必要悪
「反社」と呼ばれる人たちがいる。いまどき、金融かなにかの手続きで「反社に関わりないですか?」というチェックは当たり前のものとなった。
「反社」。とくにいわゆる「ヤクザ」。ヤクザはこの世に存在しているし、反社会的存在である。
「必要悪」と呼ばれる言葉がある。
ヤクザについてこの言葉が用いられることがある。曰く、外国人の反社会的存在に対する防御壁になっているだとか、云々。
おれはそう思わない。「必要悪」とは、究極的に警察のような存在であって、一般人が持つことができない銃器を手にすることが許される存在。それでも、この世の治安を保つためならば、それが許される存在。
そこまできて、「必要」と言えるのだと思う。警察を悪とは言わないが、必要悪とは言おう。
おれとヤクザ、ヤクザとおれ
おれとヤクザはほとんど関わらずに生きてきた。だが、人生が変わるそのときに、ヤクザが絡んできた。
親の経営する会社が破綻して、いざ実家を手放さなくてはならなくなったときだ。
そのときに、母の妹の夫が警察官であった。その警察官が紹介したのが、反社の不動産屋であった。
おれは母に土下座して「ヤクザに頼るのはやめてくれ」といったが、母は実際に会ったヤクザの不動産屋を信じた。
結果、うちの実家はそれなりの値段で売れた。手際よく処理してくれた。それは、反社が警察官であるおじに恩を売るという行為だったのかもしれない。
恩を売った結果がどうなったのかおれにはわからない。もう二十年以上前の話でもあるし、おじもその息子も警察を辞めている。だから書いている。
ヤクザを知ろう
ヤクザは怖ろしい。ある意味で、ヤクザに救われて人生が続いたおれが言う。もしも、あのときヤクザの手を借りていなければ、いまのおれはいなかったかもしれない。
もっとも、いまのおれなどろくでもない存在なので、ヤクザの手が必要であるとも言えないのだが。
ヤクザは怖ろしい。怖ろしいから、その影響が増す。そう思うことによって、暴力の威力は増していく。それはまるで、漫画『チェンソーマン』の悪魔のようである。悪魔は人々の恐怖によって力を増す。
とはいえ、反社、ヤクザ、暴力の恐怖を知ることによって、その影響の恐怖を減らすことができないかとも思うのだ。知ることによって、その影響力を減らす。そういうこともあるのではないか。
というわけで、おれは新書一冊の知識でヤクザを知ろうと思った。いや、なんとなく知っている知識をまとめようかと思った。
新書には入り口としての役割と、まとめとしての役割があると思う。して、これについて必殺になるかはわからないが、著者はそういう類の人たちである。溝口敦と鈴木智彦による『教養としてのヤクザ』、これである。
現代のヤクザ
取材を始めてから25年……ヤクザはずいぶん変わった。インターネット全盛の今、組織によっては連絡や通達がLINEで送られてくるし、抗争現場の凄惨な動画や、組事務所内の貴重な映像さえ、ネットに流出するようになった。
ある若い衆に「親分のどこに惚れていますか?」と質問したところ「(LINEの)スタンプの使い方がうまいというか、泣けるというか、じーんときます」という答えが返ってきたこともある。
(鈴木智彦)
LINEスタンプを売るヤクザもいるという。LINEのスタンプの使い方で尊敬を得るヤクザ。
どうなんだ、それは。いきなり、なんなんだ、という気にもなる。「じーんとくる」ヤクザ。
現代的なヤクザ。おれが通勤路にしている道のマンションの一階がヤクザの事務所である。たまに、他の親分(?)を迎えるために、黒スーツの一団が事務所前に並んでいることがある。
なかにはサングラスにヘッドセットのわかい若いヤクザがいたりして、「これはサイバーパンクの世界か」と思うこともあった。近未来的ですらある。
おれは関係ないカタギなので、堂々とそこを通り過ぎる。そのヤクザの事務所はコロナ禍以後、ちょっとだけ換気のために扉を開けている。でかい壺と水のダンボールが見える。
有機野菜を作るヤクザ
鈴木智彦には『サカナとヤクザ』という著作がある。おれは興味深く読んだ。
ヤクザには“獲っちゃいけないものを獲る習性”があるという。
本来獲ってはいけない魚。ウナギ、高山植物、かすみ網で小鳥。そんなものまで。それはヤクザの本領だろうか?
溝口 ……伝統的にヤクザ社会のヒエラルキーでは、最下層にいるのが親のスネをかじっている「親依存型ヤクザ」で、その上辺りに「女依存型ヤクザ」とか、アンコ(日雇い労働者)をやっているような「肉体労働型ヤクザ」がいる。警察庁ではそういう分類をしているんですが、密漁をやっているのはまさに「肉体労働的ヤクザ」で、ヤクザ社会では下に見られる。
ヤクザは商売ではないんです。無職なんです。だから、“無職渡世” などと言うわけです。ヤクザはまったく働いていないのに食っていける。そこに価値がある。
というわけで、魚介類を密猟するのはヤクザの本領でなないという。
しかし、そういうところに手を出さずにはいられない現状もある。
鈴木 法律で「有機野菜を作るのが禁止」となったらヤクザは有機野菜を作るでしょうね。ありえないけど。
ブラックゾーンこそを突くヤクザ。
しかしながら、なんというのだろうか、グレーゾーンならどうなのか。まだ法律でもなにも決まっていないところを開拓するのはベンチャーと呼ばれる。
いまどきか、ちょっと前か、フィンテックと呼ばれる分野など、ある意味でグレーに見えるが、そこを突くのがベンチャーであって、世界を切り開いていくこともある。
一方で、ブラックを突くのがヤクザと言えるのかもしれない。
それにしても、有機野菜を作るヤクザは見てみたい。
溝口 ヤクザのシノギというと、大雑把に言えば覚せい剤の密売とノミ行為を含めた賭博、管理売春、みかじめ料の4つがある。
鈴木 この4つをシノギの”本業”とすれば、それら以外は”副業”ですかね。
溝口 ヤクザの本当の本業は”暴力”で、それ以外は全部副業なのかもしれないけれど、シノギという範疇のなかではそうなりますか。
というわけで(とはいえども)、本当の本業は暴力なのがヤクザであって暴力団なのである。
では、「団」とはどういうことなのか?
鈴木 ……一般の人はよく勘違いしていますが、暴力団というのは会社組織のようなものではなくて、ヤクザ一人ひとりは基本的に個人事業主なんです。何で稼いでもよくて、暴力団というのは”互助会”みたいなもの。
溝口 「自分の才覚で稼ぐ」というのがヤクザ。鈴木さんが言う通り個人事業主で、勝手に稼いで組に上納金を納める。時には仲間と組んでやることもあるし、えらく儲かって自慢したくなって、兄貴分や親分に「こんなに儲かりました」ってデーンとお金を積むことはあるけど、基本的には個人事業主です。
ヤクザは個人事業主。このあたりは、なんとなく暴力団を想像しているうえには想像しにくい。確固とした結社があって、その鉄の指示によって結束されている、そういうイメージがあった。
しかし、そうではないという。そういうものなのか。
一方で、いまどきは「半グレ」という集団もいる。
溝口 警察が半グレを「準暴力団」に指定したと言ったって、実際の扱いは全然違う。
鈴木 「準暴力団」という枠組みができて、暴力団と同じ扱いになるのかと思ったけど、実態は何も変わってなくて、カタギと同じ扱いだった。
溝口 ヤクザがやったらダメなことも、彼らがやったら問題にならない。
「暴力団を解体したら海外のマフィアや半グレが……」という話もたまにみかけるが、半グレについてはあるいていどそういうところもあるようだ。怖い。
ヤクザの本業
鈴木 ……「武闘派」って、ヤクザに媚びるニュアンスというか、カッコ良く言い過ぎてる気がするんですよね。あの頃(注:山一抗争の頃)に生まれた言葉だとしたら、わかる気がします。そもそも、武闘派じゃないヤクザって、本来は存在しないはずですけど。
溝口 ヤクザの本業は何かというと、喧嘩なんです。喧嘩に勝てば金が湧いてくる。怖いというイメージを植えつけることで、一般人は震え上がってヤクザにみかじめ料を渡し、怖いイメージを利用して示談交渉や取り立て、地上げをするんですから。それが今はなくなってしまっている。
ヤクザの本業、本質は「暴力」にある。あるいは、「暴力にある」と思わせる恐怖にある。
いま流行りの漫画『チェンソーマン』では、「悪魔」と呼ばれる存在が、人々の恐怖の大きさによって成り立っている。
そのような幻想が大きくなって、ヤクザというものを成り立たせている。
……いや、それも過去形になっているのかもしれない。
法律や条例、あるていどリアルなヤクザを描いたフィクションによって、ひょっとしたらその恐怖、幻想は失われつつあるのかもしれない。
おれとしても、そういう幻想、その根っこにある暴力はフィクションのなかだけにあってほしいと思うので、歓迎するところではある。
ちなみに、「喧嘩」についてはこんな話もあるらしい。
溝口 愚連隊上がりの大卒ヤクザには、大学でボクシングをはじめ、空手、相撲などの格闘技をやっている者が多かった。
ヤクザの基本は「ステゴロ(素手の喧嘩)でとにかく強くなくてはならない」ということ。20代までに喧嘩の力をつけておくべきとされているので、格闘技を習うのはちょうど良かったんです。
大学で格闘技系の部活をやっていた人から、プロのボクサーや相撲取り、格闘家などになる人もいれば、ヤクザになる人もいて、同じ釜のメシを食った者同士なのでヤクザとの接点が生まれる。この人脈からお互いの世界がつながるんですね。ついでに言うと、格闘系の部活からは警察官になる人たちも多い。右翼も多い。
だから、武道・格闘技系の競技関係者は、暴力団にも顔が利くし、警察にも顔が利くし、右翼にも顔が利く。
映画『アウトレイジ』のビートたけしと小日向文世の関係などが示唆されているが、そういう世界もあるらしい。
深町秋生の小説などにも、大学格闘技経験者の警察官などが出ている印象があるが、そういうものなのかもしれない。
さらにはこんな話まで。
鈴木 昔は神社の境内で博奕をやっていて、その横で相撲の興行を開いていた。ちょうどラスベガスのカジノの横でボクシングの世界戦をやっているのと同じ。賭場の余興だったんです。人足手配の頭が土俵に上がったりするから、刺青の入っている力士もけっこういたと言われている。
こういった賭場の余興だったとか、力士がヤクザだったとかいった部分はいつのまにかすっ飛ばされて、相撲は「神社でやっていたから神聖な神事だ」ということになり、国技にまでなった。
相撲。たしかに大相撲野球賭博問題などもあったが、ひょっとしたらつながっているのかもしれない。
ちなみに、賭場の余興的な相撲としては、映画『菊とギロチン』にちょっとその雰囲気が感じられるかもしれない。この映画は「女相撲」を取り扱っていたが。
ヤクザと政治と法律
ヤクザとの関係が疑われる存在としては、政治家というものがある。
かつての日本国首相もヤクザとのいざこざについて語られている。
ヤクザと政治。
溝口 かつて六代目山口組が、弘道会を中心に「民主党を推そう」ということになって、動いたことがあった。2007年の参院選の頃でした。
鈴木 ありましたよね。民主党が打診したわけでもないのに、なんであんな動きをしたんでしょう。
溝口 労組関連で関係があったのか、恩を売るために自主的に動いたのか、経緯はわからないが、ともかく民主党を推していた。
ヤクザといえば、なんとなく与党に肩入れして利権を……みたいなイメージもあるが、こんな動きもあったという。ぜんぜん知らなかった。
一方で、政治家から見てヤクザとつながるメリットはなんなのか。
溝口 地元の最大の情報通が暴力団なんです。選挙でなら、敵陣営のスキャンダルを裏社会に通じたヤクザはよく知っている。
このような「地元」が今現在も存在して、ヤクザが情報通なのかどうかはわからない。
一般市民からして、政治は遠い。地方の狭い社会ではどうかわからない。
とはいえ、かつては政治団体まで立ち上げ、立候補しようとしたヤクザもいた。
「我々も政治に関与しなければならない」と明言した大物もいた。
ただ、暴対法、暴排条例で、政治家がヤクザとつながることは減っているらしい。
しかし、ヤクザが政治やなにかと通じるならば、それなりの知識や知恵も必要になるだろう。
鈴木 もし東大出のヤクザがいたら、それだけでスクープになりますよね。だから、私、東大出のヤクザをずっと探しているんです。この20年くらい(笑)。まだ見つかっていない。
意外に多い大卒ヤクザ。半グレもインテリが少なくない。
とはいえ、ヤクザ社会で大卒は出世できないという。しかも、組長クラスは息子を大学に行かせたい。今は儲からないし、先も見えないからだという。
しかしなんだろうか、ヤクザを陰で操ったり、ブレーンになっている「東大卒」はいたりしないんじゃないかと、フィクション的な妄想はできてしまう。
ヤクザにとって知識、社会に対する知識とはなんなのか。その一つが法律であり、さらには憲法である。
鈴木 だから、法律とか人権とかそんな高尚な話ではなくて、ヤクザからしたら、「武器としての人権」であり、「武器としての法律」なんですよね。自分たちの都合の良い人生をおくるための武器で、時と場合によっては法律を破っても捕まらないようにするための武器にして使う。
今、憲法改正の議論のなかで、「法律は人を縛るもの、憲法は権力を縛るもの」という考え方があるらしいけど、まさにヤクザにとっての憲法は権力と戦うための武器であって、その意味では先進的なのかもしれません。
ヤクザの大物のなかには「裁判を受ける権利」(憲法第32条)の理念を正確に理解していた人もいるという。家にいるときは六法全書を座右においていたらしい。
一般市民にとって「法律」とはなにかトラブルにあったときに、あるいは起こしてしまったときに関わるものという感じだが、存在自体がトラブルであるヤクザにとって、法律はもっと親しいものなのだろうか。
暴力という実力行使以外に、法律まで使われては困ってしまう。
ヤクザと憲法
暴力と法律を武器に社会に脅威を与える。そんな存在が許されるわけでもなく、対策も取られてきた。
暴対法と暴排条例。これは効果てきめんであった。しかし、そこには法のなかの矛盾のようなものがあるという。
溝口 ……暴力団を組織することは憲法の「結社の自由」で認められていて、暴対法という法律そのものが、指定暴力団という形で暴力団の存在を認めているということ。
多くの人が誤解していますが、暴力団の結社は違法ではない。暴対法は存在を認めたうえで、こうした行為をしたら懲役や罰金などを課すと規定しているわけです。
これがイタリアや香港だったら、マフィアは「結社の自由」の除外規定に該当し、存在自体が認められていません。結社を結ぶこと、加入をよびかけること、メンバーになること、この3つをすべて禁止している。ここの違いが日本の特殊性と言えます。
暴対法は「結社の自由」をもとに、その存在を認めている側面はある。
一方で、暴排条例では暴力団員の生存権に関わるような規定がある。だから法律ではなく条例なのである。
最近では「ヤクザはETCを使えなくなる」なんて話もあったりして、しめつけはどんどん厳しくなっている。
ヤクザは武器としての法律を使ってどこまで対抗するのか。このまま消えていくようになればいいとは思うのだが。
とはいえ、映画『ヤクザと憲法』を映画館でわざわざ見たおれのようなものからすると、ちょっと考えてしまうところもあるのだが。
『ヤクザと憲法』、映像作品としてもとてもおもしろかったのだが、今は見る手段はないのかな。
ヤクザのいない世界へ
江戸時代以来、日本に存在したヤクザは男伊達を売る「半社会的」存在だった。「何某組」と堂々看板を掲げる犯罪組織は他の国にはなかった。その意味でヤクザは特殊日本型の犯罪組織として独自の存在だった。それが今、消滅に近づいている。
その後にアングラ化した半死半生のグループが残る可能性がある。こうした状態は日本の裏社会が特殊日本型の犯罪組織を失い、遅ればせながら諸外国並みになったともいえよう。ヤクザのアングラ化は必ずしも恐るべきことではない。
(溝口敦)
先にも書いたが、「ヤクザがいなくなれば半グレや外国の勢力が……」という話もある。ヤクザ自体のアングラ化という話もあるだろう。とはいえ、かの溝口敦が「必ずしも恐るべきことではない」と言い切っている。
おれはどちらかといえば、そのように信じたい。やっぱり根底には「なんで暴力団という存在がなかば認められているのだろう」というところがあるし(そこには「結社の自由」などが絡むことはわかっているが)、暴力が力を持つことも、暴力が力を持っているという幻想が力を持つことも望ましいとは思えないからだ。
ヤクザというものの悲惨な現状が知られ、知った上で、そのような幻想を社会が殺して、より恐怖のない世の中になればよいと思っている。「半」社会的存在は滅せられ、「反」社会的存在はその行為によって取り締まれる。それでよい。
ヤクザは昭和のヤクザ映画や、現代のフィクションのなかだけに生き残ればよい。違うだろうか?
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著者名:黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
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双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
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