東京とその近郊にお住まいのみなさん。
みなさんは「東京をやって」いますか?
先日、ある場所で「東京をやっていこうとしている人たち」というフレーズを耳にした。
その時フレーズが暗に指し示していたのは、たとえば、タワマンに住んでいるパワーカップルの人たちだったりした。
ただ東京に住んでいるのでなく、彼/彼女らは「東京をやっていこうとしている」というのだ。どういうことか。
正反対の人々を連想すれば理解しやすいかもしれない。東京には「東京をやっていこう」としているわけではない人たちも住んでいて、そちらは二種類に大別できる。
ひとつは、東京をやっていこうとしていなくても自動的に東京的なライフスタイルや佇まいになる人たち。親の代から都内やその近郊の邸宅に住んでいて、なんの屈託もなく東京で暮らしている人たちだ。
もうひとつは、首都圏の不動産持ちではなく「東京をやっていこう」としているわけでもない人たち、とりわけ東京的なライフスタイルを意識するのでなく我が道を進む人たちだ。
東京やその近郊に住んでいるからといって、東京的なライフスタイルなるものを意識しなければならない道理はない。一例を挙げるなら、首都圏にいながらにしてアルファードやヴェルファイアを愛車とし、地方のロードサイドのような生活をしている人などがそれにあたる。
そもそも東京的なライフスタイル、特にタワマン文学や『東京カレンダー』的な東京的なるものは、イメージ先行の蜃気楼でもある。そこにこだわらない人たちから見れば、東京的なるものは奇妙に形式ばった、こだわるに値しないものではないだろうか。
少なくとも地方在住の私にはそうみえるし、世田谷区や目黒区の自宅から都内に通勤している人たちから見ても、タワマンが憧れをけん引するアイコンになっているとは思えない。もっと好き勝手に首都圏で暮らしている人たちも同様だろう。
じゃあ、いったい誰のためのタワマンなのか? という疑問が当然沸いてくる。
しかしタワマンが、ある種の理想やライフスタイルを引き受ける巨大建築物である側面も否定できない。
ときに、タワマン文学やタワマンポエムは揶揄の対象になることもあるが、それでもあの催眠術のようなフレーズが流通し続けてきた一端には、つべこべ言ってもタワマンが夢を仮託され得る商品であり、売る側としても、夢や理想やライフスタイルの皮をかぶせておく必要性があったからなのだろう。
でもって私の見る限り、その夢や理想やライフスタイルは完全なる蜃気楼とも言い切れない。
私は都内の街歩きを長らくやっているが、ビル街にはビル街の、下町には下町の、東京の魅力があると感じる。タワマンが林立している地域も例外ではなく、タワマンに住んでいる人たちの暮らしの一端を覗く機会がある。
たとえば東京湾岸のタワマンが林立するエリアを休日にうろつくと、カフェでくつろぐ親子、公園で子どもを遊ばせている親子などをたくさん見かける。
ご近所の公園やカフェにもかかわらず、子どもの衣服にも親の衣服にも金がかかっていて、くたびれた衣服を着ている者は見かけない。理科や社会の知識について子どもに熱心に教えているお父さんも見かける。タワマン併設のコンビニに入ってみると、クラフトビールやワインがずらりと並んでいる。
そうした暮らしぶりは、タワマンについてまわるさまざまなフレーズを思い出させるものだ。
なるほど、ここに住んでいる人たちはフレーズどおりの暮らしを本当に実現している。いわく言いがたいものではあるけれども、その佇まい・その身のこなし・その暮らしぶりからはタワマンの広告文句と矛盾しないいものが感じられた。
「物語のある生活」というか。そのような物語性は、ある程度までは集まってきた人たち自身に由来しているのだろう。
と同時に、そこに集まった人たちはタワマンが帯びている物語性にも引っ張られ、タワマン文学やタワマンポエムに乗っかるかたちで自分たちのライフスタイルや価値観をそのように意識し、構築しているのではないだろうか。
もちろん「東京をやっていく」というスタンスはタワマン文学どおりに生きることとは限らない。たとえば衣服や飲食店についてのこだわりをとおして自身のアイデンティティのうちに「東京をやっていく」感が宿っていく人もいるだろう。
そうしたこだわりを揶揄する人もいるに違いない。が、ともあれそれは「東京をやっていく」というひとつのスタイルたり得る。
また、ちょっと的外れかもしれないが、田舎者の私には、SAPIXなどに象徴されるお受験戦争も「東京をやっている」営みのようにうつる。
ひょっとしたら、首都圏で子育てをしている人たちには小学校受験や中学校受験は不可避なのかもしれない。が、本当にそうだろうか? 本当にそうだとして、いったいどこまでお受験に踏み込み、コストを支払うのが妥当なラインなのか?
そこに「東京をやっていく」という物語に流され、前のめりになってしまう罠は潜んでいないものか?
ツイッターで活躍してきた麻布競馬場さんのショートストーリー集、『この部屋からは東京タワーが永遠に見えない』には、そうして「東京をやっていく」という物語に流され、ほとんど過剰に「東京をやっていこうとした」結果としてアイデンティティの定まらない人物が幾人か登場する。
東京を知れば知るほど、東京が遠くに感じます。東京の真ん中に住んでいるのにね。どの駅も10分はかかる南麻布の陸の孤島の、家賃9万のボロアパートですけどね。神泉あたりのお店、調べたけど安いとこも多いですね。今度開拓してみようかな。お金もセンスもない人にとって、僕みたいな人にとって、東京は生きづらいですね。 『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』
この作品集の登場人物たちには「東京をやっていこうとしている」という言葉がよく似合う。彼らには「東京」への過剰適応、いや、「東京」への依存というべき性質がみてとれる。
それで自分自身を救おうと頑張っているのに、実際には足元をすくわれている。
「東京」にアイデンティティを仮託しようとした結果、「東京」頼みだからかえってアイデンティティが宙ぶらりんのままの人々、それかショーウィンドーやインスタグラムの向こう側のキラキラしたものに手を伸ばしても手が届かない人々。
作者の筆致は、少なくとも同作品集においては「東京をやっていこうとしている」人たちに対して手厳しいようにみえる。
さまざまに配慮の行き届いた同作品集において、私がなるほどと思わずにいられなかったのは「東京をやっていこうとしている」人々が自ら望んでそうなったというより、親や家庭も含めた周辺環境をとおしてそうなっていった、そんなストーリーラインが目に飛び込んでくるところだ。
「東京」への過剰適応や依存を深めている人たちのあくなき執着の原点はいったいどこにあるのだろう? そういった読み筋で作品を読み、いつまで経ってもアイデンティティが結実しない背景について考察すると長い話になるが、それはここでは語らない。興味のある人は、作品そのものを手に取ってご覧になるといいように思う。
「東京をやっていくこと」自体が悪いわけじゃない
この『この部屋からは東京タワーが永遠に見えない』にしても、インターネット上、特にツイッターに流通している大小のタワマン言説や「東京」言説にしても、そこにはいつも負の影が見え隠れしている。パパ活のような危うい活動が関連づけられることも多い。
しかし「東京をやっていこうとしている」ことのすべてが転落や空白を意味しているようにも、また見えない。
タワマンで暮らしている人が皆、自分の部屋からの景観に神経質になるわけではないし、「東京」への適応や依存にしても、ほどほどなら悪いものでもあるまい。
景色の良い部屋に住み、クラフトビールを飲み、お受験に一喜一憂する。それも人生だろうと思う。
要は程度の問題である。「東京」をやっていくのも度が過ぎれば空回りになるし、ほどほどに付き合っていけるなら生きるうえでの道標になる。そう考えて受け取るぶんには、あの催眠術のようなタワマンポエムも悪いものじゃないようにみえる。
東京という多種多様なライフスタイルと物語が交錯する空間では、「東京をやっていこうとする」にしてもその反対にしても、案外、受け取り方の湯加減こそが肝心なのかもしれない。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』
Photo by Kentaro Ohno