引いたり難治性だったりすることもあるのですが。

どうあれ、いかにも精神症状らしい症状については数日から数週間ぐらいは必要だ、と考えておいたほうが無難だと思います。

 

では、最初に「改善する」のは何かというと……不清潔です。

 

重症度の高い患者さんは、えてして清潔が保てておらず、しばしば不衛生ですらあります。

幻覚や妄想、認知機能の低下、重い抑うつなどは、入浴やシャワーを困難にしてしまいます。排せつがきちんとできなくなっている場合も珍しくありません。

 

こうした患者さんが入院してくると、スタッフが介助するかたちで入浴やシャワー、清拭などが行われます。

中心となる精神症状が改善していなくても、睡眠や食欲などが回復しきっていなくても、患者さんには清潔な状態になっていただく──かくして、真っ先に目に見えて改善するのは「不清潔や不衛生の改善」で、その結果として、まず、清潔になるのです。

 

さまざまな症状の改善や、さまざまな精神機能・社会機能の回復よりも早くに「清潔」が改善するということが、私には意味深に感じられます。

ああ、「清潔」って食欲や睡眠と並び立つ重要なファクターで、看護や介護の第一の標的なのだなって。

 

幻覚や妄想、抑うつや食欲不振や不眠などに比べると、不清潔や不衛生は精神症状っぽく響かないボキャブラリーかもしれません。

ですが、カルテや看護サマリーを読んでみれば、事実上、それらが精神症状の一部として、患者さんの重症度を推し量る材料として記載されているのが目に留まります。

 

失禁やろう便(注:自分の便をこねてしまうこと。認知機能の低下が著しい疾患で出現することが多い症状)はもちろん、ちゃんとした服装ができないこと、洗顔や髭剃りや歯磨きができないこと、自室の整理整頓ができないこと、等々が症状の一部として、患者さんの状態が良くないことを指し示す兆候として記録されているのです。

 

そうでしょうとも。

現代人にとって、清潔とは、望ましいという以上に義務なのですから。

 

昔から清潔が義務だったわけではない

清潔が、望ましいという以上の義務になったのは、いつ頃からだったのでしょう。

アラン・コルバン『においの歴史』によれば、18世紀の頃には衛生状態を改善させる努力が始まっていたそうです。

当時はまだ微生物が発見されていませんでしたが、瘴気(ミアズマ)が人間を病気にするという考え方が流行っていて、軍艦や公共施設などに悪臭がこもらないよう様々な工夫が始まっていました。

 

病院も例外ではありません。トイレや下水道の整備だけではなく、病人自身を清潔にするべく、厳しいルールが定められるようになりました。

病人を脱臭するということのなかには、身体的なコントロールが、とりわけ糞便の監視が含まれる。換気だけでは十分ではない。各個人の行動を変化させる必要がでてくる。病院はこのような面から、規律の多い場所へと変わっていく。規則は厳しいものとなる。ゴスポート近くのハスラー病院の規則では汚れた下着を身につけることが禁じられていた。病人のシャツは四日ごとに取り替え、シーツは二週間ごとに替えることが定められていた。

病人を清潔にするためには、清潔な状態を維持しなければなりません。

18世紀の段階ではシャワーや風呂はまだ利用できなかったので、着替えやシーツ交換をとおして清潔が励行されました。

しかし、服やシーツをどれだけ交換しても、病人自身が清潔を心がけることができなければ結局不清潔になってしまいます。

目標とされていたのは、画一性であり、数世紀来の習慣の破壊であり、無意識的行動の禁止である。無意識の行為はこれ以後アナーキーで危険なものとみなされることになる。病院はこうした前駆的な例によって個人的な衛生観念を身につけるための学習の場所となる。しかしまだ、こうした観念を民衆の私的空間にまで普及させようとはだれも思いつかない。

病人を清潔に保つためには、病人の行動を変えなければなりません。

現代人には当たり前と感じられる清潔を保つための習慣は、18世紀にはまだ当たり前ではありません──なにしろ中~上流階級がようやく清潔を(ファッションの一部として)意識するようになった時代のことですから。

 

そうした時代のなか、病人に清潔を保つための習慣を病人に身に付けさせるのは相当大変だったに違いありません。

 

社会機能とみなされる清潔

このように、18世紀の病院は世の中に先んじて清潔に着眼し、不清潔や不衛生と戦いました。

しかし時代を経るにつれて風呂やシャワーや石鹸が普及し、世の中全体が清潔になっていくなかで、清潔を保つための習慣はできて当たり前のもの・できなければおかしなものとなっていきました。

 

不潔な状態で街をうろつくこと、不衛生な環境で生活することは、人間の精神機能や社会機能としておかしなことである──そうしたコンセンサスは、日本では戦後の高度経済成長期をとおして広がり、高度経済成長が一段落した80-90年代にほぼ定着しました。

 

人も住まいも、駅のホームや公園も清潔になっていくなかで、不清潔は目立つもの・見咎められるもの・あってはならないものになりました。

人間の体臭は、昭和時代においてはするのが当たり前でしたし、週に2~3度しか入浴しない人など珍しくありませんでしたが、令和時代においてはこの限りではありません。

 

精神疾患の患者さんとて例外ではありません。

ほとんどの人が清潔を保てているからこそ、不清潔は、精神機能や社会機能のバロメータとして評価されるようになりました。

かつては極端ではない不清潔だけが問題視されましたが、今日では入浴が苦手であること、諸事情により入浴が後回しになることも、なんとなれば問題視されかねません。

 

精神医学の教科書においては、不清潔は「抑うつ」や「幻覚」「妄想」と並ぶような王道の症状として記載されてはいません。

とはいえ、具合が悪くなった患者さんがしばしば不清潔になってしまうことは書かれていますし、精神状態や社会機能の良し悪しを推しはかるバロメータになっているのは先に述べたとおりです。

 

そして重症度の高い患者さんが入院してきた時、不清潔は真っ先に正されるべき標的であり、患者さんは、まず清潔になるのです。

 

18世紀以前はともかく、21世紀の人間にとって清潔は明らかに義務で、社会機能のなかでも必須度の高いものとなっています。

たった300年では人類の遺伝子がさほど変わらないわけですから、18世紀以前には社会機能に問題無しとみなされていたはずの人が、21世紀には清潔が保てない人・身なりのしっかりしない人としてディスアドバンテージをこうむることもあるのでしょう。

 

清潔が改善した重症の患者さんと面接する時、私はしばしば「清潔になりましたね」「さっぱりしましたね」と口にします。

今日、清潔は社会機能の必須項目となっていますから、それは喜ばしいことです。

ただ、この清潔という、昔から義務だったわけではないバロメータについて考えると、私たちが社会機能と呼んでいるもの、ひいては正常な精神機能として期待しているものの正体とはいったい何なのか、考えこんでしまいます。

 

ひいては、清潔以外にもさまざまな社会機能を期待してやまない現代社会と、そこで社会機能が足りていないとみなされてしまう人の苦しみについて、簡単に承服できない気持ちにもなります。

いや、承服できないとは言わないまでも、そこに時代特有の痛みのようなものを感じずにいられないのですよ。

 

たとえば将来、SF小説で描かれるような「ナノマシン洗浄によって人間が自動的に清潔になれる時代」が到来すれば、清潔を保つための諸々は問われなくなるでしょう。

そうなった場合も、人間にとって必須の精神機能や社会機能とは何なのか、その線引きは大きく変わるはずで、ひいては、人間とは何かというゴールポストの位置までもが大きく変わるはずです。

 

そういう、線引きもゴールポストも時代によって揺れ動くなかで患者さんの精神機能や社会機能をまなざし、治すと呼ばれる行為に携わっていることを、私はときどき自覚せずにいられません。

まず、清潔になる──これはすごく今日的な要請です。そういう今日的要請や時代のニーズのなかで、私たちはあれが機能不全だ、それがハンディキャップだと言っているわけですね。

 

症状やハンディキャップは、かように時代や社会に左右されます。

未来の人々は、どんな時代や社会に遭遇し、どのような苦手や不出来を症状やハンディキャップと呼ぶのでしょうね?

 

社会が高度化したため『まともな人間』のハードルがどんどん上がっていって仕事の内容も難しくなっていているのが辛い ─togetter

 

このtogetterを読むと、未来におけるまともな人間の条件、できなければならない精神機能や社会機能はもっと増えると想像したくなります。

今はできなくても大目に見てみてもらえたことが、未来においては許されなくなっていく可能性はあるだろうと、心しておいたほうがいいのかもしれません。

 

清潔をはじめ、昭和から令和の三十余年だけ比較しても、あまりにも多くの特徴や不出来が症状やハンディキャップとみなされてきたのですから。あるいは、犯罪や逸脱とみなされてきたのですから。

 

 

 

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo by Nathan Dumlao